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今回の一連の記事の発端は、この事に気づいたことでした。 |
・2015年の「年間テーマ」を告知するページ
http://www.oriens.or.jp/fs/fs2015yo.html
・2015年のバックナンバーのページ
http://www.oriens.or.jp/fs/fback15.html
・最新号のページ
http://www.oriens.or.jp/fs/fukuin.html
これら全ての号に於いて、「特別企画」という人目をひく、いわば "トップ記事" に於いて、毎回、毎回、本田神父の言動が書き連ねられます・・・
私は日本の全てのカトリック聖職者に訊きたいのです。
それは、本田神父は、(どういう言い方をしましょう?)まあ、或る方面で確かに「よいこと」をしています(としておきます)。しかし、だからと言って、未信者にまで御聖体を与えている司祭のことを、このように「カトリック刊行物」(ではなかったのか?)の中で大々的に扱うことに何の問題もないと考えますか???
オリエンス宗教研究所は『聖書と典礼』を出しているのですから、日本の教会の典礼に於いて中心的な役割を担っていると言っていいでしょう。そのような所がこのようなことをするのですか?
編集長たち
『福音宣教』の編集長は鈴木隆[りゅう]という名の信徒さんのようです。愛光式典という会社の共同代表ということです。参照
お顔の写真が菊池司教様の先月のブログの記事の中にあります。
2015年6月 2日 (火) 新潟教区司祭の集い@胎内
「編集長たち」と書いたのは、『聖書と典礼』の編集長のことも考えるからです。それは石井祥裕[よしひろ]というお方のようです。検索
しかし、このお名前には聞き覚えがあります。
典礼は人間の成熟のためにあるのであって、人間が典礼にしばられてはならない。
この言葉が出たという『典礼憲章』発布50周年を祝う講演会(参照)で、ソットコルノラ神父および市瀬英昭神父と共に演壇に上がっていたのがこの石井氏だったのです。
で、私はふと思うのです。そのような言葉が出る日本の典礼学会の風潮と、未信者にも御聖体を与える(という少なくとも「噂」はあった)本田神父のことをそれほど気にしているふうでもないオリエンスの姿勢の間には、どこか "通じて" いるものがあるのではないか? と。
例えば、こう考えてみましょう。
「未信者に、或いは未受洗者に、御聖体を与えてはならない」という一文があったとします。そうして、カトリック信者である或る者が、この観点から本田神父の行ないを非難したとします。すると、オリエンス宗教研究所や現代の或る種の "典礼学者" たちは、こう言うのかも知れません──
典礼に関するそのような "従来的な考え方" に
必ずしも「しばられる」必要はないかも知れない。
もし信者と未信者を "分け隔てしない" ことによって
キリスト教社会が「成熟」するならば。
私たちは典礼のそのような "発展可能性" をも
視野に入れておくべきかも知れない。
本田神父のことも即座に否定せず、
今後の推移を "見守って" いくべきかも知れない。
──と。
何か、そんなふうな空気が、日本の典礼学会に立ちこめているのではありませんか? そうでなければ何故、本田神父が聖職停止にもならず、そればかりか日本のかなり名の知れたカトリック刊行物に "特集" されたりするのです?
「見守って」いていいんですか? 日本の神父様方、あなた方があなた方自身のサイトの中で掲げている文章を見てみましょう。
27(…)母なる教会は、信仰を持たない人、洗礼志願者、そして信仰から離れた人について心を痛め、彼らを愛する。しかしながら、教会は、洗礼を受けていない人に聖体拝領をさせることはできないし、間違ったことを教える人や、道徳に反する生活を送る人に聖体拝領を与えることもできない(99)。
中央協議会(Shift JIS)
それとも、ここにも「例外」があるのですか?