2013.11.08

浦川和三郎司教様編著『基督信者宝鑑』(昭和5年)より

ミサ聖祭

ローマに「最後のミサ」と題する一幅の名画がある。上欄[うえのほう]には最高判事たる基督が光り輝ける裁判の席に坐し、今にも世の人を残らず尊前に召喚してその怖るべき審判を開始めようとし給える所を描き、下欄[したのほう]には司祭が祭壇に立って最後のミサを執行い、汚れなき神の羔[こひつじ]を御父に献げて、罪人の為に御憐を祈って居る其傍に、天使等[たち]は早や喇叭を口に当て、聖祭が果て、主の御血が最後の一滴まで人々の上に流し尽されると直ちに世の終局を告げる合図を吹き鳴らそうと俟[ま]ち構えて居る所を写してある。是はミサ聖祭の極めて重要にしてその功徳の限りもなく広大な訳を見せたものではあるまいか。「若しミサが無かったら私等は如何[どう]なるでしょう。主の御腕を引止め得るものは、このミサ聖祭のみだから、是でも無かった日には、私等は皆滅んで了[しま]うより外はありません」と云った聖テレジアの御言を画題として描いたものだと云っても可[よ]い位。今、ミサ聖祭は何処からそれ程の功徳を生ずるかと云うに、ミサはカルワリオに於ける十字架の祭の記念であり、再現であり、適用であるからである。

ミサは十字架の祭の記念である

世の人は何か著しい出来事だの、他に傑出した忠臣孝子だのゝ事は何時までも忘れない。記念碑を設けるとか、銅像を建てるとかして、千萬年の後までも其人の功業[てがら]を伝え、其事の記憶を遺そうとするものである。所で我等人類に取って、最も著しい、有難い、何時になっても忘れてならないのは救贖[あがない]の大事業であるから、之を長く長く忘れさゝない為、主は故にミサ聖祭を定め、「汝等我が記念として之を行え」と弟子等に御遺言になったのである。

今暫く心を遠く千九百年の昔に馳せて、ミサ聖祭の制定められた当夜の光景を想え。主はこの世を去って御父の許に帰らねばならぬ時が来たと見給うや、その愛する弟子等と最後の晩餐を共にし給うた。もう二三時間の後には悲しい御受難の幕が切って落される。明日はいよいよ十字架上に惨憺たる血祭を献げる。世の人を愛するの余り、彼等の罪を悉く我身に引受け、鮮血を漓[した]めてこれを洗い清め、苦しい最後を遂げて彼等を救い上げるのだ。然し其為にはどうせ弟子等と離れねばならぬ。是まで共に食し、共に飲み、親しい友、睦じい兄弟となって、互いに愛し愛されて来た彼等と離れねばならぬ。が只では離れられぬ。是非愛の記念品を遺したい。是非自分の偽りなき愛の証拠を見せたいものと思召されて、聖体の秘蹟を制定め、ミサ聖祭を行ってその聖体を作る権力を彼等に授け、「汝等我が記念として之を行え」と宣うたのである。

斯の如くミサ聖祭は十字架の祭の記念であって、主も祭壇上では御死去あそばしたが如き御姿を見せ給うのだから、之に与る毎に、丁度カルワリオの頂きにでも登って居るかの様な心持になり、主が十字架に釘づけられ、鮮血を滴らして罪の汚れを洗い清めて下さるその痛々しき御有様を偲ばねばならぬ。我等の救贖[あがな]われたのは全く彼の惨憺[いたま]しき御受難・御死去の結果たることを考えて深く感謝しなければならぬ。終に主の愛の限りも涯もないのに驚き入って、心の底より主を愛し奉らねばならなぬのである。

ミサは十字架の祭の再現である

ミサは只に十字架の祭の記念たるのみならず、亦その再現である。なるほどミサに於ては、カルワリオの頂きに於けるが如く、主が群衆に悪罵[のゝし]られ、悪党に苦められ、惨憺[むごたらし]き十字架に磔けられ、全身隙間もなく傷を蒙り、御血を漓[した]め尽して御死去あそばす様なことはない。捧げ方は全く違って居る。然しその実体に至っては毫も十字架の祭と異る所がない。

─ 犠牲が同一である。ミサに献げられ給う犠牲は単に一個の象徴[かたどり]たるに止まらずして、実は神にして人たるイエズス・キリストである。使徒聖アンドレアはアカイアの知事に向い、「我等が祭壇に供え奉る犠牲は、牡牛の肉や牡山羊の血ではなく、実に汚れなき羔である。この羔は犠牲に供えられてからも相変らず無瑕である。生きて在す」と曰[い]った。兎に角、十字架上に献げられ給うた御主[おんあるじ]が、ミサの祭壇上にも同じく献げられ給うのである。

─ 司祭も同一である。十字架上に於て己を犠牲として御父に献げ給うた主は、今もミサ聖祭に於て我身を犠牲として御父に献げ給うのだ。祭壇に立ってミサを行う司祭は、単に主のお手伝となり、主に代って聖別の辞[ことば]を誦えるまでに過ぎない。強い信仰を持った人ならば、硝子器の中に入れた燈火を外から覗くが様に、司祭の中に主を見出すはずである。

