2013.11.08

浦川和三郎司教様編著『基督信者宝鑑』(昭和5年)より

ロザリオ

ロザリオと親まねばならぬ

信心の勤行[つとめ]の中[うち]に最も行い易くて、又最も広く行われて居るのはロザリオである。やっと片言交りに物を言い出す頃になれば、もう直ぐにロザリオを執って天使祝詞を誦えて居る。だんだん成長するに従って、玄義も教わり、その玄義を考えつゝ、それぞれに適当した恩寵を請受けたい意向[こゝろあて]を定めて誦える様になって来る。然うなれば、愈々ロザリオと親んで、不断頸に掛けるやら、袂に入れるやらして、暫くも身を離さず、嬉しい時は之を手に執って聖母に感謝し、悲しい時も之を爪繰って慰を祈り、助を求めるのである。

ロザリオは信者の一番好みもし、親みもする所で、我等が現世[このよ]の荒野[あれの]を旅する間は、このロザリオも夜昼側に付添って一緒に歩いてくれる。一切の物に永久の訣[わかれ]を告げ、いよいよ冷い屍となって床の上に横わるに至ると、氷の様な我等の手には必ずこのロザリオを握らされる。持って居た物は一つも残らず捨置いて、暗い墓穴に入って行く段になっても、是だけは剥ぎ取られない。一生の間、之を執って聖母を讃美し、その御助を祈って止まなかった代りに、今こそ聖母が御憐を垂れ、御保護を加えて下さると云う印に、墓の中にまで之を持って行かされるのである。

兎に角カトリック信者たる者はロザリオと親まねばならぬ。成ることなら毎晩、家族一同、聖母の御像なり、御影[ごえい]なりの前に跪いて、ロザリオを誦えると云う美しい習慣を作って貰いたい。若し一串[いっかん]を残らず誦えること出来なければ、せめては一連か二連かなりとも誦えて欲しいものだ。無駄話を幾分早く切上げて、其代りにロザリオを誦えることにすれば、それで如何ほど聖母の御旨に適い、又如何ほどその祝福を忝[かたじけの]うするに至るであろうか。

ロザリオは優れた祈祷である

ロザリオが如何に優れた祈祷であるかと云うことを知りたいならば、先ずその組立を見るが可[よ]い。ロザリオは主祷文・天使祝詞・栄誦の三つより成って居る。主祷文は主の自ら授け給いし祷[いのり]で、天使祝詞は主の聖旨を伝える大天使ガブリエルの御言と聖霊の黙示を蒙れるエリザベトの御挨拶と、聖会が聖母の御助を求める為に加えた祈願の文より成り、栄誦は至聖三位に対する如何にも麗しい頌辞[ほめことば]であって、聖会の初頃から広く世に行われ来ったものである。

こんなに美事な、実に選りに選った祈祷を以て組立てゝある上に、是は聖母が親しく聖ドミニコに授け、是に由って数々の御恵を施すとまでお約束になったものだと思い給え。その如何に優れて、主の思召にも、聖母の御旨にも適える祈祷であるかと云うことは、多言を要せずして明らかであろう。

其上、祈祷と云うものは口先ばかりで誦えても格別為にならぬ。然るにロザリオは口に主祷文や、天使祝詞を誦えながら、心ではそれぞれに当る玄義を黙想する様に仕組んである。して其玄義なるものも、信者たる以上は、誰一人知らぬ筈がないイエズスとマリアの御一代にあった最も著しい出来事なのだから、それを黙想するのは何[なん]にも六ヶしくない。斯の如くロザリオは口祷たると共に念祷であり、口と心とが双方一緒に祈る様に出来て居るから、無暗に心も散らないで、余程熱心に誦えられる。従ってロザリオは大いに聖母の御旨に適い、是を誦えて聖母に願えば、何に由らず喜んでお聴容れ下さるのみならず、其人までも可愛がって、特別に保護して下さる。聖母は嘗て福者アレンに「ロザリオを熱心に誦える人ならば、臨終に当って必ず見棄ない。屹と悪魔に打勝つだけの力を乞求めて上げる」とお約束になった事がある。

天使祝詞を反復す理由

然し何故天使祝詞を何十回と繰返すのだ?…何故って、そんなに不思議がるにも及ぶまい。天使祝詞の如く立派に出来て、而も我等の聖母に対する感情を遺憾なく言顕[いゝあらわ]した祈祷が何処にあろう。「慶たし聖寵充満てるマリア」、実にこの祈祷の前半は、喜ばしい祝捷[かちいわい]の叫びである。聖母の偉大さ、その御光栄を称える群衆の熱狂せる叫びである。後半は却って悲しい嘆の声である。「天主の御母聖マリア、罪人なる我等の為に云々」、死の宣告を受けた人類が、急を告げ救いを叫ぶ哀れな声なのである。

