2011.12.31

「自由・平等・友愛」 に対して明白に好意的であったヨハネ・パウロ2世教皇様 10

前教皇様のことを「責める」ためではなく、あくまで天主様の御心を訪ねるために最近の一人の(しかし傾向が顕著な)教皇様の御事を検討させて頂きます。
優先順
最も重要なのは、シャイアー神父についての記事の中にもあったけれども、物事の優先順(priorities)である。
聖ピオ十世会の司祭の言葉
教会は、かつては自分の持っていた超自然の目的を追求し、その副産物としてこの地上の福祉に役立つことも為されていました。天主の十戒を守るように働きかけたが故に、人々が尊重されました。しかし第2バチカン公会議の観点は、全く違います。教会は人間をいっそう人間らしいものにするために、人類家族をもっと人間らしいものにするために、歴史をもっと人間らしいするもととするために貢献することをその使命とするのです。
その通りである。
そして、ヨハネ・パウロ2世教皇様は第二バチカン公会議であった。彼は──これは必ずしも「悪口」ではないつもりだが──信仰とういものがまるで第一に「人間のため」であるかのように、あるいは「そこには第一も第二も無い」かのように、お話しになった。
感覚的に表示すれば、両者はあたかも……
Vatican II 以前
「天主のため」
「人間のため」
一つの「上下関係」の如し。
ここには「優先順」が存在する。
Vatican II 以降
「人間のため」→「天主のため」
良くしても「並列的」である如し。「人間のためを一生懸命考えれば、それはすなわち天主のためになる」と言うが如し。参考
聖ピオ十世会の司祭は「あたかも」「如し」といった言い方はしない。「全く違います」といったハッキリしたものの言い方をする。私も、本当は、そのような言い方に同意する。
しかし、カトリックはかなり言語的な宗教なので、多くの信者がある意味「知的」である。つまり「言葉」と付き合う度合が強い。だから、そのような人はヨハネ・パウロ2世教皇様の言葉を逐一読んで、「必ずしもそうではない。彼も必ずしも『天主のため』と『人間のため』を並列的に置いているわけではない」とか言いそうである。だから、私は敢えて「あたかも」「如し」と書いたのである。(そう書くことで、却って感覚の重要さに気づいてもらう為に。)
つまり、ここには信仰以前の問題がある。人間と言語の関係の問題である。言葉の受け取り方の問題である。これが非常に大きい。悲しいくらいに大きい。
ある意味、言語が人間の霊的な知を邪魔しているのである。そういう側面が大きい。
「字面」を読めば、確かにヨハネ・パウロ2世教皇様も、「基礎にイエズスを置かなければなりません」と、どこかで言っているであろう。
何と言おう。「言葉も大事だが、感覚も大事なのです」と言うに留めよう。
Universal Salvation
一説では、ヨハネ・パウロ2世教皇様は Universal Salvation の人である。
聖ピオ十世会の司祭の言葉
ヨハネ・パウロ二世にとって、贖罪とは別の事を意味します。天主なるイエズスは、御告げの日に童貞聖マリアの御胎内で人性を摂取して人となられましたが(御託身)、ヨハネ・パウロ二世は第二バチカン公会議を引用して、「天主は、ある方法によって、全人類と結合された。」と仰っておられます。これはスイスのイエズス会士、カール・ラーナー(Karl Rahner)神父の唱えた説です。先程お話しした本会出版の本の中には397の引用がありまして、その中の大部分はヨハネ・パウロ二世のものです。ですから私が今お伝えしているものの大部分はこの本から引用しました。その中で、彼は言っています:「キリストはその御託身により、御懐胎(受胎)のまさにその瞬間から全ての人と結合した。御懐胎の瞬間から、彼は地上に存在する40億の人間と結合したのである」と。敢えて彼は40億という数字を使っています。要するに彼はつまり万人救済(Universal salvation)について言及しました。何回にも亘って、色んな言い回しで、全ての人間は聖成の恩寵(Sanctifying grace)を持っていて、全ての人間は贖われており、全ての人間は既に救われていると彼は主張して来たのです。お分かりでしょうか、これはカトリックの教義ではありません。全ての人が救われるのではないのです。
その上彼は「匿名キリスト教(the anonymous Christianity)」についても言及しています。(…)
現代世界憲章 22
By His incarnation the Son of God has united Himself in some fashion with every man.(神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた)
しかし、聖ピオ十世会、できれば、上の赤下線を引いた部分について典拠を示して欲しかった。私でさえ(?)にわかには信じ難い。もう少しニュアンスのある言い方ではなかったのか。
しかし、とにかく、ヨハネ・パウロ2世教皇様が提示し展開した世界観(私は「信仰観」という言葉を使うことさえ躊躇われる。彼の言葉はそれほど「人間の世界」に過剰にアクセスしていた)がこのような(↓)雰囲気のものであったことは明白である。(感覚的なものに明白さなど無いと思っている人は禍いだ)
人間をいっそう人間らしいものにするために、人類家族をもっと人間らしいものにするために..
