2014.01.05

司祭の心を迷妄に導く現代世界憲章 Part 5

糸永司教様のお言葉、追加

 糸永司教様のよりハッキリした言明を見つけたので追加しておく。

「神の子は受肉することによって、ある意味で、自らをすべての人間と一致させた」(現代世界憲章22)。(…)

すべての人間、すなわち、世の始めから終わりまでのすべての人間が、一人の例外もなくすでにキリストに結ばれたのである。

 この司教様にとっては、「地獄」「外の闇」「嘆きと歯ぎしり」「永遠の刑罰」「火と硫黄との燃える池」「第二の死」などの主の聖言[みことば]は、もはや何の現実味も持っていないことだろう。

 彼は現代世界憲章の「ある意味で」という言葉を説明している。

「神の子は受肉することによって、ある意味でみずからをすべての人間と一致させた」(現代世界憲章22)。(…)

すべての人が回心と信仰をもってキリストに結ばれるよう呼ばれている。そのための通常の手段が洗礼の秘跡であることも変わりない。神の子が受肉によってすべての人に結ばれたのは「ある意味で」なのである。つまり、受肉によってすべての人に結ばれたキリストの愛はいわば「片思いの愛」であって、人間各々の側から回心と信仰をもってキリストの愛にこたえることが必要なのである。

 司教様は水の横に油を持って来ている。即ち、キリストの愛が人類(主として未信者)に対する謂わば「片思い」的なものであるというのはキリスト信者に於いて従来的な理解の仕方である。私もそれを受け容れられる。しかし、私達の通常の言語感覚、或いは現実感覚に於いて、「片思いの愛」は「結ばれている(united)」という状態と結び付かない。或いは、その "形容" に値しない。そぐわない。
 この司教様も、池長大司教様と同じで、物事の "関連" というものを見ることが苦手であられる(御本人はそう思わなくとも)。謂わば "無理な接ぎ木" のようなことをして平気である。

 又、「キリストの愛にこたえることが必要」ということだが、この司教様にとってはその「必要」は人間の "死活問題" を少しも意味しないだろう。たとえ或る人がその「必要」を満たさなかったとしても、それどころかキリストの愛を裏切るようなことばかりし、最後の瞬間まで悔い改めることなく一生を終えたとしても、その人が謂ゆる「嘆きと歯ぎしり」に陥ったりだとか「永遠の刑罰」を課されたりだとか、そのような恐ろしい、取り返しのつかないことには決してなりっこない、というわけであろう。
 (この司教様は、「混同主義」「万教同根説」「宗教多元主義」などを退けながら、カトリック信仰者としての弁えを外していないおつもりだが、この事の重大性を少しもお分かりでない。)

 糸永司教様に於いてばかりでなく、現代世界憲章のその言い回しを信じる全ての司祭に於いて、「嘆きと歯ぎしり」とか「永遠の刑罰」といったイメージ(というか聖言そのもの)は事実上その効力を無くし切っているだろう。

* * *
チャールズ・マンソン

"キリストに結ばれた" チャールズ・マンソン

しかし、キリストがこの男に「片思い」であるばかりでなくこの男と「結ばれて(united)」いたなら、この男の人生や心はもう少し善いものであってもよかったのではないか?

(このように素朴に首をひねることが "高度な神学" よりも余程英知あることである)

 私は、このような写真やあのような写真を掲げて、「この男達は必ず地獄に行く」とか「行った」とか言いたいのではありません。ええ、私は確かにそのようなことを言いたいのではありません。ただ、私達には一定の「現実感覚」っていうのが必要じゃないですか。
 「神学」という抽象的な論議の中で、神父様方はどこまでも "飛んで行って" しまうような気がします。あなた方が「凧」だとしても(失礼)、もう少しちゃんと糸を "地面" に付けていて欲しいものです。

 「教会」を限りなく、無条件的に信用することは、いいように見えて、実は「警戒心のなさ」であるが故に、良くないことです。

 現代世界憲章のあれらの言葉は、敵が仕掛けた "マインド・コントロール装置" ですよ。まんまと引っかかって、頭が "お花畑状態" になってどうしますか。

Illuminati Card Game - Messiah Card

 私達平信徒は、私達の神父様方がこんな事を言うようになってしまったということをしかと知っておくべきです。しつこく確認。

池長大司教様

神は罪人をも結局は救いあげるものとして存在しておられる。

十字架でキリストがすべての人のあらゆる罪を償われた。

糸永司教様

すべての人間、すなわち、世の始めから終わりまでのすべての人間が、一人の例外もなく、すでにキリストに結ばれた。

 このような先輩達の言葉を聞いた後輩の神父様方はどうなるでしょうね。その御意識は。
 それなりに真面目かも知れないが、おそらくサラリーマン的に、ごゆるりと、御聖務をなさるでしょうね。だって、「人間はたとえ放っておかれてもおおかた大丈夫」ということですから。
 司祭達の心にそのような弛緩をもたらすことが敵の狙いだったわけですが、その作戦にスッポリ。

補足)或いは、「司祭というものはサラリーマン的になることを避けなければならない。理想的には、一身を投げ打って他者のために働くようでなければならない」というほどの信念を持った司祭でも、「全人類は既に根源的にキリストと結ばれている」と思っているならば、結果として似たようなことになるでしょう。つまり、そのような司祭の関心は勢い「社会改革」の方に向かうのであって、特には「救霊事業」には向かわないのです。「人類は救霊に関してはほぼ間に合っている」ということであれば、当然そうなります。

現代世界憲章 (Gaudium et Spes)

日本語版全文(外部サイト、タイプミス多し)

各国語版入口(バチカン公式サイト)

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