2014.06.26

『ノストラ・エターテ』 欺瞞のレトリック Part 6

私が唯一共感した部分:
しかし、それも結局「まやかし」である

 『ノストラ・エターテ』は或る箇所で次のように言っている。

 ユダヤ人の権力者と、その追従者がキリストに死を迫ったが(注 13)、無差別にその当時のすべてのユダヤ人に、また今日のユダヤ人に、キリストの受難の際に犯されたことの責任を負わせることはできない。教会は神の新しい民であるが、そのためにユダヤ人が神から排斥された者であるとか、のろわれた者であるとかいうことが、あたかも聖書から結論されるかのように言ってはならない。したがって、すべての人は、教理の説明や神のことばの宣教にあたって、福音の真理とキリストの精神に合わないことを、何も教えないように注意しなければならない。

13.

ヨハネ 19・6 参照。

全文  英訳  ラテン語

後半の部分について

 「したがって」以降に関して、私はこう言いたい。

 あれほど聖書の言葉(聖パウロの言葉)に対して「歪曲利用」
及び「凖(実質的)歪曲利用」をしておいて(前々回参照)、
「福音の真理とキリストの精神に合わないことを、何も教えない
ように注意しなければならない」もないもんだ!

 いわゆる「よく言うよ!」の世界である。いつかも見た、片手で如何にも "いい事" をしながら(言いながら)、もう一方の手でそれをこっそり(或いは無自覚に)裏切るという、あの形式のものである。

参照

 

参照

 騙している側と騙されている側が同じ事をするのは当然である。騙す側は「全体性に関して不全な展望」を差し出し、騙される側はそれを呑み込むことによって「全体性に関して不全な視覚」を得るのである。

 そのようにして天主の羊や羊飼い達は毒を盛られるのである。

前半の部分について

 「したがって」より前の部分は、『ノストラ・エターテ』の中でただ一箇所、私が共感した部分だった。
 何故なら、以前の幾つかのページの冒頭に「注」として「あまり神経質にならずに、単純に『ユダヤ』と言うことにします。しかし勿論、ユダヤ人の全てが悪いと言っているわけではありません」と表明したように、私はこれでも、あまり単純に「ユダヤ人」と一括りで言うことに抵抗を覚える方だからである。
 一口に「ユダヤ人」と云っても色々な人がいるわけだし、そして「過去の罪」と云うことでは、私だって、私が日本人であるという理由だけで過去の日本人が犯した罪の責任を問われまくられれば、困り、「それは私の責任ではない」と言いたくなるから。

 しかし、その後、「そうではないのではないか」と思うようになった。否、「そうではないのではないか」と云うより、「そればかりではないのではないか」と。
 私が共感した上の部分は「人間的」な視点からのものである。しかし、それはそれでよいとしても、私達は信仰者であるので、ユダヤ人に対して「信仰的」な視点も持っているべきではないか、と。

 『ノストラ・エターテ』はユダヤ教とユダヤ人について、全体に亘って、「持ち上げる」「誉め上げる」とでも言いたくなるような書き方をしている。一言で云って『ノストラ・エターテ』は、ユダヤ人のことを「神から豊かな恵みを受けた民族」として描いているのである。

 しかし、それならば、私達は次の聖句も思い出すべきではないのか?

多くの恵みをうけた人は多く要求され、多くを委せられた人は多く要求される。

聖ルカ 12:48 (バルバロ訳)

 フランシスコ会訳では「すべて、多く与えられた者は多く請求され、多く任された者は、さらに多く要求されるであろう」となっている。
 だから、ユダヤ人が天主様から多くの恵みを受けていたならば、その分だけ、彼らが主イエズスを天主と認めなかった事、認めない事は、より重大な事となるのではないか?(特に、彼らの宗教指導者、ラビ達に於いて)

 また、聖書にこうある。

彼は、「主よ、信じます」と言って、イエズスを伏し拝んだ。すると、イエズスは仰せになった。

「わたしは裁きのためにこの世に来た。
それで、見えない人が見えるようになり、
見える人が盲目となるのだ」。

 イエズスのそばに居合わせたファリサイ派の人人の中には、これを聞いて、「我々も盲目だと言うのか」と言う者がいた。イエズスは仰せになった。

「盲目であったなら、
あなたがたには罪はなかったであろう。
ところが、『見える』と言っている以上、
あなたがたの罪はそのまま残る」。

聖ヨハネ 9:38-41 (フランシスコ会訳)

 だから、私達はユダヤ人に(特にそのラビ達に)「私達は見えている」と言わせてはならないのではないか? 否、彼らに言わせる言わせないと云うよりも、私達自身が、あたかも彼らが「見えている」人達であるかのように、彼らのことを描いてはならないのではないか?

 しかし、『ノストラ・エターテ』はそのように描いている。実質、そのように描いているのである。「文章」というものを読む私達の心に、ユダヤ人に関するそのような「印象」を与えている。そこに『ノストラ・エターテ』の文章上の、文章表現上の欺瞞がある。

再び、後半(結論)の部分

 前半の部分は、その文章〈自体〉に於いては、善いものである。それは、私は今も認める。しかし、これまでも何度か見て来たように、「善」というものは決して一つや二つの言葉〈それ自体〉で済むものではない。参照:「善」に目を奪われるな

 さて、第二バチカン公会議文書に於いてはしばしば信用ならないところの、「テキトー」な雰囲気が漂うところの、「したがって」という接続詞に導かれながら、一つの「結論」であるところの後半部分はこう言う。

したがって、すべての人は、教理の説明や神のことばの宣教にあたって、福音の真理とキリストの精神に合わないことを、何も教えないように注意しなければならない。

 この宣言はこのようにもっともらしく結ぶ。
 気のつかない神父様方はこれにふんふんと頷く。

 しかし、この宣言が言うところの「福音の真理」や「キリストの精神」は、多くのものを〈含まない〉であろう。
 あくまでそのような一種の〈欠如形式〉に於ける「福音の真理」や「キリストの精神」が、そこにはあるだけだろう。

◎ それは主のあれらの厳しき聖言参照を〈含まない〉であろう。

◎ それは主の「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためであると思うな」(聖マタイ 10:34)という聖言を〈含まない〉であろう。

◎ それは聖パウロの「牛とろばに同じ一つの軛をかけてはならないように、信仰のない人たちと進退をともにしてはなりません」(2コリント 6:14)という言葉を〈含まない〉であろう。

 宣言筆者は聖パウロの上の言葉が持つ「知恵」について人々が注意深く考えることを好まないであろう。人々がどんな疑いもなく「対話」の価値を信じ込むことを望んでいるであろう。

 神父様方も神父様方で、聖パウロの警句はおろか、日本の諺「朱に交われば赤くなる」のリアリティさえ、ピンと来ないのか、さっぱり「警戒」というものを知らない。

 しかし、そうではなく、あなた方は第二バチカン公会議文書について「悪しき文章作法」というものを疑わなければならない。
 あなた方は「言葉」や「文章」というものについて、またその裏に読み取るべき「人間心理」や「意図」というものについて、鈍くあってはならない。(偉そうに言ってすみませんが)

『ノストラ・エターテ』は、シオンの議定書言うところの「directing」(方向付け、誘導)そのものである。

『ノストラ・エターテ』は『現代世界憲章』と同種の文書である。すなわち、反キリスト的な文書である。

 これにて、『ノストラ・エターテ』そのものについて終わる。

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