2014.03.02

現代世界憲章は反キリスト文書である Part 3

 世のお勉強家達は非常に多くのものを読みます。
 しかし、現代世界憲章の筆者が「もう一人のAA」であることは(或いは少なくともその高い可能性は)たった一つの段落からも分かります。
 お勉強家の人達は「多く読む」ことで、かえって、謂わば「言いくるめられた」状態になってしまいます。

 さて、その段落を再び引用するにつき、一つの事をお許し頂きたい。それは、憲章の日本語版の「すべての人」という言葉を「みな」という言葉に差し替えることです。

 そうしたい理由の一つは、そこに「すべての人」と書かれてあったのでは、かえって分析の邪魔になるからです。
 私達は今、その段落の全体から、その "文脈" から、憲章の筆者がその言葉「omnes」を拡大解釈して、主が「信者」に関して言われたそのお祈りから不当にも「すべての人」に関する或る結論を導いている事を、謂わば「あぶり出そう」としています。そうであるのに、初めからそこに堂々と「すべての人」と書かれてあったのでは、「あぶり出す」も何もあったものではないので、かえって混乱する。だからです。

 理由のもう一つは、憲章の筆者にとってさえ、実は、翻訳版に於いてそのようにまで訳してもらう必要はなかった、というのが真実だろうからです。英語訳に於いては「they all」でも構わなかったでしょうし、そして日本語版では、その訳語「すべての人」は彼にとって不要な訳[やく]だったでしょう。「みな」程度で結構だったでしょう。何故なら、後で詳しく見て頂きますが、彼の目的のためには、「人間理性が達することのできない視野を示したのであって」「ほのめかしている」という二つのフレーズを置けば十分だったからです。彼には、主のお祈りの元々の言葉を変える必要は少しもありませんでした。特に日本語版のその訳は、彼にとって「不必要に親切な訳」だったことでしょう。(事実、彼は32番ではこう書いています。「その宣教においては、神の子らが互いに兄弟として接することを明らかに命じた。その祈りにおいては、すべての弟子たちが『一つ』であるように願った」)

 さて、そういうわけで、そのフレーズを「みなが一つになるように」と差し替えたのち、その「みな (omnes) 」が彼によって不当に利用されていることを証明しましょう。
 私がそれを証明できた暁には、憲章を絶讃してやまない菊地司教様にも、糸永司教様にも、その他の皆々様方にも、「現代世界憲章の筆者がもう一人のAAであること」の限りなく "黒" に近い可能性を、大いに感じて頂きましょう。

 しかし、今、私は「証明」と言いましたが、それは謂ゆる「論証」というイメージからはちょっと離れたものになる筈です。なにぶん、対象は高が一段落です。そして、それは論理的な文章では全くなくて、曖昧さ全開の、ほとんど "気色の悪い" レベルの文章です。だから、私がするのは、その曖昧さの裏に実はどのような不実な意味が籠められているかの「解明」ということになります。つまりそれは、一言で云って「言葉の解明」です。
 そして、それはまた、「それを読んだ私達が、どこかスッキリしないものを感じながらも、彼のそのような言葉遣いによって、どのように "誘導" されがちなものであるか」の解明にもなる筈です。

 前置きが長過ぎて済みませんでした。では、始めます。

 まずは、その "気色の悪い" 段落を、改めてじっくりとお読み下さい。

現代世界憲章(Gaudium et Spes)24 最後の段落

 なお主イエズスは、「われわれが一つであるように……みなが一つになるように」(ヨハネ 17・21〜22)と父に祈ったとき、人間理性が達することのできない視野を示したのであって、三位の神格の一致と、真理と愛における神の子らの一致との間の、ある類似をほのめかしている。この類似は、そのもの自体のために神が望んだ地上における唯一の被造物である人間が、自分自身を無私無欲の気持ちで与えなければ、完全に自分自身を見いだせないことを表わしている。

 Indeed, the Lord Jesus, when He prayed to the Father, "that all may be one. . . as we are one" (John 17:21-22) opened up vistas closed to human reason, for He implied a certain likeness between the union of the divine Persons, and the unity of God's sons in truth and charity. This likeness reveals that man, who is the only creature on earth which God willed for itself, cannot fully find himself except through a sincere gift of himself.

