2014.07.16

悪魔の腐った舌 『信教の自由に関する宣言』 Part 5

激し過ぎる表題? そんな事はない筈です。一緒に見て下さい。

「義務」の堕落した解釈:「良心のみ」(1)

 (1、第ニ段落)

 それで、聖なる教会会議は、まず第一に、人間が神に仕えながら、キリストにおいて救われ、そして幸福になれる道を神自身が人類に知らせたことを宣言する。われわれは、この唯一の真の宗教が、カトリック的、使徒的教会の中に存続すると信じる。主イエズスは使徒たちに、「行って万民に教え、父と子と聖霊との名によって洗礼を授け、わたしがあなたがたに命じたすべてのことを守らせよ」(マタイ 28・19〜20)と言って、この宗教をすべての人に広める任務を教会に託した。一方、すべての人は、真理、特に、神とその教会に関する真理を探求し、それを知ったうえは、それを受け入れ、そして守る義務がある。

全文  英訳  ラテン語

「それで、聖なる教会会議は、まず第一に、人間が神に仕えながら、キリストにおいて救われ、そして幸福になれる道を神自身が人類に知らせたことを宣言する」
 こんな事は、わざわざ言わんでも、わざわざ「宣言(profess)」して頂かなくても、分かることである。ここばかりでなく、この「宣言」には、「わざわざ言わんでも」と思われる箇所が相当ある。
 あなたはこのような言葉を読んで「なんでこんな当り前の事を?」と思わなければならないだろう。「間違っていない。これは正しい」と思ってはならないだろう。何故なら、彼らはあなたを自分達の言葉の渦の中に引き込むために「本当の事」や「否定出来ない事」もたくさん置くだろうから。
 「余りにも当り前のことを言う人はどこか疑われるべきである」と覚えておくべきである。

「一方、すべての人は、真理、特に、神とその教会に関する真理を探求し、それを知ったうえは、それを受け入れ、そして守る義務がある」
 この「神とその教会に関する真理を探求し、それを知った」者というのは、この言葉自体によっても、またこの前段に主の聖言が引用してあったことからも、「カトリック信者」を意味すると考えられる(と人を不安にさせるこの文書は禍い)。つまり、この言葉は「カトリック信者」の「義務」を認めているのである。しかし宣言は、次の箇所で、これに関し、或るニュアンスを付け加える。

 (1、第三段落)

 同時に、聖なる教会会議は、このような義務が人々の良心に達して、これを束縛すること、また真理がやさしく、そして強く心にしみ込む真理そのものの力によらなければ義務を負わせないことも宣言する。

 This Vatican Council likewise professes its belief that it is upon the human conscience that these obligations fall and exert their binding force. The truth cannot impose itself except by virtue of its own truth, as it makes its entrance into the mind at once quietly and with power.

〔英語訳からの管理人試訳〕  同時に、このバチカン公会議は、それらの義務が働きかけ、拘束力を持つのは、人間の良心に対してであることを宣言する。真理は、真理それ自身の力によるのでなければ、すなわち、やさしく、そして強く人の心にしみ込むのでなければ、それ自身を人に押し付けることはできない。

全文  英訳  ラテン語

 神父様方はこれを読んで何とも思わないのだろうか。これに怒りを感じないのだろうか。感じないなら、神父様方、あなた方の言語感覚は相当どうかしているのである。はっきり言って、この言葉は、悪魔の腐った舌から出た、「義務」の堕落した解釈である。

 彼らの言葉は常に具体性を欠いている。彼らの言う「真理」という言葉が何を意味するかは、しばしば、と云うよりほとんど常に、はっきりしない。そして、ここに於いては「義務」という言葉が、具体的にどのようなものを指しているのかはっきりしない。彼らにとって、このような具体性を欠いた表現は、常に、彼らの言葉に対する批評に対する防波堤となっている。誰も、曖昧な言葉に対して確たる批評はできないからである。

 しかしそれでも、私達は「義務」についての上のような言い方に、「怪しい」という以上のものを感じなければならない。

 宣言の上のような考えだと、「義務」は、人がそれに心から同意しない限り、その人を拘束しないのである。しかし、そんなことを言うなら、「義務」はその時点で最早「義務」ではなくなっているだろう(実質)。その意味で、宣言の上の言葉は非常に変な、馬鹿げた、そして怪しからぬ言葉であるだろう。
 神父様方に、この点を考えてもらいたい。(一晩でも二晩でも)

私達はこれを合言葉にしなければならない。

「義務」 をシンプルに 「義務」 たらしめよ。

グチャグチャ言うな。

 宣言は次に、「カトリック教会」とは限らない「宗教一般」に於ける「信教の自由」の問題に歩を進める。(或る時は「カトリック」について語り、次にはそれと画然と分けることのない文脈の中で「宗教一般」について語り始めるというこのやり方は、私達を混乱させるだろう)

 (1、第三段落の続き)

ところで、人間が要求する信教の自由は、神を礼拝するという自分の義務を果たすにあたって、市民社会におけるいっさいの強制からの免除に関するものである。そのため真の宗教とキリストの唯一の教会とに対する個人および団体の道徳的義務に関する伝統的なカトリックの教説はそのまま変わりがない。なお、教会会議は、信仰の自由を取り扱うにあたって、人格の不可侵の権利と社会の法的秩序に関する最近の諸教皇の教えを展開する考えである。

