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The Saint of the Day
聖ニコラオ 12月6日
プリニオ・コヘイア・デ・オリヴェイラ教授
伝記の概要
聖ニコラオは、リュキア(小アジアの一地域)のパタラで、裕福な両親のもとに生まれたと言われている。彼はミラの司教という呼称のもと、その高潔さ、慈悲心、及び奇跡で有名になった。彼はディオクレチアヌスの迫害の時には、その信仰ゆえに投獄された。彼はニケア公会議に出席し、そこでアリウス派を非難した。350年にミラにおいて帰天。1087年に、彼の遺物の幾つかがバーリ(イタリア)へ移送された。そして、多くの奇跡が彼の執り成しによって起こった。これらの事が西側世界における彼の絶大な人気の原因となった。
プリニオ教授による解説
三人の娘の父親(眠っている)の家の窓に金貨が入った袋を投入する聖ニコラオ(フラ・アンジェリコ作)
聖ニコラオは親の富を利用し、バツの悪い貧者と呼ばれている人々──すなわち、援助を求めて路上で物乞いすることも出来ず、生きるための財政的手段も持っていない、良い社会的階層にある人々──に贈り物をした。そのような貧困に陥った人々を助けるために、彼は変わった方法を取ることを常とした。窓から、煙突から、あるいは他の色々な手段で、匿名で贈り物を置いて来るのである。
典型的な例の一つは、三人の娘達のために持参金を用意出来ず、適当な結婚を準備することが出来ずにいた、或る父親の例である。その男は絶望して、娘達のために残された道は恥の人生を生きることだけだ、と考えていた。聖ニコラオは別々の三度の機会に、彼の家に金貨が入った袋を投げ入れ、それによってその男がそれぞれの娘達のために持参金を用意し、首尾よく結婚させることが出来るようにした。
その事と他の多くの彼の慈悲的な働きから、彼がクリスマス・イブに天国から来て、行儀の良い子供達にプレゼントを与えるという一般的な考えが生まれた。それは善い言い伝えであり、カトリック諸国に広まり、同様に他の諸国にも速やかに広まった。子供達にとってカトリック教徒になること、そして善い人間になることは、一つの刺激的なこととなった。そして同時にこの事は、子供達の清さと、素晴らしい物事への感覚を育むこととなった。
しかしながら、教会の敵達は、子供達の間で人気のある聖ニコラオの名声を支持することが出来ず、子供達の注意力を逸らすために別の人物像を発明した。
聖ニコラオの伝統的なイメージ(左)は、フランスにおいて、秘密の勢力によって、世俗的なペール・ノエルのイメージ(右)に変形された。
フランスで、秘密の勢力 [1] が、ペール・ノエル(Père Noël)のイメージを拵えた。père(= father)という称号は、素朴な人々の間で、或る種の父親らしい役割を持った年老いた男性に与えられる、非常に一般的な称号である。ノエル(Noël)という言葉は、一つの喜びの歓声であり、アレルヤと似たようなもので、普通、クリスマスの祝宴と結び付けられている。そのようにして彼らは、聖ニコラオと正に同じようなことをするが、それでいてカトリックの慈悲心と清浄は何ら反映していない、ペール・ノエルのイメージを発明したのである。
ペール・ノエルは、宗教的な基礎なしに、その最も高い原因なしに、或る種の博愛を表現する。これが、聖ニコラオの伝説がフランスにおいて不敬で世俗的な伝説になった仕方である。
ハーパーズ・ウィクリー誌上のトーマス・ナスト作のサンタクロース(1881年)
プロテスタント達は
[2] 聖人崇敬を憎み、聖ニコラオあるいは聖クラウスの伝説を北欧の魔術師の伝説と入れ替えた。そして、子供達の感嘆を宗教的な人物からファンタジーへと逸脱させるために、その魔術師の多くの特徴
──ソリ、トナカイなど
──を聖ニコラオの生涯の中に混ぜ込んだ。
それは、最も魅力的なカトリックの伝統の一つを形成したその言い伝えのカトリック的性格を削除すべく、その革命が用いた知的なやり口であった。
取るに足りないように思われる細目においてさえ悪はどのようにカトリックの伝統に対抗して働くものであるか──を知ることは、私達にとって有益である。そして、私達は警戒しつつ、その進展に気づかねばならず、それに対抗しなければならない。
The Saint of the Day のコーナーは、故プリニオ・コヘイア・デ・オリヴェイラ教授の解説に基づき、聖人達の生涯のハイライトを扱っています。プリニオ教授は、聖ヨハネ・ボスコが自身のカレッジの少年達に同様の話をするのが常であったのに倣い、若者達に徳の実践とカトリック教会への愛を励ますために、彼らのための会合において、毎晩、翌日の聖人の生涯について短い解説をすることを習慣としていました。当サイトは、読者の皆さんがそれらの価値ある解説から益を受けることが出来るだろうと考えました。
伝記のデータと解説のテキストは、両方とも、1964年から1995年まで Atila S. Guimarães が書き留めた個人的ノートから取ったものです。典拠は個人のノートブックですから、そこに書き留められたメモは時にプリニオ教授のオリジナルのテキストと厳密には一致していないという可能性があります。解説はまた、当サイトのために編集され、また翻訳されました。