①
もう一度言いたいこと
御聖体に関する詰めた議論をしていると、時にこう言われる。
あまり一つの事に囚われないでください。
しかし、真の解答はこうである。
事は御聖体に関することです。非常に大事です。
だから、私たちは〈一つ一つを丁寧に〉考えていきましょう。
必要とあらば〈再考〉しましょう。
これが「常識」である。
しかし、他のことではたくさん「チャレンジ」する司祭たちも、それについては決してチャレンジしたくないようである。
②
間違った態度
こんな態度は、一見いいようで、実はよくない。
でも、人は往々、これをやる。
人は、一人の司教が退任した時など、その人のこれまでの労をねぎらう。それはもちろん「いいこと」だ、基本的に。
しかし、もし現在の神父様方が、諸先輩方がなさったことにも「間違ったこと」や「思わしくないこと」があると気づいたならば、それを確信するならば、彼らに対する一定の尊敬と感謝を保ちつつも、彼らに代わって物事を訂正すべきである。
そうすることは失礼な事でも何でもない。むしろ、そうしないことこそが問題だ。何故なら、私たちがそうしなければ、間違いはいつまでも教会の中に続くのだから。
しかし、間違いに気づいてさえ、「人への気遣い」か「臆病」か知らないが、ほとんど気が遠くなるほどモジモジし続けるのが、日本のカトリック信者なのではないか。
日本人の気質の上に「共同体の一致」や「協働性(Collegiality)」への呼びかけの圧力が加われば、大抵の日本人はペシャンコというわけなのか? ──間違いに気づいた時も?
しかし、そんなんでは、「神に生きて」いると云うより「人に生きて」いると言うべきではないか。或いはもっと言えば、「人目を気にして生きて」さえいるということではないか。
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」