2012.08.13

クリスマスの中に紛れ込んでいるもの 5

私達は、もうよい加減、サンタクロースについて、
「4世紀頃の東ローマ帝国小アジアの司教(主教)、教父聖ニコラオス(ニコラウス)の伝説が “起源” である」 とか、
「サンタクロースは小アジアのリュチアに住んでいた聖人ニコラウス(270年〜342年)に “由来” します」 とか
言わないようにしなければならない
(あなたの「人権」を抑圧しようというのではないけれども。)
もっとも、これは言語感覚の問題でもあるかも知れない。「起源」と言うなら、それは確かに、或る種の仕方で「起源」なのかも知れない。「由来」と言うなら、それは確かに、或る種の仕方で「由来する」のかも知れない。
しかし、私達は「現実的」に生きなければならない。
そして、それに従い、「現実的な言葉の使い方」をしなければならない。
だから、私は、少なくとも「実質的に」という言葉を差し挟む必要をどうしても感じる。すなわち・・・(私達は次のように言わなければならない)
歴史の経過はどうあれ、とにかく、実質的に、 聖ニコラオとサンタクロースは “全くの別物” です。
両者の間には何の関係もありません。何の接触もありません。
私は次の筆者に概ね同意する。
(画像と下線は管理人による挿入)
サンタクロース
聖ニコラオとは懸け離れたサンタクロースの真の起源についての説明、及びその伝説の取り扱いに関する両親達のためのガイドライン
多くの人は、サンタクロースは聖ニコラオが「変装」したものだと思っています。しかし実際には、その二つの人物像の間には、名前以外には共通したものは何もありません
オランダ人がアメリカに来てニューアムステルダムの植民地を確立した時、彼らの子供達は12月5日の伝統的な「聖ニコラスの訪問」を楽しみました。というのは、オランダ人は宗教改革の後でさえこの古いカトリックの習慣を保っていたからです。後にイングランドが同じ地方にニューヨークの植民地を起こした時、シンタクラース(サンタクロースのように発音される)の親切そうな姿は直ぐにイギリスの子供達の中に「自分の家にもそのような天国的な訪問客を招きたい」という欲望を引き起こしました。
しかしながら、カトリックの聖人にして司教であったその人物は、彼らとって受け入れ難いものでした──特に、彼らの多くが「司教」というものを不快に思う長老教会派の信者だったために。また彼らは、古いカトリックのカレンダーに従った聖人の祝日を祝うということもしていませんでした。
そのジレンマは、オランダ人がサンタクロースと呼んでいたそのミステリアスな人物の訪問日を12月5日からクリスマスに移すことで、そしてまた、その人物像それ自体を大きく変えることで、解決されました。それは単に「変装させた」ということではなく、その古い聖人が全く別のキャラクターに完全に置き換えられたということです。頭の回る或る人達が、18世紀に、この代用品を発明したのです。
サンタクロースという名の背後にあるのは、聖ニコラオの伝統的な人物像ではなく、ゲルマン民族の異教神トール(Thor)(Thursday の語源)です。現代のサンタクロースの物語の起源を知るために、古いゲルマン民族の神話からトールについての幾つかの詳細を見てみましょう。
トールは農民と一般の人々の神でした。彼は陽気でフレンドリーな、体格のよい、長くて白いあごひげを持った初老の男性として描かれました。彼のエレメントは火で、彼の色は赤でした。雷の響きと轟きは彼が二輪戦車を転がすことに起因すると言われていました。というのは、彼は神々の中でただ一人、馬に乗らず、二頭の白いヤギ(Cracker と Gnasher と呼ばれる)によって引かれる二輪戦車を駆っていたからです。彼は氷と雪の巨人達と戦い、そしてユールの神になりました。彼は「北方地帯」に住んでおり、氷河の間に宮殿を持っている、と言われていました。私達の異教の先祖達によって、彼は陽気でフレンドリーな神であると考えられていました。決して人間を傷つけず、むしろ人間を助け、護る神であると。どの家にもある暖炉は、彼にとって特別に神聖な場所でした。彼は煙突を通って降りて来て、彼のエレメント(火)の中に至る、と言われていました。(参照: H. A. Guerber, Myths of Northern Lands, vol. I, p. 61 ff., New York, 1895)
すなわち、私達の「サンタクロース」の真の起源はここにあります。確かに、異教の神話のしぼんだページから私達の子供達にとってこれほど魅力的で磁力を持った人物像を創り出したのは天才的なひらめきと言うほかありません。しかしながら、このサンタクロースなるものは、今も自身の名を持ち続ける当のキリスト教の聖人とは全く何の関係もありません。歴史学的な正確のためには、私達は彼のことを「ファーザー・トール」と、もしくはそれに類した何らかの名で呼ばなければならないでしょう。
たぶんこの事は、両親達にとって、なぜ「サンタクロース」を「聖ニコラオ」として説明するのがこれほど難しいのか [1] の明確な答えとなるでしょう。そのような説明を支持する根拠が何も無いからです。その二つの人物像は全く別物だからです。歴史的背景を考慮するなら確かに、「サンタクロース」は聖ニコラオのもう一つの名なのだなどとは、子供達に全く教えない方が良いように思われます。私達は子供達に、彼らの守護聖人聖ニコラオ(12月6日)とプレゼントの配達人サンタクロース(12月24日)の二者は、事実そうであるように、全く無関係なものであると教えてはならないでしょうか?
