2015.10.05

「独善的」 という言葉は
判断に迷いがちな人の口からしばしば出る

私にとって誰かが「独善的」かどうかは問題になったことがない。
「正しいかどうか」だけが問題だ。

以前も取り上げさせてもらったものだが。

ちょうど本日の福音がイエスによる12使徒の選びであったように、福音は常に独善的な一人の独走を戒め、共同体的交わりの中で生きるようにと勧めています。この世における組織体としての教会と、霊的な交わりとしてキリストのからだとしての教会の二つの側面を同時に持っているのが教会の特徴です(教会憲章8)。組織体は規則で制することが出来る存在です。規則を前面に押し出しすぎると、一人ひとりが独善的な信仰の殻に閉じこもることを可能にしてしまいます。その場合、共同体的な交わりは、物理的な存在として必要かもしれませんが、そこには霊的な交わりが欠けてしまう恐れがあります。霊的な交わりとしての共同体性を突き詰めていくことは、絶対に必要です。そして、そのようなわけで、教区においても司教にとっては顧問団や司祭評議会、そして宣教司牧評議会といった集まりが不可欠です。福音的に生きるとすれば、司教が一人で勝手に物事を決めていく時代ではないとも思うからです。

2007年9月11日 (火) この数日の講演会  |  司教の日記

何を言っているのか分からないところのある文章である。
果たして、彼自身、分かっているものかどうか。

私は、彼は「現実で考える」のでなく「言葉で考える」人の典型だと思う。或いは、こう言おう、「現実と確[しか]と結び付いた言葉」を使うのでなく(その結び付きを毎度確かめるのでなく)、かなり「何となくのイメージ」というに近い言葉を使う人、である。
しかしそのような人は、実態としては、言葉を「使う」のでなく、言葉に「使われる」のである。

しかし、そういうのが人間の常態だったりする。誰もがそうだったりする。言語的生物・人間は、言葉でペラペラペラペラ話しているが、自分の口から出た言葉が果たしてどれほど「現実」と確かに結び付いているかは、大して気にしていないのである。そしてまた、「鶏が先か卵が先か」じゃないけれど、大して気にしていないからこそまたペラペラペラペラ話し続けることも出来るのである。

彼は「独善的」という言葉の周囲に起こる「人間の現実」をよく見ているだろうか。「共同体の一致」ということがよく言われるが、彼は、「共同体が間違った選択に於いて一致する」ということがない、起こり得ないとでも思っているのだろうか。真剣に考えたことすらないのではないか。

私がもし司教だったら(そんなことはあり得ないが)、自分の司教区から「手による聖体拝領」を今すぐ取り外す。そして、昔の「舌で受ける御聖体拝領」に戻す。理由は、「当時の日本は教書『メモリアーレ・ドミニ』の “手による拝領が既に普及している場所に於いては” という条件を満たしていなかったので、その特別許可を求めたこと自体に問題があった」(参照)とする。司教協議会が何か言って来たら、「あなた方はどう思うか」と反問する。そうして、「司教協議会は教会法上、司教に何かを強制か命令かする権限があるのか」と問う。「司教協働性(Collegiality)の名の下に全国的な統一を図ることは最高の価値を有するのか」と問う。そして、そんなことはないのであって、司教には使徒座と結びつつ自分の管轄区の典礼の方針を定める権限があるのだから、誰が何と言って来ようと「教書(メモリアーレ・ドミニ)との正しい関係」のところへ戻す。たとえ、物事を深く見る目のない人々が、それに「独善的」という語を付そうとも。

そういう動きを「過激」と呼び、“そんなことをすれば教会が今にも「分裂」する” かのように言って来る人が出て来るだろう。しかし、心配無用、理由をよく説明され、促された信徒たちは、直ぐにも「(跪いて)舌で受ける御聖体拝領」を受け容れる。

