京都聖母女学院短期大学は少なくとも過去5年間、カトリック信 者ではない教職員に御ミサの侍者をさせていたようだ(今も?) |
上では「ようだ」と推量の形にしたが、下を見る限り「事実」と思うしかないだろう。京都にその法人事務局を置くカトリック・ミッション・スクール「学校法人 聖母女学院」が公開している文書からである。文中の強調と中略記号「…」と画像とリンクは管理人による付加。
この文書の在処を示しておけば──
[トップページ] 学校法人 聖母女学院 --> [上部ナビ] 学院案内 -->[プルダウン]本学院の状況 --> 学校評価・自己評価 --> 2009年度 藤森キャンパス 聖母女学院短期大学 2009年度 自己評価・自己点検(PDF)
であるから、これは聖母女学院(沿革)の京都・藤森キャンパス内にある京都聖母女学院短期大学の2009年度の「自己評価・自己点検」の文書である。文責は特に見当たらない。しかし、たぶんそれに当たるものが最後のページにある。「自己点検・評価委員会」として10名の名が記されてある。
それらの人たちはつまり、「私たちは、2005年から現在(2009年)まで、ミサ聖祭の侍者の役割をカトリック信者ではない教員にお願いしている」と “自己点検” し、“自己評価” したというわけであろう。 |
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そして、それに続く文、「次年度もより一層(…)より多くの教職員に侍者の経験を提供できればと考える」。彼らは「カトリック信者でなくてもミサ聖祭の侍者を務めてよい」と考えているのであるから、この「より多くの教職員」という言葉は、当然、「カトリック/非カトリックの別なく、より多くの本学の教職員」ということであるだろう。
そして、「経験を提供」という言い方も気になる。ここには感覚のおかしさがある。「信仰の感覚」のおかしさが。
「侍者」の役割は「経験の提供」などと云った言葉の下に置かれるべきものではない。信者を対象にしてさえである。いわんや非カトリック者を対象にしておや。
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「侍者」という言葉:
ひょっとしたら、彼らはこう言うかも知れない。「 “侍者” と云っても大したことではないのです。“介添え” とあるように、本当にちょっとした手助けなのです」と。しかし、それなら私は問おう。「 “介添え” なら “介添え” でもいいです。しかしとにかく、その役割に於いて、カトリック信者ではない教職員にどういうことをしてもらっていましたか? 具体的に言ってみて下さい」と。彼らはこれに答えられるのか?
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前述の最後のページに「自己点検・評価委員会」の “委員長” として「ダニエル・コリンズ」という名が記されてある。この人はイエズス会士であり、2007年からおそらく2011年辺りまで京都聖母女学院短期大学の “学長” を務めていたようだ(Wikipediaの記述は間違っているのではないか)。今回取り上げた文書は同校のものであるから、そこに彼の名があるのはもっともなことだ。御高齢の人をあまり責めたくはないが、彼は上の文章に責任があるだろう。
この神父様には、私は以前、サンタクロースのところでお目にかかった。彼は人間に対して愛ある司祭なのかも知れない。
「愛」はいい、もちろんだ。けれど、「愛」の名の故に「ん? 典礼法規? 堅いこと言わないで下さい。愛でしょ、愛」となるなら考えものである。
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学校法人の「理事長」という立場は、実際の教育現場、そして今回の場合、学内のミサ聖祭の現場と、どれほど親しいのか。私にはよく分からない。しかし、彼女はカトリック教徒であるから、一応書いておく。
2009年当時の聖母女学院の理事長は「廣岡洋子」という人である(参照)。日本のカトリック界では少し名のある人らしく、「日本カトリック・ボランティア連絡協議会」の会長を務めているようだ。若い頃、チェ・ゲバラに心惹かれたこともあったという(参照)社会派である。
「社会的愛」はいい、もちろんだ。けれど、その傾向の人たちは往々「霊的」なことが分からない。
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」