─ 犠牲の献げ方は固より異って居る。然し犠牲を献げると云う点に至っては全く同一である。十字架上に於て主は苦しみを受け、血を流し、死して、御体と御血とが離々[はなればなれ]になり給うたが、ミサにては苦しまず、血も流さず、死し給うこともない。たゞ十字架の上でお忍びになった御死去、お流しになった御血をば再び御父に献げ給うのみである。だが祭壇の上にもその御死去の姿が立派に見えて居る。即ち司祭はパンと葡萄酒を聖別する時、パンの上には、「是れ我体なり」と曰い、葡萄酒の上には「是れ我血なり」と曰う。固より主は聖体の中に活きて在せば、御体と御血とが離々になり給う筈がない。パンの形色の中[うち]にも、葡萄酒の形色の中にも、御体、御血、御霊魂、神性までが全く籠り在す。然し単に聖別の辞だけに就て見ると、御体と御血とが離々になって御死去あそばしたかの様な姿を呈して居るのである。

─ 祭の目的も双方同一である。キリストは十字架上に於て人類の身代りとなり、神を礼拝し、その鴻恩[おめぐみ]を感謝し、生ける人と死せる人との上に御憐を乞い、罪の赦を求め給うたが、今も同じ目的を以てミサの祭壇上に犠牲となり給う。全人類に代って御父に礼拝、感謝を献げ、罪の赦と必要の聖寵とを乞い求め給うのである。斯の如くどの方面から見ても、ミサは十字架の祭を立派に再現して居ると謂われなければならぬ。

ミサは十字架の祭の適用である

主は十字架上にて、人類救贖の代価をお払いになった。ミサにては新たに功徳を儲け給うのではないが、既に求め置き給える十字架の功徳をば、各人に配り給うのである。

して第一にミサの功徳を蒙るものは聖会である。聖会は世俗の荒海を渡って居るペトロの船で、始終大波小浪に揺られ揺られて居るのだから、之を平穏ならしめ給う様、色々の敵に襲われ、猛烈[はげ]しき攻撃の矢面に立って居るのだから、之を保護して下さるよう、悪魔が絶えず内部に不和を醸し、分離を惹起[ひきおこ]させようと企るのだから、一致を保たして下さるよう、怖ろしい暗礁の乱れ立てる中を進んで居るのだから、巧くこの船を治め司って下さる様に祈る。一口に言えば、平穏無事その進路を辿って行くに要する聖寵をお与え下さいまし、と司祭はミサの中に祈るのである。

次に特別の功徳を蒙るのは司祭である。司祭の職務は随分困難で、その責任は非常に重い。弱い人間には迚[とて]も満足にそれが果されそうにも思われない。幸いに毎朝毎朝祭壇に上ってミサを行い、聖体を拝領するので、それに力を得て、如何なる困難をも推破[おしやぶ]って進むことが出来るのである。

終にミサは聖会の名を以て献げるので、聖会の信者たるものは、何人[だれ]しも幾分の聖寵を蒙ることができる。然しミサ聖祭に与る人、殊にミサの奉仕をする人は、一層豊かにその御恵を辱[かたじけの]うするのである。「主よ、我周囲に立てる人々を記憶[おぼ]えさせ給え」と曰って、司祭はミサに与る人のため特別に祈るのだから、主は必ず祭壇上から憐の御眼を見開いて彼等を眺め、一人一人に必要な聖寵を施し給うに相違ない。

ミサは斯れほど優れて有難い聖祭[おまつり]で、之に由って如何なる功徳を辱うし得るかと思ったら、毎朝でも往って拝聴したい気になって来る筈である。成るほど主日と祝日の外にはミサを拝聴せねばならぬと云う義務はない。然し義務が無いから拝聴するには及ばぬと云う訳はない。若し主が近くに出現[あらわ]れて我等をお俟ち下さると云うならば、どんなに喜んで尊前に駈け付けようとするだろうか。たとえ其為に一時間や二時間は早く起きねばならぬ、少々無理な差繰[さしくり]をせねばならぬでも、どうにかして御目に懸りたいとするぢゃあるまいか。

所で主は毎朝聖堂内に出現[あらわ]れて、我等をお俟[ま]ち下さる。わざわざ祭壇の上に御身を犠牲に供え、我等に代って御父を礼拝し、その御恵を感謝し、我等の為に罪を贖い、恩恵[めぐみ]を願って下さる。自宅から程遠からぬ所に神の貴い御血が灌[そゝ]がれてある。往ってその聖祭に与ると莫大な聖寵が蒙られるとは飽まで承知しながら、義務でもないのに眠い目を擦って行くには及ばぬ、と済まし込んで居るとは余りに慾が少いと曰わなければなるまい。

尤もミサを拝聴するには、朝も幾らか早く起き、時間も多少は潰さねばならぬ。然し辛い所を主に献げると、少からぬ功徳となる上に、主の為に潰した時間は百倍にして返酬[むく]いられるのが常である。聖イシドルは田舎の貧い農夫で、人に傭われ、野良仕事をしてやっと口を糊して居たものである。それでも毎朝欠さずにミサを拝聴するのであった。主は彼の熱心を喜ばれ、彼が聖堂に在ってミサを拝聴する前に、天使を遣わして其畑を耕させ給うことも幾度となくあったとか。我等の為には其様な奇蹟を行い給うことはあるまい。然し主は全能に在す。我等の熱心に酬いるには、必ずしも奇蹟を用い給う必要はないものだ。「汝等先ず神の国と其義とを求めよ、然らば是等の物は皆汝等に加えらるべし」(マテオ六ノ三三)と明らかに仰しゃって下さった。兎に角、平日のミサ拝聴が家業に損を招くか益を来すか、一年間でも試して見たら分るであろう。

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