2014.03.02

現代世界憲章は反キリスト文書である Part 5

現代世界憲章の言葉の本質

"いい加減"

代弁 1(再掲)

 事実、主イエズスは、「われわれが一つであるように……みなが一つになるように」という祈りによって、「信者に限らず人間は、もし真理と愛に於いて互いに結ばれれば、互いに結ばれた聖三位に似たものとなる」という事を、聖書の文字の中には明確に読み取れないとしても、ほのめかしている。この事は、「人間は、自分自身を心から他者に与えなければ、真の自己を完全には見出せない」という事を表わしている。

 私は心配です。このような言葉、このようなビジョンを「善いもの」と考える神父様方が案外多いのではないかと。聖書に十分基づかずに「善い事」を考える池長大司教様などは、もし上の言葉に私の名前ではなく少し名の知れた神学者の名前が付いていれば、容易に頷くのではないかと。

 上のように「聖書の文字の中には明確に読み取れないとしても」と書いてあれば少しは用心するかも知れないが、「人間理性が達することのできない視野を示した」などと "神学風" に書かれていれば、簡単に受け入れて(或いは、見過ごして)しまうのではないかと。

 「人間理性が達することのできない視野を示したのであって」
 「ほのめかしている」

 しかし、これらの言葉は実のところ、ただ "いい加減" なだけです。ペタッと貼るシールのようにペラペラの、安いものです。

 これは一種の "知的悪ふざけ" です。
 裏側で「ヘッヘ」と笑っているものがいます。
 ゲスな小悪鬼のイタズラのようなものが、ここにはあります。

 真面目一方の人達、「 "公会議" という教会の中心的部分、善意に満ちているべきその部分に、そのような "下劣なイタズラ" は入りっこない」と信じている人達・・・こんな話は信じられませんか?

 「信仰者」は「信ずること」に親しいです。しかし、時には「権威を仰ぐ心」からではなく、ご自分自身の目でモノをご覧下さい。

 それらの言葉に「深遠さ」など感じないで下さい。
 悪魔が笑っています。

代弁 2 (更に実態に即した代弁)

 事実、主イエズスは、「われわれが一つであるように……みなが一つになるように」と父に祈ったとき、まともな人間理性ならとうてい達することのできない視野、しかしどういうわけか筆者である私には達することのできた視野を示したのであって、三位の神格の一致と、真理と愛におけるすべての人の一致との間の、ある類似を、聖書にもどこにも書かれていないけれど、とにかくほのめかしている。

くたっ

注)彼のお仲間の "神学者" の著作には書かれているかも知れません。

 彼の言葉の "真の姿" は確実にこの如し↑であって、本来なら「妄想」のレベル、或いは「お笑い」のレベルなのです。

 「仮にも公会議の言葉であるものを『お笑い』とは怪しからん」などと言わないで下さい、真面目一方の人達。
 何故なら、一番笑っているのは、実は彼自身だろうからです。彼は、自分のこれらの言葉が「お笑い」的な発明であることを知っています。つまり、そこには聖書的基礎など何もなく、彼自身が「独り決め」したことに過ぎないことを、彼は知っています。そして、それにも拘わらず純真な聖職者達が彼の言葉を大真面目に受け取っているのを見て、彼は物陰で笑っているのです。保証します*。

* いや、本当は誰の保証も役に立たない。あなたは──私は神父様方のことを考えています──あなた自身の目で、一つ一つのモノをよくご覧になるしかない。偉そうに言いますが、本当です。

 私は「妄想」とも言いましたが、もちろん彼は妄想を持っていないでしょう。しかし、彼がやっているのは無理な神学──"理の無い" 神学です。聖書的基礎を持ちません。関連のない二つのものをあたかも関連があるかのように差し出すのですから、外見上、「妄想的」です。そして、あなたにとっては「幻惑的」なのです。

 もう一度言います。
 「人間理性が達することのできない視野」という言葉は実のところ「聖書にもどこにも書かれていない」ということを正当化する(誤魔化す)ための言葉であるに過ぎません。取って付けた、ペラッペラの安い文句です。

※「真面目一方の人達」云々という言い方には問題があったかも知れません。救霊のためには人間は「真面目一方」ぐらいの方がいいのかも知れません。しかし、善人は善人であるだけに悪に目が利かないというところがあります。

 本稿に無関係の参照: 聖アルフォンソ・リゴリオ著 『死の準備

次へ
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