2017.01.09

マーティン・スコセッシによる『沈黙』の映画化 1

マーティン・スコセッシ(Martin Scorsese)というアメリカの映画監督が遠藤周作の『沈黙』を映画化し、今年、日本でも公開されるようだ。

しかし、『沈黙』?
私たちはまだその亡霊に悩まされなければならないのか?

対比

◎ 新潮文庫『沈黙』から。

「ほんの形だけのことだ。形などどうでもいいことではないか」通辞は興奮し、せいていた。「形だけ踏めばよいことだ」
 司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖[きよ]らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つ*ため十字架を背負ったのだ。

p.268(Ⅷの最後)

* 管理人注:「分つ[わかつ]」とは、次の引用にも見るように、「分かち合う」という意味だろう。

(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私に言った。
(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)

p.294(Ⅸの最後)

◎ 福音書から。

 わたしの味方であると人々の前で宣言する者すべてを、わたしもまた、天におられる父のみ前で、わたしの味方であると宣言する。しかし、人々の前でわたしを認めない者を、わたしもまた、天におられる父のみ前で認めないであろう。

聖マタイ 10:32-33

 さらに、あなたたちに言っておく。わたしの味方であると、人々の前で宣言する者すべてを、人の子もまた、神の使いたちの前で、自分の味方であると宣言する。しかし、人々の前でわたしを認めない者を、わたしもまた、神の使いたちの前で認めないであろう。

聖ルカ 12:8-9

わたしとわたしの言葉を恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の父と聖なる使いたちとの栄光に包まれて来るときに、その者を恥じるであろう。

聖ルカ 9:26

フランシスコ会訳

上で「私たちはまだその亡霊に悩まされなければならないのか?」と書いたが、その「私たち」とはカトリック信者のことである。
と云うのは、今回の『沈黙』の映画化を喜ぶようなカトリック信者が、まだ居るようだからだ。しかし、そのような人たちは、上のような、これほど鮮やかな対比を、一体、ご自分の人生の中でどのように運ぶつもりなのか ???

聖マタイ福音書では、上の引用箇所の “前” には「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れることはない」とある。そしてその “後ろ” には「自分の十字架をになってわたしの後に従って来ない人は、わたしにふさわしくない。自分の命を保とうとする人はそれを失い、わたしのために命を失う人は、それを得るであろう」とある。聖ルカ福音書でも同様である。

であるから、聖主は、明らかに、御自分の弟子たちがこれから出遭うことになるだろう「殉教」をも含めた被迫害を念頭に、これらの御言葉を言われたのである。

だから、主が「お前のその足の痛さだけで、私にはもう充分だ」とは仰っていないのは確かである。

だから、遠藤周作がどのように善意でも、どのように優しくとも、彼が信仰世界を或る種「偽作」したのは確かである。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

次へ
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