これはフリーメイソンの「自由・平等・友愛」のように人々には分かり易い。We Are The World♪ のように分かり易い。だから人気がある。それ故、ヨハネ・パウロ2世教皇様も、そしてキアラ・ルービックも、人気がある。
ヨハネ・パウロ2世教皇様は、あたかも Universal Salvation を説く人の如し。
(「そうではない」と言う人がいるならば、前回の「信者への影響」をもう一度見て頂きたい。それは小さなシグナルだが、明確なシグナルである。)
つまり、あたかも「Many」よりも「All」を説く人である如し。
MANY  VS.  ALL
これはヨハネ・パウロ2世教皇様が教皇になる以前から始まっていたことだが……多くの人が既に知っているように、世界の多くの言語において(幸い日本語は例外だった)、ひと頃まで、ミサ典礼文の中、次のような誤訳が為されていた。御血の奉献の箇所。
これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。
これはわたしの血の杯、あなたがたと全ての人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。
これについての解説を三つ転載する。
翻訳の問題
聖変化の言葉が各国語に訳されるときの誤りの問題が1967年から生じていた。典礼英語国際委員会 International Commission on English in the Liturgy(ICEL)による英語訳に始まって、ほぼ世界中で同じ誤りが犯されてきていた。
誤った翻訳とは、御血の聖変化の言葉の部分の翻訳である。ラテン語では、pro multis(多くの人々のために)となっているところを、「全ての人々のために」とほぼ全世界で訳されてきた。(例外はポルトガル語、ポーランド語、日本語訳のみ)
2006年11月、アリンゼ枢機卿はこれを訂正することを求めた。
4 御血の聖変化の言葉の訳についてここに指摘しておきたいことがあります。それは、私の知る限りにおいてイタリア語、フランス語、英語などの諸国語では御血の聖変化の言葉がラテン語の通り訳されておらず “qui pro vobis et pro multis effundetur in remissionem peccatorum”「罪の赦しのためにあなた方と多くの人のために流される」の部分が、「罪の赦しのためにあなた方と全ての人のために流される」となってしまっています。「多くの人のため」と「全ての人のため」とは、全く別の言葉です。確かに、私たちの主は「全ての人々の」贖いのために十字架のいけにえを捧げられました。そこで私たちの主を真の天主として受け入れ、主の流された御血を自分の為として受け入れるなら、能力的・可能性的には、全ての人の救いのために充分なのです。しかし実際は私たちの主を真の天主として受け入れることを拒み、主の流された御血を自分の為として受け入れず、主の贖いを自分に適応させない人々、従って救われない人々が存在しています。実効上の意味・結果的・実現的には、トリエント公会議の公教要理が正確に述べているように、「多くの人のために」流されているのです。ですから、この誤訳は単なる明らかな訳の誤りのみならず、「全ての人々は既に救われている」という異端説へと導くものである危険があります。
四十年近くもの間教会はパウロ六世のミサのラテン語テキストの翻訳の侮辱を堪え忍んできた。その翻訳は、われらの主の御血のカリスの上[で述べられる]言葉 pro vobis et pro multis(「あなたたちのためまた多くの人々のため」)を pro vobis et pro omnibus(「あなたたちのためまたすべての人のため」)に変えていたのであった。新しいミサに対する痛烈な批判を提供しているその有名な著作「ローマ典礼の改革」The Reform of the Roman Liturgy において、モンシニョール・クラウス・ガンバーはこの翻訳についてこう言われた:「現代の神学的思考によって鼓舞されているがどの歴史的な典礼のテキストにおいても見出されない翻訳である pro multis という文言の『すべてのひとのため』という翻訳は実際真にけしからぬものであり、まったく疑問の余地のあるものである。」(pp.55-56)。
注)みこころネットさんのページが文字化けする時にはブラウザのテキストエンコーディングで Shift JIS を選択してください。
私は一切の躊躇なく断定する──これは敵の手による「意図的な誤訳」である。
「翻訳」は彼らの狙い目である。彼らは聖書も典礼文もいじる
AA1025 に見るように。)
「問題が1967年から生じていた」
2006年11月、アリンゼ枢機卿はこれを訂正することを求めた」
四十年近くもの間教会は(…)侮辱を堪え忍んできた」
ベイサイドの聖母
さて、そして、ベイサイドの聖母も早くからこのような風潮について警告しておられたのである。以下は、TLDM が、このテーマに関するベイサイドのメッセージを集めたものである。
#187 – MANY  VS.  ALL
