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(カトリックの新しい典礼書の正当化手法のことを「『愛』の修辞学[レトリック]」と呼んだのは陰謀研究家のマイケル・ホフマンであったが)
まだ「序文」の内である。
純真で善意な神父様方は、おそらくこの段落に惹き付けられることだろう。あるいは特に「惹き付けられる」というほどでなくとも、まずもってこれらの言葉に「ノー」とは言わないだろう。「その通りだ」と思い、それで終[しま]いだろう。
しかしそれは、前回の最後にもチラと言ったが、あなた方が言葉の「表面」のみを見、失礼ながら、その言葉の姿から筆者の「心」までを読むことを不得意としているからである。
私は上の言葉にまったく「ノー」と言う。
何故ならば、それらの言葉はまだ「序文」の内であって、やはり人類に関する一つの「概観」であるわけだが、およそ「現実離れ」しているからである。
そうではないか? あなたがピンと来ないならば、この文書が書かれた時代(60年代)のことを一旦忘れ、あなた自身が現代の「人びと」の哲学的・宗教的な関心の状態を、その実際の所を、筆を以て描写すると考えてもらいたい。あなたはその時、上のように書くだろうか?
あなたが現実に知っている「人びと」の内、一体どれほどの人が「人間存在の秘められた謎」に「心を深くゆさぶられて」いるのか? 一体どれほどの人が「人間とは何か、人生の意義と目的は何か、善とは何か、罪とは何か」と云った哲学的・宗教的な諸問題を気にしており、人生に「究極の名状しがたい神秘」を感じているのか?
私は聞いていて「歯が浮く」のである。
「よく言うよ」と思うのである。
時代? ではその時代、この宣言が書かれた1960年代に、「人びと」はこの筆者が言うように、そのように大した仕方で、人生問題に「心を深くゆさぶられて」いたのか?
私は、そうではないだろうと思う。確かに今と比べれば、どこの国の社会も保守的ではあったかも知れない。しかしそれでも、「人びと」は常に基本的に、日々の「生活」に追われていただろう。気と労力をそれに取られていただろう。また余裕があればあったで、人生を楽しみもしただろう。反対に貧困であれば、人生問題なんてまともに考えている暇もなかっただろう。時代の違いを超えて、「人間」とは常にそのようなものである。
だから、この宣言が描いているような心と精神の状態にある人、そのような立派な哲学的・宗教的な疑問に取り囲まれている人というのは、現実の人間の世界に於いては「稀[まれ]」な存在なのである。だから、彼のそのしれっとした描写は「非現実的」なものである。
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ここで一つ、注を打っておく。
こう言う人があるかも知れない。『ノストラ・エターテ』は「キリスト教以外の諸宗教」について考察したものだから、それが言う「人びと」とは文字通り「全ての人々」のことではないだろう。既にそれぞれ何らかの自分の宗教を持っている人達のことだろう、と。
しかし私は言う。文章としてはそうではない。見なさい、上の段落の第一文の主語は単に「人びと(men)」である。また、それに先行する文章、前回見た文章に於いても、その主語は「人類(mankind)」とか「すべての民族(all peoples)」だったのである、と。
正 体
同じ箇所をもう一度貼る。
さて、以下が、彼のこのような「文章表現」「作文」の真の意味、正体である。
「人びと」のことをこのように饒舌に──或る種、絢爛豪華に──概観する彼の言葉は、実は「人びと」の方を向いてなどいない。
何かについて書く時はその対象を見なければならない。
しかし、彼は「人びと」を見てなどいない。
では、彼の言葉は何に向いているのか?
「読み手」に向いているのである。
(あなたにはこれが分かるか?)
彼は、対象をよく見、対象について、対象の実態に即して書いているのではない。そのあたりの作業に於いては、彼は「テキトー」である。その事を彼の文章自身が語っている。
つまり、彼は「読ませる」ためだけの文章を書いたのである。
(あなたにはこれが分かるか?)