本当はこういう事を、勇気のある司教がやるべきだ。

私は、菊地司教の上の言葉よりも、澤田先生の次の言葉の方を百億倍高く買う。

〔司教協議会は〕教皇権や司教制とは異なり神法による組織ではないにもかかわらず拡大、肥満、官僚組織化し、一人ひとりの司教の責任が忘れられ勝ちになっています。一人ひとりの司教はキリストの代理者、使徒の継承者であり、自分の責任で自分の羊の群を牧する権利と義務があるのに、それが忘れられて司教会議が何よりも大切にされる風潮が出てきました。「わたし一人で決められないから次の司教協議会に諮りましょう」ということになる。

澤田昭夫著『第二バチカン公会議の影と光』(世のひかり社) p.28

Collegiality(事実上の集団主義)というものもフリーメイソンの仕掛けた罠だということに、気づかないのですか?

(第二バチカン公会議以前に於いても司祭たちの集まりはあったけれど、第二バチカン公会議後にできた「司教協議会」ほど力を持ったものではなかったでしょう?)

どうしてそれが罠に「なり得る」かと云うと. . . 人間というものに於いては、優れた判断力を持った人は少数で、多くの者は「凡庸」だからです。

フリーメイソン、或いはその中核たる「偽ユダヤ」は、悪知恵であれ、確かに頭がいいのです。理解力があるのです、「人間」というものについて。あなた方より。遥かに。(誉めていません。確かに「悪知恵」なので)

彼らは、いわゆる「衆」(集団)に力を持たせれば教会の全体の質が「放っておいても」下降することを知っていて、それを見越して、その罠を仕掛けて来たのです。(能天気に「連帯性は大事だ」なんて言ってる場合じゃないのです)

日本の司教様方がそれを見破り、「一致して」彼らに反撃し始めたら、それは大したものです。悪魔もビックリ仰天です。
しかし、普通、そんなことは起こらないのです。人間の大部分は「凡庸」だから。

少しぐらい知的に研鑽を積んだからと云って、少しぐらい「一生懸命やっている」からと云って、そして少しぐらい「みんなで考えた」からと云って、この「霊的真理」というものを相手とする難しい世界に於いて、ご自分たちが「凡庸」の範疇を免れるとお思いですか?

「失礼イラスト」追加

凡庸、しかし、手に負えぬほど自身満々。「それは過去の習慣なんです」「それは昔の教え方なんです」「それは昔の教会がした強調なんです」

私の指摘は「失礼」ですよ。でも、それでも、やはりこれを思い出して頂かねばなりません。参照

偉そうに言いますが、聞いて下さい。そして、よく考えてみて下さい。物事には「失礼かどうか」ということの他に「事実かどうか」ということもあるということですよ。人にはプライドの焔を自ら消すべき時もあるということです。カチンと来ては駄目です。

神父様方の使命が果たされますように。(私らのも)

蛇 足

注)私は、以下を、特に〈成相神父様贔屓〉で書くわけではないのです。私は事柄自体を扱おうとします。

「独善的」と言えば、カトリックの信徒たち運営の「みこころの部屋」は今もまだ成相神父様を「独善的」と言って非難している記事を掲載し続けています(参照)。この事例についても、私は今回の表題の言葉を付そうと思います。そして、彼らもまた「自信満々」です。いろいろ書いてます。で、いわゆる〈一般的〉には、彼らに分がある所もあるでしょう。そりゃ、ありますよね。しかしこの問題の最も核にあるのは「メジュゴリエの真偽」の問題です。で、「教会当局の判断に従う」という姿勢は、カトリック信徒の姿勢として、そりゃ「分かり易い」ものであり「通りのいい」ものです。しかし、私たちの司教は頼りなく、聖座も必ずしも完全ではないこの時代にあって...「みこころの部屋」のメンバーたちがやがてヴェールを越えて「向こうの世界」に行って、「司教も聖座も言わなかったけれど、メジュゴリエは偽物だった」と気づいたならば(今は “仮定” ということでもちろん結構なのですが)、その時は少しは「成相神父様に申し訳ないことをした」と思って下さいね。そりゃ、色々な側面があったでしょうが、それにしても、この問題の核にあるのは「メジュゴリエの真偽」の問題なのですから。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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