激し過ぎる表題? そんな事はない筈です。一緒に見て下さい。
その二つには特に「結び付き」はない
その二つとは、宣言云うところの「信教の自由の教え」と「啓示」である。「啓示」とは「公的啓示」(「私的啓示」が含まれる筈もない)、つまり「聖書」である。
その二つには特に「結び付き」はないということを知るために、まず宣言云うところの「信教の自由」とは何であるかを知らなければならない。
それは「1 信教の自由の一般原則」の最初に述べられている。
すなわち、この宣言にとって「信教の自由」とは──
──こと、である。
これが一般の人(非キリスト者)なら、「信教の自由」と聞いて次のように思うかも知れない。
信教の自由とは、人は、社会の秩序を乱さない限りは、キリスト教を信じようが、イスラム教を信じようが、ヒンズー教を信じようが、仏教を信じようが、神道を信じようが、他の何々教を信じようが、自由である、そのような "自由な選択の権利" を持つということである。
Wikipedia も二つの考え方を言っている。
積極的自由: 個人が自由に好むところの宗教を信仰する自由
消極的自由: 特定の宗教の信仰を強制されない自由
しかし、この「宣言」を通して見る時、さすがにそのような言い方はしていないのである。仮にも「カトリック聖職者」の身でありながら、「人はイスラム教を信じようが、ヒンズー教を信じようが……自由である」という言い方はできないのである。この宣言が言っているのは「人は強制されてはならない」という事だけである。
しかし、この「人は強制されてはならない」という事は特に「啓示」と結び付いていない。
否、もしどうしても「結び付いている」と言いたいなら言えばいい。しかしそれは「人に迷惑をかけてはならない」という道徳が啓示と「結び付いている」のと同程度に「結び付いている」に過ぎない。
以前も言ったように、天主様は「善」の王様、あらゆる「善」の源泉であられるから、大から小までのあらゆる種類の「善」が悉く、言ってみれば「神と結び付いて」いるのはあまりにも当り前のことである。
宣言は、それ自身が言うように、「聖書の中では信教の自由の教えは文字通りには断言されていない」ことを知っているが、「主イエズスと使徒たちは人々に信仰を強制しなかった」という事を以って、色々言ってはいるが結局はそれだけを以って、「信教の自由の教えは啓示に基づいている。それに合致している。両者は完全に一致している」と息巻くのである。
つまり宣言は、消極的にしか存在していないもの、或いは、ちょっと変な言い方になるが、ほとんど一つの「非在」としてしか存在していないようなものを、そのレトリックを以って堂々たる存在に仕立てるのである。
しかし、主イエズスと使徒達に於いては、「人間とは首に繩付けて引っ張ることのできないもの」であることを当り前のように御存知だったので、強制など「論外」だっただけのことである。
彼らのレトリック、彼らに特徴的なこの手法を、こう呼ぼう。
物事の「針小棒大加工」
更に、こっそり言っておけば、それは「物事のユダヤ式針小棒大加工」ということになるだろう。
彼らにかかれば、「砂場でお友だちに砂をぶつけてはいけません」という幼稚園の規則だって「神の啓示」と結び付けられかねないのである。