2015.01.30

「誰がひざまずかずにいられるでしょうか」

 もう一つ寄り道。
 今度はプロテスタントの牧師さんの言葉です。

 私はプロテスタントを支持する者ではありません。しかしそれでも、部分的にはプロテスタントの人の言葉に共感することがあります。この牧師さんの言葉は──言葉と云うより “思い” は──現代の多くのカトリック司祭よりも、キリスト者としての基本的な所で、余程「正常」であると思われます。文中の強調は管理人。

キリストの受難を描いたことで話題になりました『パッション』という映画を見ました。ゲッセマネの園の祈りからゴルゴダの丘の十字架刑に至るまでの一日、正確には12時間の主イエスの苦しみを描いた映画です。約2時間、映画は主イエスの苦しみを描き続けました。思わず目を逸らしたくなるような凄惨な場面が幾つもありました。血しぶきを上げ、肉片が飛び散るキリストの苦しみに見入りながら、ひざまずいて聖餐に与るとはこういうことなのだ、と実感しました。画面は、キリストが十字架に釘付けされるところで、最後の晩餐のパン裂きと杯の場面を重ねていました。まるで聖餐は十字架に磔(はりつけ)にされたキリストの体そのものである!といっているかのようです。わたしたちの罪のために神がこれほどまでに苦しまれたのです。誰がひざまずかずにいられるでしょうか。
 しかし、私たちの礼拝堂はひざまずいて聖餐に与る環境が整っていません。(…)そこで今、一人の兄弟にお願いして、ひざまずいて聖餐に与るにふさわしい場所として礼拝堂を整えるための試作品をお願いしています。

http://akita-narayama.org/pdf/sekyou/tabisurukyoukai_18.pdf

 日本キリスト教団「秋田楢山教会」の川島隆一という名の牧師さんのようです。ご立派だと思います。

 しかし. . . カトリック信者は?

 未だに、カトリック司祭は跪きを「西洋式」とか「過去の習慣」とか言い、信徒は「跪きへの拘りは形式への拘り」であるかのように言っています。しかし、「跪きへの拘り」は上のような「思い」への拘りなのです。そしてそのような「思い」は「キリスト者として基本的なもの」の一つ * でなければならないに決まっています。

*「一つ」と言いました。「全て」ではありません。しかしそれは、決して忘れられてはならない、巧妙に「脇にのけられて」もならない、「真ん中」に置かれていなければならないものの中の「一つ」です。

 そして、これも念の為に言っておけば──上の牧師さんは映画『パッション』のことを言っています。しかしこれは、私達の感覚が何か “刺激的なもの”(ここでは映画)によって刺激されて、感情が表面的に(センチメンタルに)興奮して、結果「跪きたくなった」. . . とかいうことではありません。映画『パッション』で描かれたことは基本的に「福音書」の中にあることに過ぎません。そしてそれは「事実」です。私達がその「事実」を忘れない時、どうしてこの牧師さんのように言わないでおられようか、という話です。現代のカトリック司祭もカトリック信徒もここを忘れています。

途方もない恵みを得たと知り、それを感謝する時、突っ立っている馬鹿はいない

自分の前に聖なるものが現われたと知った時、突っ立っている馬鹿はいない

 

つまり、私達が今目撃しているのは、神によって作られた人間の心身相関的な感受性(内なる自然)に対する私達自身のアクセス不調です。

次へ
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