「多くの」が常により適切
「私の子供たち。あなた方の宗教の教義が、あなた方の宗教のドグマが、あなた方に与えられてきました。そしてあなた方は、あなた方自身と私の御子の教会を破壊することなしには、それを変えることはできません。
「私の御子は人類のために十字架上で死にました──彼は全ての人のために死にました。しかし、罪から回心しない限り、全ての人が〔天国に〕入るというわけにはいきません。私の子供たち。『多くの』という言葉の方が常により適切です。永遠の生命の王国に、〔今までも〕全ての人が入ったわけではありませんし、〔これからも〕全ての人が入るわけではありません。〔既に〕多くの人が地獄に落ち、永遠に滅ぼされています。」
- 1978年5月27日、聖母
全ての者が入るわけではない
「わが子らよ。天国は全ての人々のために創られた、しかし全ての人々が入るわけではない。信仰(Faith)は受け入れられなければならない。多くの人々が入るだろう、しかし、現在の試練、そして間もなくあなた方に振りかかることになる試練や懲罰の中で、ただ僅かの人々だけが救われるだろう。」
- 1975年12月6日、イエズス
騙されてはならない
「私の子供たち。偽教師たちの教えに騙されてはなりません。彼らは『全ての人が王国に入る、何故なら、イエズスはあなた方のために自らを生贄としたのだから』と言います。あなた方の神の王国は全ての人々のために創られました。しかし、全ての人が入るわけではありません。天国はあります。煉獄もあります。そして、悲しいことに、地獄もあります。永遠の滅びの場所です。羊は山羊から離されます。小麦はもみ殻から離されます。」
- 1976年6月5日、聖母
私の死
「あなた方は、私を自分の主として受け入れない限り、暗闇に落ちることを免れない。私は光を運び、あなた方の神として、その光をあなた方の上に投げかける。誰も、自らの内なる合意と意志なしには、深き淵に陥らない。しかし、わが子らよ、私はまことにあなた方に言う、あなた方の世界での私の苦しみと死は、天国の門を開いた。しかし、全ての者が入るわけではない。信じ且つ掟を受け入れない限りは、全ての者が入るというわけにはいかない。」
- 1976年8月21日、イエズス
ただ「多くの」人だけが用意ができている
「私の子供たち。聖三位における聖父は、私が神と人間との間の仲介者(Mediatrix)としてあなた方のところに来ることを、深く御思慮なさいました。私もまた、人間の自然本性を持った一人の母親として地上に生きたので、あなた方の弱点のことがよく分かります、あなた方の苦境のことがよく分かるのです。しかし、あなた方は祈りと犠牲をもってすれば、それらを乗り越えられます。あなた方もまた、救われることを試み、また求めるなら、回復されることができるのです。永遠の聖父は、地上の全ての生き物をお創りになりました。そして、善き父として、愛する父として、彼は全てのものが救われることを望んでおられます。しかし、私の子、そして子どもたち、それは悲しい真実です。彼は全てのものが救われることをお望みですが、ただ僅かのものしか救われないでしょう。
「彼は死にました。私の御子。彼は心と体における拷問のような死を死にました──全ての人のためにです。しかし、ただ『多くの』人だけが用意ができています。そして、ただ『多くの』人だけが呼ばれるでしょう。」
- 1978年5月30日、聖母
ただ「多くの」者だけがそれを選んできた
「わが子よ。王国に居る者たちの心の内なる〔嘆きの〕苦悶は、決して言葉で表わすことができない。
「あなた方の世界は、心の深い暗闇の中に落ち込んでしまっている。深き淵が広く開き、そして多くの霊魂が永遠の滅びの中に落ち続けている。あなた方は自由意志を持ったものとして生まれ、自分自身の選択を行なうだろう。天国の王国は全ての人々のために創られた。しかし、ただ『多くの者たち』だけが、それを選んできた。天国の王国は、功しと恵みを通して得られねばならない。あなた方は既にその方法を与えられている。わが御母は、あなた方の間に仲介者(Mediatrix)として送られた。彼女の言葉を軽んじてはならない。」
- 1974年12月28日、イエズス
誤り
「あなた方はヒューマニズムとモダニズムの基準を持ち込むことによって私の御子の教会を危うくしてはなりません。あなた方はサタンにドアを開いてきたのです。
全ての人が天国の王国に入るという誤った考えによって動かされてはなりません。私の子供たち。ただ『多くの』人達だけが天国の王国に入るのです──掟に従うならば。」
- 1975年9月13日、聖母
不満な者が変化を求める
「全ての人が聖父の被造物であり(is)、また聖父の被造物であった(was)のです。しかし、全ての人が、あるいは全ての人々が、聖父の王国に入るわけではありません! ただ僅かの者だけが、最終的な数の中に数えられます。あなた方は全員、チャンスを与えられます。そして、あなた方はそれを拒絶することもできるし、聖父と共に生きる永遠の生命をあなた方に勝ち取らせるためにあなた方に与えられる恵みと道を受け入れこともできます──あるいは、深い淵での永遠の滅びを!
