2012.08.13

クリスマスの中に紛れ込んでいるもの 7

「歪曲」と「真の尊敬」は両立しない
既に私の目の前に「サンタクロース」と結び付けられた三つの異なった人物像(神の像?)が置かれた。
Wild Man
Thor
Père Noël
またその他に、北欧神話の神「オーディン(Odin)」というものとの関係も考えられるというのだから、たまらない。 私は素朴に言おうと思う、「困る」と。 つまり、それら “全部” がサンタクロースの起源だと言われても「困る」と。 あるいは、これら “全部” が聖ニコラオの姿と “ミックス” されたと言われても「困る」と。 そして、私には、それら一つひとつが事実そうであるのか精査する興味がない。
が、「精査」などしなくても分かる事がある。 それは、第一には、既に言った事だけれど、現在私達の前に立ち現われている「サンタクロース」なるものは、その “起源” とされるところの「聖ニコラオ」の人物像とは似ても似つかぬという事である。
そして第二には、ここには「聖人」その人への、あるいは教会が与える「聖」という称号への真の尊敬が無いという事である。
「真の尊敬の有る所、歪曲は無く、歪曲の有る所、真の尊敬は無い」ということは真である。これは本来なら誰もが容易に理解するところのものである。
あなたにはあなたの尊敬する聖人がある。ある時一人の人が来て、あなたに向かってこう言ったとする──「子供達を喜ばせるために、ひとつ、あなたの尊敬するその聖人のイメージをより親しみの持てるものに変えて、夢のある物語を書き、出版してくれませんか」。あなたが真面目な信者なら、もちろんこう答えるだろう──「そんなことはできません」。何故なら、あなたは「聖人の姿を改変するのは悪いことだ」と知っているからである。
しかるに人は、自分ではなく誰かが改変したものとなると、あるいは人々の「習慣」やら「習俗」の中に永らく続いて来たものとなると、受け入れるのである。なにか我知らず無責任的な構えになってしまい、思考停止のような感じになってしまい、受け入れるのである。
自分がやったことであろうと、自分以外の誰かがやったことであろうと、今やられていることであろうと、ずいぶん前からやられていることであろうと、「改変」ということでは同じであるのに。
「サンタさん」に扮する司祭や信者
これらの神父様方や信者さん達は、本来なら受け入れてはならぬものを受け入れている。
そして、ここにおいてもやはり「愛」が一つの罠となっている。 (「子供達を喜ばせたい」という。)
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