歓喜に胸を躍らし給える天の元后に自分の急を告げて、救を求める様に拵えた祈祷であるから、比[たぐい]なく美[うるわ]しい。誰でも好いて居る。昔の人も、今の人も、後の人も、是を好かない者なしである。天からも地からも、夜昼、聖母の玉座に向って昇って行く声は、実にこの「慶しマリア」の声である。「慶しマリア」、是は救主の御托身を告げる為、特に遣わされた大天使の御詞[おことば]である。「慶しマリア」、是は主が御在世中、御母に向って申された御挨拶の御詞であって、又今日でも、天に於て誠意[まごころ]からその御母に尊敬を表し給う御詞であるに違いない。「慶しマリア」、是こそ諸々の天使・聖人がその元后を讃め称え給う御声であると共に、また煉獄の霊魂等[たち]が、其苦の中から遥に聖母を仰いで嘆願せる叫びである。「慶しマリア」、是は我等の祖先が、迫害の暴風に揉まれながらも、絶えず口にせし祈祷であった。今日でも全世界のカトリック信者の唇を洩れ出て居るのは、実にこの「慶しマリア」の声である。この声ばかりは、夜でも昼でも世界に絶えた事がない。日本が夜になって、人々は「慶し」を誦えつゝ静かに眠りに入る頃、アメリカ辺りには徐々[そろそろ]と旭日が昇って来て、楽しい「慶し」の声が響き出すのである。

斯の如く「慶し」は如何にも勝れた祈祷である。謂わば我等が聖母に捧げ奉る愛情の接吻である。聖母の御頭を飾るべき薔薇の花片[はなびら]である。我等が現世から「慶し聖寵充満てるマリア」と申上げると、天国の天使、聖人等は喜び面[おもて]に溢れて、共々に「慶し聖寵充満てるマリア」と叫んで、聖母を讃美し給うのである。

然し幾ら「慶し」が慶い祈祷であるにしても、何の為め同じものを五十回も百回も繰返すのだろう? …それがお分りにならない! 少しく御経験に訴えて御覧なさっては? …何人[だれ]かを愛するとか、憎むとか云う時、何かに感激したり、立腹したりした時は、その愛情なり、憎悪なり、感激や、憤怒や、喜悦や、悲哀やを表す極[きま]り文句を繰返しては繰返し、繰返しては繰返し、何時まで繰返しても飽き足らず思うものではないか。ラコルデール師も言った如く、「愛はたゞ一語[ひとことば]しか知らない。それを何時も繰返して居るが、自分では決して繰返して居る様には覚えないものである。」

見よ、国を離れて他国へ旅行せる日本人は、絶えず「日本、日本」と口癖の如く「日本」を出して居る。小児[こども]は朝から晩まで、「お母さん、お母さん」と言い言いして居るが、然し自分ではそんなに繰返して居る事すら分らない。繰返す毎に言い知れぬ快味[たのしみ]を覚えるものである。水夫が船を漕ぐ時は、「エッショイ、エッショイ」と同じ掛声を繰返して艪拍子[ろびょうし]を合せる。乞食は誰の門口に立っても「願望[どうぞ]この哀れな乞食に」と言って居る。凱旋軍隊が通る時は、声も嗄れよとばかりに、「萬歳、萬歳」を繰返すが、それでも決して耳障りはしない。

我等がロザリオを誦えるに当って、「慶し」を反復[くりかえ]すのも、まあ、一寸そんな様なもので、愛すべき御母を頌[ほ]めるのだ。その天国へ凱旋し給うたのを祝賀するのだ。楽しい母の名を言うのだ。愛情の熱気を洩すのだ。憐を乞い、助を願うのだ。何十回、何百回くりかえしたからって、何も不思議がるには及ぶまい。で我等はロザリオと親み、何時も之を身に着けて居て、一寸の暇にも直ぐに取出して誦えることに致そう。熱い、優しい、子女[こども]の心を以て「慶し聖寵充満てるマリア………今も臨終の時も祈り給え」と、絶えず誦えて居ると、聖母は大いに喜んで、今も何時も殊に臨終に際して、我等を憐み、護り、助けて下さるのである。

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