善意の人々の努力にもかかわらず、サンタクロースのおとぎ話は簡単には廃れないでしょう。そしてまた、その必要もないかも知れません。子供達はおとぎ話が好きなものです。そしてサンタクロースはおとぎ話の中で最も魅力的なものの一つです。カトリックの親達は、サンタクロースの不適切に強調されたイメージを避けるために幾つかの安全装置を用いるならば、それを無害な状態で用いることができるかも知れません。たぶん、以下の提案が助けとなるでしょう。
サンタの話を単純で魅力的な形に保って下さい。そしてコマーシャリズムによって導入された変造物(Santason、ミセス・サンタクロース、その他それに類した不快なキャラクター)を避けて下さい。
決してサンタクロースのイメージが子供達の心を支配するのを許さないで下さい。クリスマスについてあれこれ思い巡らす子供達の心の中心にあるのは、おさな子イエズスの御事でなければなりません。子供の前に、サンタを単に召使いとして、配達夫として、楽しいけれどそんなに重要ではないものとして描いて下さい。私は、自分の子供達にそのように教えた或る母親を知っています。或る日彼女は、自分の子供達に、サンタクロースがどのようにあらゆるデパートで見られるか、そして彼はどのように非常の多くの人目を彼自身の上に引いているかを示しました。その子供達は、この配達夫、神の召使いが自分自身をこの祝いの中心に据えようとしていることはとても面白い、と思いました。「彼は少しお馬鹿さんなのね?」と女の子は言いました。「でも、イエズス様は彼のことが好きよ。そして私達も彼が好きだわ。」
あなたの子供達に自分の願望をサンタに表明させないで下さい。もしあなたが彼らが彼らの希望するものを書き留めることを望むならば、古いカトリックの習慣に従い、彼らにおさな子イエズスに手紙を書かせて下さい。サンタはプレゼントを与えません。彼は天主様が送るものを届けるだけです。
上の提案は、子供達が「サンタは居ない」と知る時の「ショック」を軽減するためにも役立ちます。或る母親が、自分の小さな息子が疑いでいっぱいになり、サンタクロースは本当に居るのかと彼女に訊いて来た時にそうしたように。そのような質問は常に真実をもって答えられるべきです。その子供がどれほど小さいかは関係ありません。
「もちろん、居ないのよ」と、その母親は静かに答えました。「それはとても小さい子供達のためのお話なの。あなたはもう大きいわね。だから、あなたは本当はどういうことか分かるわね。私達の愛すべき天主様に配達夫は必要ないの。彼はあなたに、ずっと前から、あなたをいっぱい愛している人を与えているの。あなたに天主様の御名においてクリスマス・プレゼントをあげたいと思っている人をね。誰のことか分かる?」
その子はちょっと考えました。そして言いました、「お父さんとお母さんのこと?」
「そう」と彼女は答えました。「あなたはお父さんとお母さんがあなたにプレゼントをしない方がいいかしら? お父さんとお母さんはサンタクロースよりもあなたのことを愛しているんだけれど。」
「なぜ、もっと前に言ってくれなかったの?」
「なぜならね、小さな子がサンタクロースを信じているのはいいことだからよ。あなたも信じていて良かったと思わない?」
その子は再びちょっと考えました。「うん、信じてて良かった」と、彼は最後に言いました。そしてこう付け加えました、「でも、今の方がずっといいや。」
もちろん、すべてのケースが文字通りこのように扱われなければならないというわけではありません。それをするのにいろいろな方法があります。しかし、このような基本的な考え方に従うことによって、正にその瞬間が来た時、子供達にサンタ物語についての真実に直面させる時に、両親はトラブルを回避することができます。私達がたびたび読む非常に大きな失望と心理的な混乱についての解説は、両親がキリスト(その祝日の全ての意義がかかっているお方)の代わりにサンタに中心的な場所を与えることによって子供達を誤り導いて来た家族にのみ当てはまります。
参考: Year of the Lord in the Christian Home (reprinted as Religious Customs in the Family) by Francis X. Weiser, S.J., The Liturgical Press; reprinted by TAN Books and Publishers, 1964
管理人注
[1] 本当に、どうして親達は、その難しさを知ってビックリ仰天しないのか? 戻る
この筆者が後半でしている提案について「妥協的」と思う人も居るかと思う。
私自身は「まあ、子供達に対しては、こんな対応が現実的なところかな?」と思う。
しかし、教会や教会付属の幼稚園で司祭や信者が自らサンタクロースに扮するのは、どうなんだろう?
私自身は、前回の記事にあったような神父様の方がずっと好ましいと思う。
何故なら、信仰から「hope」が生まれるのは当然だけれど、そうあらねばならないけれど、しかし「fantasy」や「illusion」が生まれる必要は少しも無いからだ。
メモ: 上の記事の筆者は次のように言ったのである。
頭の回る或る人達が、18世紀に、この代用品を発明した。
Some clever mind invented this substitution in the eighteenth century.
次へ
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