2016.08.08

山元眞神父は最近、「本田哲郎訳聖書」から引用している

本田神父

山元神父

エクレシア九州TV」というサイトがある。作りが(内容ではなく)なかなか立派なサイトである。眺めれば「ローマ」とか「バチカン」と云った語も散見され、どうやらカトリック・サイトのようである。けれども、「Profile」や「About me」のようなものがないために「運営の主体」がハッキリしない。タイトルには「九州」という文字が含まれるが、さりとて九州のいずれかの司教区との結びつきを感じさせるものでもない。このサイトは或る種の “匿名性” を形成している。見かけが立派なだけに、かえって気持ちが悪い。

しかしまた、「運営の主体」を完全に隠しているのでもない。結論的に言うならば、このサイトは現在「小郡[おごおり]教会」と「鳥栖[とす]教会」(共に福岡司教区)の主任を務めている山元眞[まこと]神父が中心となって運営しているものと思って間違いない。

そして特に、「エクレシア九州TV」の上部のナビゲーションには「ひかりの道」というのがあるが、これなどは完全に「山元眞神父のブログ」である。しかし、どういうわけか、ここでも、そのことが「明示」されているとは言えない。

しかし、これも完全に隠されているわけではない。確認する方法がある。その一つは、「ひかりの道」の トップページ をブックマークしようとしてみることだ。「ひかりの道 エクレシア九州テレビ | 山元神父ブログ」というタイトルで登録されるだろう。

それだけではない。もう一つの方法は、小郡教会のサイト と 鳥栖教会のサイト は共にその上部のナビゲーションに「主任司祭からのメッセージ」というのがあるが、それをクリックしてみることだ。「ひかりの道」にジャンプするだろう。

だから、「ひかりの道」は山元眞神父のブログなのである。

要するに、それらのサイトは「運営の主体」を完全に隠しているのではないが、同時に、「明示」することにはあまり気が進まないのである。よく閲覧しに来る人に分かればいいので、一目で分かるようなものではありたくないのである。サイト自体は多くの人に見てもらいたいとしても、自分の「名札」は胸から外して目立たぬ場所に置いておきたいのである。

しかし、山元神父様はインターネットを通じての福音宣教に大変熱心であられ、YouTube では御自身を臆さず前面に出しておられるのだから、私は提案しますが、「ひかりの道」でも、初めて訪れた人でも直ぐに「ああ、このブログは山元眞という神父様が書いているのだなぁ」と分かるようにしてはどうでしょう。

やっと本日の主題に入る。

「ひかりの道」は最近、「本田哲郎訳聖書」から引用している

いや、その歴史は浅い。私の調べが確かならば、2016年7月(先月)17日の記事 からである。しかしそれでも、それ以来、ほとんど毎回のようにそれを引用している。

その先月17日の記事から紹介しよう。下線強調は私。

http://ekklesia.kyushu.tv/hikarinomichi/?p=7289

[鳥栖]年間第16主日説教
(2016.7.17.)音声

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鳥栖教会での11時からの年間第16主日のミサ説教[6分][鳥栖]2016.7.17.年間16←ここから聞けます。

《福音朗読》ルカ10・38-42 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」  新世社

マルタとマリア—低みから立つ者どうしでも、必要なことは人それぞれ

 一行が道を行くかたわら、イエスはとある村に立ちよった。マルタという名の一人の女性がイエスを家に迎え入れた。マルタにはマリアという妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話しに聞き入っていた。マルタは、あれこれもてなしのためにいそがしくしていたが、そばに来て言った。「主よ、妹がわたしだけにもてなしをさせているのを、あなたは気になりませんか。わたしを手伝うように言ってやってください」。すると、主はマルタに言った。「マルタ、マルタ、あなたはあれこれ気づかい、心配してくれている。必要なことは、人それぞれだよ。マリアは自分にいいほうを選んだのだ。それを取り上げてはならない」。

カテゴリー: [鳥栖]説教 | 投稿日: 2016年7月17日 | 投稿者: yamamotomakoto

「人それぞれ」って・・・

激しくズッコケ

この一事だけでも本田神父の一大特徴が分かるというものである。一行でまとめれば──
本田神父の感覚は信じられないほど卑俗である。

私は、別に本田神父を「やっつけたくて」そのように言うのではない。どうしてそれが「卑俗」と言われねばならないか、天主の信者たち、「説明」が必要なのか?

