実例3
そもそも『メモリアーレ・ドミニ』自体がその種のものであることを既に書いた(参照)。しかし、書き忘れたことがあるので書いておきたい。
『メモリアーレ・ドミニ』によって報告されたところの、典礼聖省が世界の司教たちに投げかけた三つの問いのうち、最後の質問が甚だしく “その種のもの” である。
少し煩雑になるが、確かに知るために、幾つかの訳と原文を掲げる。どれも同じ文、質問3である。
3. 十分な教義的準備を受けた後で、信者はこの新しい礼式を快く受け入れると思いますか? |
三、適当な準備の後、この方法を実施すると、信徒は喜んで受けいれると思うか。 |
3. 十分な準備教育を受けた後で、信者はこの新しい方式を快く受け入れると思いますか? |
3. Do you think that the faithful will receive this new rite gladly, after a proper catechetical preparation? |
3. Do you think that the faithful, after a well planned catechetical preparation, would accept this new rite willingly? |
3. Putasne fideles, post praeparationem catecheticam bene ordinatam, hunc novum ritum libenter esse accepturos? |
この「十分な準備教育」という言葉に、多くのカトリック信者は「教会の良心」を感じ、安心するかも知れない。しかしそれは、失礼ながら、考えの浅いことである。何故なら──
何のために「十分」であり「適当」ということなのか?
──と問わなければならないからである。
「文章」というものは前に言った内容を受けた構造を持たなければならないから、つまり「文脈」を持たなければならないから、本当は上の質問自体が次のように問われなければならないのである。
その「十分な」とか「適当な」とかいうのは「何のため」に「十分」であったり「適当」であったりということですか?
「聖体の小片に至るまで配慮すべしという教会の常なる教えが不変に継続されるため」(メモリアーレ・ドミニ自身の言葉)にも「十分」であり「適当」ということですか?
その種の文章は、本来そこにあるべき言葉を、考えられるべき前提、先行すべき文節を、〈省く〉のである。〈曖昧表現〉〈漠然表現〉を使うのである。
もし『メモリアーレ・ドミニ』が自身が前に言った内容をきちんと受けた質問を考えていたならば──建物で云えば、先行する「梁A」と正常に連結された「梁B」を考えていたならば──司教たちに投げかけられる質問は次のようなものであってよかったのである。
3. 「手で受ける聖体拝領」を採用しても「聖体の小片に至るまで配慮すべし」という教会の常なる教えを危険に晒さないための「十分な準備教育」──というものがあり得ると思いますか?
そして、これに対する答えは──
そのような準備教育は存在しない。不可能である。
──であるだろう。
ところが、『メモリアーレ・ドミニ』は、「十分な準備教育を受けた後で」云々という質問を置くことによって、そのような準備教育は「あるに決まっている」ことにしてしまったのである。いわゆる既成事実化し、不問に付したのである(すっとぼけて)。だから、これは「誘導尋問」ならぬ「誘導質問」である。
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そして、申し訳ない、もう一度『書簡』に戻らせてもらいたい。
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ご覧のように、ここにも「十分な準備教育」という言葉がある。そして更に「慎重な」という言葉さえある。「慎重な配慮」と。
これらの言葉は、物事を「現実中心」というよりも「言葉中心」で考えがちなカトリック信者の心を、どれほど惹き付け、且つ油断の多い “安心” へと運ぶことだろう。
しかし、私は何度も言いたい。
どうか「言葉」に騙されないで下さい。
「現実」にこそ立って下さい。
何故なら、容易に想像される「手による聖体拝領」の危険性、御聖体に対する危険性を思う時、「十分な準備教育」だの「慎重な配慮」だの言うのは全くもって「よく言うよ!」の世界であって、限りなく「欺瞞的」だからである(所謂「自分の言った言葉すら言った端から裏切る形式」の言い方である)。「手による聖体拝領」を許すこと自体が「慎重」の「し」の字もないもの だからである。
不幸なことに各地で手に御聖体が置かれるようになりました。
(…) 聖別されたホスチアのくずが床に落ちる危険とか、恐ろしい冒涜の危険が比較にならないほど増したことを見るのは難しくありません。(ディートリッヒ・フォン・ヒルデブラント)
碩学の言葉に頼るまでもなく、その危険性は「容易に想像される」ものである。ほとんど「常識」の範疇である。そして「比較にならないほど」という彼の形容も真である。何ら誇張でない。
私達は「手による聖体拝領」について、その「現実」について、引き続き見て行こう。そして、「手による聖体拝領」についての、また「立って受ける聖体拝領」についての、「非現実的な構文」に騙されないようにしよう。