2014.07.16

悪魔の腐った舌 『信教の自由に関する宣言』 Part 3

激し過ぎる表題? そんな事はない筈です。一緒に見て下さい。

その二つには特に「結び付き」はない

 その二つとは、宣言云うところの「信教の自由の教え」と「啓示」である。「啓示」とは「公的啓示」(「私的啓示」が含まれる筈もない)、つまり「聖書」である。

 その二つには特に「結び付き」はないということを知るために、まず宣言云うところの「信教の自由」とは何であるかを知らなければならない。
 それは「1 信教の自由の一般原則」の最初に述べられている。
 すなわち、この宣言にとって「信教の自由」とは──

 (2、第一段落)←段落は日本語訳版に従って言う

すべての人間が、個人あるいは社会的団体、その他すべての人間的権力の強制を免れ、したがって、宗教問題においても、何人も、自分の確信に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の確信にしたがって行動するのを妨げられない

全文  英訳  ラテン語

 ──こと、である。

 これが一般の人(非キリスト者)なら、「信教の自由」と聞いて次のように思うかも知れない。

信教の自由とは、人は、社会の秩序を乱さない限りは、キリスト教を信じようが、イスラム教を信じようが、ヒンズー教を信じようが、仏教を信じようが、神道を信じようが、他の何々教を信じようが、自由である、そのような "自由な選択の権利" を持つということである。

Wikipedia も二つの考え方を言っている。
積極的自由: 個人が自由に好むところの宗教を信仰する自由
消極的自由: 特定の宗教の信仰を強制されない自由

 しかし、この「宣言」を通して見る時、さすがにそのような言い方はしていないのである。仮にも「カトリック聖職者」の身でありながら、「人はイスラム教を信じようが、ヒンズー教を信じようが……自由である」という言い方はできないのである。この宣言が言っているのは「人は強制されてはならない」という事だけである。

 しかし、この「人は強制されてはならない」という事は特に「啓示」と結び付いていない。

 否、もしどうしても「結び付いている」と言いたいなら言えばいい。しかしそれは「人に迷惑をかけてはならない」という道徳が啓示と「結び付いている」のと同程度に「結び付いている」に過ぎない。

 以前も言ったように、天主様は「善」の王様、あらゆる「善」の源泉であられるから、大から小までのあらゆる種類の「善」が悉く、言ってみれば「神と結び付いて」いるのはあまりにも当り前のことである。

 宣言は、それ自身が言うように、「聖書の中では信教の自由の教えは文字通りには断言されていない」ことを知っているが、「主イエズスと使徒たちは人々に信仰を強制しなかった」という事を以って、色々言ってはいるが結局はそれだけを以って、「信教の自由の教えは啓示に基づいている。それに合致している。両者は完全に一致している」と息巻くのである。

 つまり宣言は、消極的にしか存在していないもの、或いは、ちょっと変な言い方になるが、ほとんど一つの「非在」としてしか存在していないようなものを、そのレトリックを以って堂々たる存在に仕立てるのである。

 しかし、主イエズスと使徒達に於いては、「人間とは首に繩付けて引っ張ることのできないもの」であることを当り前のように御存知だったので、強制など「論外」だっただけのことである。

 彼らのレトリック、彼らに特徴的なこの手法を、こう呼ぼう。
 物事の「針小棒大加工」

 更に、こっそり言っておけば、それは「物事のユダヤ式針小棒大加工」ということになるだろう。

 彼らにかかれば、「砂場でお友だちに砂をぶつけてはいけません」という幼稚園の規則だって「神の啓示」と結び付けられかねないのである。

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