 説明の前に(まだ待たせるのか)、
 私はこんな事を言ってみたくなります。

 あなたが何でも「わかって」しまう人でないならば、
 「わからない」ということが「わかる」人ならば、
 この段落を見て直ぐには到底「わからない」ことでしょう。

 すんなりと「わかる」方がおかしいのです。
 それは圧倒的におかしいです。
 何も読んでいないのと同じです。

 まずは「わからない」と「わかる」ことが大事。

 「何となく分かるような・・・」というのも
 「わからない」の内であると「わかる」ことが大事。

 しかし結局は、私達は彼の真意を「わかり」ます。

 では、「化けの皮」を剥がさせて頂きます。

不可解 1

 この段落は二つの文で成り立っているので、それらを「第一文」「第二文」と名付けさせて頂きます。

第一文

 なお主イエズスは、「われわれが一つであるように……みなが一つになるように」(ヨハネ 17・21〜22)と父に祈ったとき、人間理性が達することのできない視野を示したのであって、三位の神格の一致と、真理と愛における神の子らの一致との間の、ある類似をほのめかしている。

 最初に主のお祈りが引用されているために、これを見たカトリック信者は、「この筆者はこれからカトリック信仰についての何かを語ろうとしているのだ」と思うかも知れません。

 そして、その後に「三位の神格の一致と、真理と愛における神の子らの一致との間の、ある類似」とあるために、「ある類似」という言い方にはちょっと引っかかりながらも、とにかく全体として、これも大方カトリック信仰の文脈で言われている事だろうと、あなたは思うかも知れません。

 つまりこの時点で、あなたの目には、ここにある「みな」という言葉も、そして「神の子ら (God's sons) 」という言葉も、共に「信者」を意味するものと映っているかも知れません。

 しかし、私達は疑問を持つ必要があります。何故なら、そこには「人間理性が達することのできない視野を示した」だの「ほのめかしている」だのと云った、ちょっと意味の分からない言い回しがあるからです。先ほどの「ある類似」というのも気になります。

 ところで、もし素朴な信者である私達が、主のそのお祈りの事、そのお祈りの基本的な意味を描くとすれば、どうなるでしょう。
 きっと、こんな感じになるでしょう。

 主イエズスは、「われわれが一つであるように……みなが一つになるように」と御父に祈られた時、信者間にあるべき一致を、御父と御自分の一致になぞらえるという類比的表現をもって、御父に願われた。

 これは、私が書いたものでありながら、ただ常識であるだけです。私達信者は、イエズス様が御父にそのように祈られた意味を、聖書と教会(の正常な部分)から教えられて──否、教えられなくても、ただ通常の言語能力をもって聖書を読むことで──既に知っています。シンプルに知っています。それは、私が上に描いてみたようなことです。これで十分です。そこには何も、「人間理性が達することのできない視野」だの「ほのめかし」だののことを考える必要がありません。そんな必要は生じません。イエズス様がそのお祈りの中でなさった「御父と御子の一致」と「信者らの一致」の類比に関しては、ただ "シンプルさ" があるだけです。
 ところが、憲章の筆者は、その二つの間に何らかの未だ十分に認識されていない真実(また "秘義" というやつでしょう!)があるかのように書いています。

 なお主イエズスは、「われわれが一つであるように……みなが一つになるように」(ヨハネ 17・21〜22)と父に祈ったとき、人間理性が達することのできない視野を示したのであって、三位の神格の一致と、真理と愛における神の子らの一致との間の、ある類似をほのめかしている

 つまり、私達はここで次のように疑ってみる必要があるのです。

疑問と推理 1

 この「神の子ら (God's sons) 」という言葉は本当に「信者」を意味しているのか?