「あなた方は、私の御子の敵たちと交わることによって私の御子の家を、教会を破壊してはなりません! あなた方は基準を引き下げることによっては敵を回心させることはできないでしょう。あなた方の模範が確固とした信頼の源でなければなりません。
「変化! 基礎が時の試練に耐えて来ているというのに、変化にどんな必要性がありますか?(What need is change when the foundation has stood through the test of time?)変化を求めているのは、不満を抱えた、強欲な、貪欲な人間です。彼は人間を神のところに連れて行くために変えるのですか? いいえ! 彼は人間を神から奪うために、そしてそれをルシファーに与えるために変えるのです!
サタンはそこに居たのです、その大きな公会議の場に聞き耳を立てながら居たのです。彼はあらゆる動きを待っていました、そして自分のエージェントたちをあなた方の間に置いたのです! あなた方の道を認め、再建しなさい。あなた方は欺かれて来たのです。あなた方は間違った道の上に居ます。いますぐ引き返しなさい、そうしなければ、あなた方は自己破壊の種を蒔くことになるでしょう!
「あなた方の聖父の御手があなた方の上に振り下ろされる前に、あなた方はどれだけ多くの警告を受けることでしょう? 日付に関しては、私は全人類に与えることはしません──ごく僅かの者を除いては。望みさえすれば惜しみなく与えられる恵みを受け入れる全ての人は、不意に捕えられることはないでしょう。そのような人は自分を準備するでしょう。地上の全ての人類が、自分の死に備えなければなりません。」
- 1974年8月14日、聖母
天国は全ての者のために創られた、しかし...
「天国の王国は全ての者のために創られた、しかし、自分の盲目性を脱いで悔い改めない限り、全ての者がそこに入るというわけにはいかない。多くの者は与えられた恵みを放り投げてしまっている。彼らは最終的な落下について盲目である。彼らは自分たちの生命はエンドレスだと信じるように誤導されてきた。あなた方は髪の毛一本一本に至るまで数えられている。あなた方の人生は一瞬一瞬に至るまで量られている。」
- 1971年9月14日、イエズス
(以下、省略)
本来非常に優秀な人である筈のヨハネ・パウロ2世教皇様が、何故フリーメイソンの旗である「自由・平等・友愛」にあれほど好意的であったのか。
私は、その原因の一つは確かに霊的次元にあると思う。
教皇に敵があるならば、そして敵の中にオカルティストが居るならば、教皇は必ずその陣営から霊的な攻撃を受けるだろう。(はっきり言えば、黒魔術等によってである。)
それは理屈の世界ではない。
防衛が十分でなければ、教皇様はその心に、つまりはその識別力に、影響を受けてしまわれるだろう。
実際、そういうことが起こったのだろうと思う。
これでこのシリーズを終る。
JPII教皇様の御霊魂に幸いのあらんことを。
補足
「ベイサイドとリトル・ペブルは同じだ(つながっている)」と考えているような人は、まだ居るだろうか。
ヴェロニカ・ルーケンとリトル・ペブルは別である
WILLIAM KAMM AND BAYSIDE
この記事に見るように、リトル・ペブルは最初から「色情霊」(カトリック的な用語ではないが)にやられているような奴、いや、人だったのだ。だから、彼の日本の弟子たちのその後の有り様、あの性的に醜悪な有り様は、かなりの程度「必然的」なものだったと言えるだろう。(彼自身の裁判も決して「濡れ衣」ではないだろう。)
再び言えば、悪魔は本物の御出現の横に「似非」を置いたのである。しかし、皆、「似非」を見て言った──同じだ」。「だって、両方とも手による拝領に頑強に反対しているから」。その程度の判断だった。しかし、真実のところは、そのような人達は、本物を潰そうとする悪魔の作戦にまんまと引っかかった、ということである。
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