『ノストラ・エターテ』がただ一箇所、ユダヤ人について一応否定的に言っている箇所がある。
しかし、これは過去形である。彼は、この今現在、ユダヤ人の多くが主イエズスを天主として認めていない事について、触れない。彼にとっては、その問題は存在しないかのようである。
そして、直ぐにこう続ける。
確かに、聖パウロは「ローマ人への手紙」のその箇所で、それに似たようなことを言っている。しかしそれでも、そこには曲がりなりにも「敵」という言葉があるのであって、「不従順」という言葉もあるのであって、またその少し前の箇所にはよりはっきりと「不信仰ゆえに折り取られた枝」という言い方も出て来るのである(既出)。
それらの事を示さずに、ただ「はなはだ愛すべきもの」と言えば、どのような "文章効果" を生むか?