全文  英訳  ラテン語

「真の宗教とキリストの唯一の教会」
 宣言はこのように、「真の宗教」と「キリストの唯一の教会」を並列的に書いている。キリストの唯一の教会、すなわちカトリック教会は「真の宗教」であるが、宣言はその他にも「真の宗教」があるかのように言うのである。(真の宗教: 英訳では the true religion )

世の神父様方は、
この「真の(true)」という形容詞、言葉遣いに、
何の疑義も差し挟まないのか。
またもや "善意" で、それのみで受け取るのか。
少しは疑わんか。

「不可侵の権利(inviolable rights)」
 この言い方は人権思想のものである。この言い方の適用範囲があくまで「地上の人間社会」に限られたものならば、必ずしも悪いものではないかも知れない。しかし、同時に、私達が天主の信者であるならば、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方」(マタイ 10:28)の前では人間の「権利」に付された「不可侵の」という形容詞はほとんど色褪せてしまうものであることを、心のどこかで覚えておくべきである。
 「1(序文)」が終わった。

1 信教の自由の一般原則

2(信教の自由の目的と基礎) このバチカン教会会議は、人間が信教の自由に対して権利を持つことを宣言する。この自由は、すべての人間が、個人あるいは社会的団体、その他すべての人間的権力の強制を免れ、したがって、宗教問題においても、何人も、自分の確信に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の確信にしたがって行動するのを妨げられないところにある。なお信教の自由の権利は、人格の尊厳に基づくものであり、神の啓示のことばと理性そのものとによって認識されることを宣言する(注 2)。信教の自由に対する人格のこの権利は、社会の法的制度において、市民的権利として受け入れられるべきものである。

全文  英訳  ラテン語

 この箇所については既に Part 2Part 3 で書いた。ここにも同じものを貼り付けておくが、不要な方は 次のページ に進まれたし。

 ここに、この宣言にとっての「信教の自由」の定義が現われている。それは上で黄色でハイライトした部分である。

 しかし、もしこれが一般の人(非キリスト者)なら、「信教の自由」と聞いて次のように言うのではないか。

信教の自由とは、人は、社会の秩序を乱さない限りは、キリスト教を信じようが、イスラム教を信じようが、ヒンズー教を信じようが、仏教を信じようが、神道を信じようが、他の何々教を信じようが、自由である、そのような "自由な選択の権利" を持つということである。

Wikipedia も二つの考え方を言っている。
積極的自由: 個人が自由に好むところの宗教を信仰する自由
消極的自由: 特定の宗教の信仰を強制されない自由

 しかし、この「宣言」を通して見る時、さすがにそのような言い方はしていないのである。仮にも「カトリック聖職者」の身でありながら、「人はイスラム教を信じようが、ヒンズー教を信じようが……自由である」という言い方はできないのである。この宣言が言っているのは「人は強制されてはならない」という事だけである。

 しかし、この「人は強制されてはならない」という事は特に「啓示」と結び付いていない。

 否、もしどうしても「結び付いている」と言いたいなら言えばいい。しかしそれは「人に迷惑をかけてはならない」という道徳が啓示と「結び付いている」のと同程度に「結び付いている」に過ぎない。

 以前も言ったように、天主様は「善」の王様、あらゆる「善」の源泉であられるから、大から小までのあらゆる種類の「善」が悉く、言ってみれば「神と結び付いて」いるのはあまりにも当り前のことである。

 宣言は、それ自身が言うように、"聖書の中では信教の自由の教えは文字通りには断言されていない" ことを知っているが、「主イエズスと使徒たちは人々に信仰を強制しなかった」という事を以って、色々言ってはいるが結局はそれだけを以って、「信教の自由の教えは啓示に基づいている。それに合致している。両者は完全に一致している」と息巻くのである。

 つまり宣言は、消極的にしか存在していないもの、或いは、ちょっと変な言い方になるが、ほとんど一つの「非在」としてしか存在していないようなものを、そのレトリックを以って堂々たる存在に仕立てるのである。

 しかし、主イエズスと使徒達に於いては、「人間とは首に繩付けて引っ張ることのできないもの」であることを当り前のように御存知だったので、強制など「論外」だっただけのことである。

 彼らのレトリック、彼らに特徴的なこの手法を、こう呼ぼう。
 物事の「針小棒大加工」

 更に、こっそり言っておけば、それは「物事のユダヤ式針小棒大加工」ということになるだろう。

 彼らにかかれば、「砂場でお友だちに砂をぶつけてはいけません」という幼稚園の規則だって「神の啓示」と結び付けられかねないのである。

「信教の自由の権利は、人格の尊厳に基づくものであり、神の啓示のことばと理性そのものとによって認識される」

 「信教の自由の権利」はあたかも「神の啓示のことば」によって直接的にも認識されるかのようである。

 しかし、ここはどうやら日本語訳が不適切なようである。

 英語訳(上に引用した)に従えば、「神の啓示のことばと理性そのものとによって認識される」のは、まず「人格の尊厳」の方である。
 次のように言っている。
信教の自由の権利は、神の啓示のことばと理性そのものとによって認識されるところの人格の尊厳、正にその人格の尊厳に基づくものである
 つまり、あくまで「二段構え」である。

 しかし、「二段構え」だから構わないのではない。
 宣言が「信教の自由の教え」と「啓示」を "結び付けて" いることには変わりがない。そこが問題である。

 何故ならば、実のところ、その二つには特に「結び付き」はないからである。理由は既にで言った。

次へ
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