偉そうな口振りを許して欲しい。
しかし、人はこれに気づかなければならない。
つまり、彼は、現実離れした仕方で、如何にも「人びと」が一般的にそのような「霊的渇望」のうちに暮しているかのように書いているが、本当は彼も現実を知らないわけはないので、それは正直な文章ではなく、「目的を持った美文」である。
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神父様方、あなた方は「文章」というものに於いて「悪しき化粧」・・・「粉飾」という言葉があるが、文字通りパタパタと粉をはたかれた文章というものが無いとでも思っているのか? |
やっと序文が終った。
私は思う。「一種の知覚」では話にならないと。私達は「確かなこと」を言ってもらわねばならない。
またその「一種の知覚」というのは「神秘的な力」についてのものだそうだが、「神秘的な力(hidden power)」というのにも色々あるのであって、安全なものばかりではないのである。カトリック教会内に於いてすら、時には悪魔・悪霊による "たぶらかし" が出るほどである。「(他宗教にも)時には最高の神、あるいは父なる神についての認識さえも認められる」と断言しながら、そのような危険に関しては一言も言わないこの人は、悪魔・悪霊・地獄などを信じていないであろう。
多くの形容詞が並んでいる。「進歩した」「深遠な」「洗練された」「汲み尽くすことができないほど豊かな」「鋭敏な」「深い」
私達はこれらの頌辞[ほめことば]を読まされる。しかし、これらは筆者の「主観」「感じ方」以上の何であるのか。
彼曰く、仏教は「完全な解脱(perfect liberation)」や「最高の悟り(supreme illumination)」を教えているのだそうである。しかし、私達は誰の言葉を読まされているのか? これらは彼自身の言葉なのか? 彼自身としての仏教に対する(と云うより、それに於ける)「認識」(直接的、体験的な)から出て来た言葉なのか? 彼は自分の胸を指して(その責任に於いて)「完全」とか「最高」とか言っているのか?
仏教自身がそのように言うは当り前である。しかしこの筆者は仏教徒ではない。だから、真に仏教的な知覚・認識を彼自身として持ち得る筈もないのである。せいぜい仏教の言葉から何かを想像するか、彼が思うところの "真理" や "価値" をそこに「感じる」という程度のことが可能であるに過ぎない。
では、私達は何を読まされているのか? 仏教徒ではない人が仏教について書いたところの、一般向けの仏教に関するガイドブックのようなものを読まされているのか?
上の段落で確かな事は一つだけである。それは、他宗教者もそれぞれに「努力している」という事である。しかし、他の全ての彼の表現は不確かなものである。
全てを「他者への尊敬」ということで正当化しながら、しかしそのような不確かな事をベラベラベラベラと喋りまくる「公会議文書」、などというものがあっていいものか?
「真実で尊い」
私達はいつまでこんな言葉を読まされなければならないのか。漠然と「true」とか「holy」と云った言葉が並ぶ文章を。「何となく分かるようでもあり、分からないようでもある」という形式の文章を。
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言葉、言葉、言葉である。それは何と危険なものであることか!
再びこれを引用しておこう。
私たちは公会議で曖昧な用語を使ったが、私たちはそこから後でどの意味で取り出せばよいか知っている。 参照 |
私は悪魔的混乱の中に混ぜ合わされた言葉を教える。読む人によって如何様にも取れる言葉を! 参照 |
私はこれらの言葉をしつこく引用してこれら特定の筆者のことを指差したいのではない。「言葉という油断のならないもの」を伝えたいのである。そして、言葉を「悪しく利用」する者らが居ることを知ってもらいたいのである。誰に。神父様方に! 神父様方は「そこに悪意の存在が確実に認められない限り、多少曖昧な言葉も善意で受け取るべきだ」と思っておられるが、違う。曖昧さこそが悪魔の隠れ蓑である。(もちろん彼らにかかった場合のことである。主イエズスも聖パウロも比喩をお使いになった。比喩表現は誰の口から出ても一定の "曖昧さ" を免れない。しかし、お二人の場合は悪魔の言葉ではない、勿論である。しかしそれでも、悪魔とその配下は、それらを利用し得るのである)
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「まじめな尊敬の念をもって考察する」
この言葉の並び自体に単純なカトリック信者は「そうだ、真面目であることは大事だ。他者を尊敬することは大事だ」と思う。しかし、その言葉を言っている当の者自身が、つまり宣言筆者自身が、やがて来ることになる聖体拝領の仕方の変化の中で、肝心の「神」について「まじめな尊敬の念をもって考察」したかどうかは、定かでない。私は、彼(彼ら)はそうしなかっただろうと思う。
「すべての人を照らす真理の光線を示すこともまれではない」
まれではない?(英訳では「しばしば反映する」)。何ともハッキリしない言い方である。
その他宗教者らは「真理の光線」をしばしば受けながら、でもやっぱりイエズス様が真の救世主であり天主そのものであることを認識できないわけか? では、それはどんな「真理の光線」なのか?
「賢慮と愛をもって」
彼は聞こえのよい言葉を散りばめている。厚化粧である。
以上でこの文章の欺瞞性は明らかになったと思う。
私としては、もうこれ以上何も言う必要はないように思う。
しかし、これは「ユダヤ」との関係に於いて取り上げたものなので、これがユダヤ教については何と言っているかを見ておく。
(イスラム教については省略する)
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