山元神父様も、よくこういうものを載せる気になれますね。

更に、山元神父は2015年5月には「本田哲郎神父と語る会」を自ら呼びかけている。

ひかりの道 2015年5月6日

本田神父は「仲間」に不自由しない。

かつては甲府教会(横浜司教区)、現在は逗子教会(横浜司教区)の主任を務めている細井保路[やすみち]という神父様は福音書の同じ箇所について次のように「です」と言っている。

聖愛幼稚園

書き下ろし連載1
2人の姉妹
ルカ福音書10章38~42節

細井保路

(…)するとイエスさまは、こう答えるのです。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただひとつだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない」。

 ちょっと読むと、「雑事に追われるよりも、神さまの言葉に耳を傾けるほうがすばらしい行為だ」という教えのように思ってしまいます。しかし、「必要なこと」という言葉の前に、「それぞれの人にとって」という言葉を補って読んでみてください。「その人らしい良いこと」があるのだとイエスさまは諭していらっしゃるのです

聖書の原文にはない「それぞれの人にとって」という言葉を勝手に “補って”、「これがイエス様の本意です」と堂々と言うのである。

注)「書き下ろし連載」とあるのは、彼の「聖書のお話」の連載の意味である。で、彼のこの文章は幼稚園のサイトにあるのものだが、幼稚園児向けの文章ではない。幼稚園児はこのような文章を理解しないのだから。彼は普通に大人たち(職員や親御さんたち)を意識しながら書いているのである。

幾つかの標準的な訳を見ておこう。

聖ルカ福音書 10:38-42
(フランシスコ会訳)

 38 一行は旅を続けて行った。イエズスがある村にお入りになると、マルタという女が、イエズスを自分の家に迎え入れた。39 彼女にはマリアと呼ぶ姉妹があった。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。40 しかし、マルタはかずかずのもてなしのため、忙しく立ち働いていた。それで、イエズスに近寄って、「主よ、わたくしの姉妹はわたくし一人にもてなしをさせておりますが、あなたはなんともお思いになりませんか。手伝うように言いつけてください」と言った。41 すると、主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに心を配り、思い煩っているが、42 必要なことは、ただ一つだけである。マリアは、その良いほうを選んだ。それを彼女から取りあげてはならない」。

ラゲ訳  必要なるは唯一、マリアは最良の部分を選めり。

私はこの箇所を、カトリックになる前は「なくてならぬもの」という印象的な言い方で覚えていた。

無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。

1954年、プロテスタント口語訳

ギリシャ語やヘブライ語が一文字も読めなくても、私にはイエズス様のこの御言葉が分かる気がする。司祭たちがヘンテコな読み方をするのは、やはり彼らが主の御言葉の中の厳しい要素を見て見ぬふりをしているからだ。

イエズス様は「霊的」な事柄の中に生きておられた。人間に対してはその「救霊」を第一義としておられた。この世の事物を馬鹿にするのではないけれど、しかし「重大性」ということに於いて、「霊的」なこと、「霊魂」に関わることは、地上の事柄とはほとんど比較にならないほど重大であることを知っておられた。(天主なのだもの、それは知っている)

たとえこの世で恵まれなくても、それは「永遠」と比べれば目の瞬きの間のことであるかも知れなかった。対して「天国」や「地獄」は共に「永遠」であった。

人間の本質は「霊魂」である。肉体は「外套」である。この地上にある間は外套もそれなりに大事にしなければならないとしても、しかし “霊魂以上に大事にする” のはよくない。(この世の生活はいつか「終わる」のである。幸福であっても不幸であっても)

「愛」ということにしても──客や隣人を愛を以って「もてなす」ことは良いことである。それを否定し、軽蔑するものではない。しかしそれでも、「比較上」ということが「宗教」という世界の中にはある。道で倒れている人を放っておいていいということにはならないけれども、しかし、人を「救霊」に向かわせ、そこに結びつける愛が「最良」である。(私は若い頃、複数の宗教を経験したが、第二バチカン公会議後のカトリック教会ほど、「愛」と云えばただ地上の「社会的愛」だけであるかのようになってしまっている宗教も珍しいと思う)

イエズス様はマルタの「もてなし」を否定し去り給わなかった。そしてまたイエズス様は、マルタがイエズス様を愛し、イエズス様に対する信仰があったことも御存知だった。しかしそれでも、人間はほとんどその本性上、「世の煩い」に捕まりがちで、「霊魂」の問題から離れやすい(と云うか、圧倒的大多数の人は、昔も今も、「霊魂」と「肉体」の二つを考えない。「肉体」の方だけを考えるのである)。イエズス様はそのことをよくよく御存知だったから、「地上的なことも必要としても、それは “第一” ではない。それは飽くまで “第二” の位置に置いておきなさい」という意味で仰せられたのである。「良い方」とか「最良の部分」という従来の翻訳は間違っていない。

それは「人それぞれ」などという教えでは断じてない。
そんなズッコケた解釈をする人が居るとは、呆れて物が言えない。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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