 何故なら、主イエズスはそのお祈りの中で、「御父と御子の一致」と「信者らの一致」の類比を、決して「ほのめかして」おられない。それを「ハッキリと仰った」のである。

 であるから、もしその種の類比が主によって「ほのめかされた」と云うなら、それは「御父と御子の一致」と「信者らの一致」に関してではあり得ず、「御父と御子の一致」と「信者とは限らない者らの一致」、すなわち「御父と御子の一致」と「人間の一致」に関してであるほかはないだろう。

不可解 2

 第一文と第二文の "つながり" が奇妙なのです。

第一文

 なお主イエズスは、「われわれが一つであるように……みなが一つになるように」(ヨハネ 17・21〜22)と父に祈ったとき、人間理性が達することのできない視野を示したのであって、三位の神格の一致と、真理と愛における神の子らの一致との間の、ある類似をほのめかしている。

 「疑問と推理 1」で指摘したことを一旦忘れて、この第一文が「信者」のことを言っているとしてみましょう。

 ところが、第二文では彼は「人間」のことを言っているのです。

第二文

この類似は、そのもの自体のために神が望んだ地上における唯一の被造物である人間が、自分自身を無私無欲の気持ちで与えなければ、完全に自分自身を見いだせないことを表わしている。

 すなわち、次のようになります。

疑問と推理 2

 第一文が「信者」について言ったものならば、何故、「信者」についての何かから、特に「人間」についての何かが導き出されるのか。第一文と第二文の〈関係〉はいったいどうなっているのか。

 第一文は「ある類似をほのめかしている」という言葉で終わり、第二文は「この類似は…」とそれを引き継いでいる。両者の間には確実に "つながり" がある。それどころか、「第二文は第一文から帰結した小さな結論である」とさえ言える。どう見てもそのような文章構成である。しかし、もし第一文が「信者」について言ったものであるなら、どうしてそこから「人間」についての結論が導き出されるのか。実は第一文も「人間」について言ったものなのではないか。「神の子ら (God's sons) 」は「人間」のことではないか。

答え

 私は、自分で言うのも何ですが、「疑問と推理 1」と「疑問と推理 2」は的外れだとは思いません。"ごもっとも" だと思います。
 ところで、それら二つは二つとも、「ここに言う『神の子ら』とは『人間』のことではないか」という疑問を提出しています。ならば、「神の子ら」を「人間」という言葉に置き換えて、全体を眺めてみましょう。そこに "整合性" が立ち上がるでしょうか。

 なお主イエズスは、「われわれが一つであるように……みなが一つになるように」(ヨハネ 17・21〜22)と父に祈ったとき、人間理性が達することのできない視野を示したのであって、三位の神格の一致と、真理と愛における人間の一致との間の、ある類似をほのめかしている。この類似は、そのもの自体のために神が望んだ地上における唯一の被造物である人間が、自分自身を無私無欲の気持ちで与えなければ、完全に自分自身を見いだせないことを表わしている。

 私の言語理解によれば、これでピッタリと "嵌まった" のです。"整合性" が立ち上がりました。

 彼の真意を代弁すれば、こういうことになる筈です。

代弁 1

 事実、主イエズスは、「われわれが一つであるように……みなが一つになるように」という祈りによって、「信者に限らず人間は、もし真理と愛に於いて互いに結ばれれば、互いに結ばれた聖三位に似たものとなる」という事を、聖書の文字の中には明確に読み取れないとしても、ほのめかしている。この事は、「人間は、自分自身を心から他者に与えなければ、真の自己を完全には見出せない」という事を表わしている。

 断言します。彼が言っているのは確実にこういう事です。

 さて、そして、AA1025の構想を思い出して下さい。
 私はそれをこのようにまとめたのでした。

Point 2
 AA1025が目論んだ事とは、その「みな(all)」と云う言葉の意味を拡大することである。「みな(all)」の中にはプロテスタントも含まれ、他のあらゆる宗教者も含まれ、また更に宗教の問題も超えて「人間一般」までもが含まれることにすることである。それによってイエズス様のそのお祈りを、ただ「人類愛」を呼びかける言葉のようなものにすることである。

 私のまとめでは不満ならば、AA1025の言葉を直接見て下さい。

 私は、もう結論は出たと思います。
 彼の言葉を解明できたと思います。
 「不可解」は消えました。

 そして、「現代世界憲章はAA1025の着想を実行している」と言うためには、以上で十分だと思います。

 もちろん、憲章の筆者が「いかにも、私は彼の着想を実行しました。私は彼の仲間です」と自白したわけではありませんから、最後は私達の感覚の問題ですが。
 しかし、そんな文字通りの自白がなければ、私達は何も確信できないと云うのですか?

 これにて本論はおわり。
 あとは若干の無駄話。

現代世界憲章 (Gaudium et Spes)

日本語版全文(外部サイト、タイプミス多し)

各国語版入口(バチカン公式サイト)

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