※ 但し、こちらを参照のこと。
先日、こう書きました。
或る意味、教会も「政治」と無縁でないのです。「統治」するわけですから。(…)
私たちは「神父様」と聞けば「神父様」と思います。しかし、第二バチカン公会議後の “典礼の改革” に当たった神父様方については、「神父様」とお呼びするより「為政者」と、「身勝手な為政者」とお呼びする方が適切なのではありませんか?
あなたは、現在 TPP やら 集団的自衛権 やら マイナンバー やらを盛んに推し進めようとしている日本の為政者たちと、第二バチカン公会議後の「改革」をやった日本の * 聖職者たちの間に、なにか、或る種の類似性を感じませんか?
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日本の聖職者だけではないけれど、的を絞るために。 |
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◎ “民主的” な顔して、実は国民や信者の声を殆ど(或いは全く)聞いておらず、国民や信者が望んでもいないことを殆ど「独り決め」して、自分たちだけでドンドン推し進めてしまうこと。
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もちろん “民主主義” も完全なものじゃないけれど。 |
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◎ それらの「改革案」は自分たちの頭の中から出て来たものではなくて、元々は「外来」のものであること。
だから、私は、次のような考えは可笑しいと思うのです。
優越感を除去せよ
選民意識、あるいは優越感というようなものが、もしカトリックの中にあるとしたら、強く否定し、除去しなければならない。(…)
ではその選民意識、優趣感は何処から出てくるのだろうか。A先生は、『それは力トリックを舶来と考えているのですよ』という。
日本人、とくに都会人には舶来をありがたがる傾向が強い。力トリックが舶来の宗教だということで、その中にいる自分を、一般の人より一段高いところに置いて考えている、というのである。
またA先生は『舶来ということを抜きにしては、力トリックは考えられない。そういう意味では、力トリックはまだ日本に土着しているとはいえないのではないか。(…)』(…)
なぜ「可笑しい」かと云うと、「日本人の生活感情へのミサの適応と受肉」* という考えもまた或る意味「舶来」のものだからです。
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「推薦のことば」に於けるソットコルノラ神父の言葉 |
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そして、第二バチカン公会議後の改革路線に同調した人たちも(全ての人とは言わないが)、心の中にはやはり、自分の「進歩性」に対する “自覚” を、“自負” を、或いは “優越感” までも、持っていたでありましょう。(人間なんてそんなものです)
◎ 国民や信者の方を向いておらず、“もっと大きなもの” の方を向いていること。(自覚の有無は別として)
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“もっと大きなもの” とは何かって? |
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「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」