2011.12.10

煉獄博物館

ローマに「煉獄博物館」というものがある。
確かに、これを前教皇様との関連というだけで取り上げるなら「過剰」というものだろう。
しかし、私は常日頃、「とにかく人はもう少し『リアリティ』というものを知った方がいい」と思っているので、取り上げることにする。
原罪のリアリティ陰謀のリアリティ、そして今回の「煉獄のリアリティ」というわけである。
カトリックは西洋で発達し、それ故「知的」で、言語的な宗教である。しかし、どんなものにも良い面と悪い面はある。
私は、言語は「物」のようなものだと思ったりする。それを固めれば固めるほど、物事は一見「確かさ」を増すように見える。──しかし、それは本当か。
人間は根本に「感覚」がなければどうにもならない、と思う。
たとえば、「聖」が何かを感覚で掴んでいなければ、「聖」についての言語世界を構築しようとすることに何の意味があるのか。
(これはカトリック外の人に言うのだが……あらゆる立派な「論理」で成り立っているかのように見えるテツガクも、その “根” の部分をシビアに観察すれば、何のことはない、結局全てがその人の人間としての「感覚」の上に建てられているのである。最初の数ページから既にしてそうである。立派な伽藍を建てるにはそれなりの研鑽や能力が必要だから、それは認めても良いとしても、しかし結局「それはそれ」である。我々は知的な遊びや美学的な遊びを楽しんでいる暇はない。人は、もし本当に「真理」に関心があるなら、この事をよく考えなければならない。)
「リアリティ」は感覚で掴むしかない。
ファチマの聖母も三人の牧童に恐ろしい地獄の有様(リアリティ)をお見せになった。それは子供たちに見せたというより、子供たちの叫び声と証言によって全人類に「地獄のリアリティ」を感じさせたかったということだろう。
そして、話は少し変わるが、そうしたからといって聖母は「悪趣味」ではない。
私は、何でもそうだと思う。
大抵の人が見るのを嫌がるようなものを見せたからといって、それだけでは「悪趣味」とは言えないし、また見る方も、見て咄嗟に受ける「印象」だけで全てを判断するなら、間違っていると思う。
咄嗟に起こる「好悪」「快不快」だけでモノを見るのは。
「感覚」の重要さを言ったばかりだが、しかし要するに、一口で「感覚」と言ってもいろいろあると思うのである。
のちほど、或る修道士が煉獄博物館を紹介した文章を訳してみる。
その中心部は、彼が書写した博物館に備え付けのパンフレットである。
画像は、彼自身何枚か添付しているが、管理人が新規に挿入する。多くの人の目には気味悪く映るものが多いだろうが、そのパンフレットが説明している全ての物の画像を示す。
しかし結局のところ、最も最終的には、私はこの博物館に関するこれら全てを、あくまで「参考」であると言いたいと思う。
つまり私も、その博物館の展示物全てが本当に天主様の御手の内なるものか、つまり本当に「天主様のお許しを得た上で地上の人間にアクセスして来た煉獄の霊魂たち」の事例であるのか、「保証」できない。
たとえば、「煉獄の霊魂による刻印」とされる代表的なものがこれらであるが...
しかし私は、「こんな事は悪霊だってやれるのではないか」と思ったりもする。
というのは、かつて聖ジェンマ・ガルガーニが司祭に命ぜられて自叙伝を書いていた時、危うくそれを悪霊によって燃やされそうになったという事例があるからである。(下の写真)
 
(画像はリンクされている)
しかしそれでも、「似ているからといって同じとは限らない」というのも真であろう。地獄の有様(外部的)と煉獄の有様はどこか似ているかも知れない。しかし似ているからといって同じではない。ちょうどそれと同じように。
もう少し前置きをする必要を感じるが、それは中に挟むことにして、さっそく始めることとする。修道士さんの文章である。
ローマの煉獄博物館: 11月の巡礼
2008年11月15日
Brother André Marie
祈祷書に押された指の焦げ跡。木のテーブルに押されたはっきりとした焦げた手形。シャツの袖、ナイトキャップ、エプロンなどの上の同様の跡。これらの珍しい物がローマの煉獄博物館にあります。
それは「煉獄の小さな博物館(Piccolo Museo Del Purgatorio, Wiki-it)」として知られ、その展示はプラティ地区の The Parish of the Sacred Heart〔Chiesa del Sacro Cuore del Suffragio, Wiki-it〕の祭器室の隣りの小さな部屋の中の大きなガラスケースによってされています。この教区教会はルンゴテヴェレ・プラティ通りに、つまりテヴェレ川に並行して走る通り(ルンゴテヴェレ通り)のプラティ側に在ります。サンタンジェロ城から上流に向かって歩いて直ぐのところです。
煉獄博物館ばかりでなくその教会自体も注目に値します。他の多くのローマの教会ほど壮大ではありませんが、しかしユニークにもゴシック様式です。ローマにはそれほど多くのゴシック様式の教会があるわけではありません。バロック、ええ。ロマネスク、ええ。しかしゴシックはそう多くありません。たぶんそれは「ネオ・ゴシック」と呼ばれるものです。この教会は19世紀後半から建てられたので。
Web上にあるロイター通信のものとされる記事によれば、
この博物館は、およそ100年前のフランス人司祭、ヴィクトール・ジュエー(Victor Jouet)の頭脳の所産である。彼は、ベルギー、ドイツ、イタリアを回りながら、テヴェレ河岸に立つ彼のゴシック様式の教会に展示するための遺物を蒐集した。
ジュエーは1912年、彼の宝物に囲まれながら、その博物館の唯一の部屋で死んだ。しかし、そのコレクションの方は、1990年代後期に博物館を閉じるか否かについての議論があったが、今も生き続けている。
下は、博物館に備えられている簡単なパンフレットの両面を書き写したものです。それには著作権表示がないので、利用は自由と理解しました。ぎこちない英語をいくらか修正しました。巡礼者を助けるための音声ガイドについての部分は省略しました。私が撮った写真の中から比較的良好なものを数枚挿入しました。部屋の照明はあまり良くなく、しかも全ての遺物はガラスの向こう側にあるので、良好な写真を撮ることは簡単ではありませんでした。特に、私のようなアマチュアにとっては。
「1990年代後期に博物館を閉じるか否かについての議論があった」
──どのような「議論」だったのだろう。
ある記事にはこうある。
何年か前、煉獄博物館は閉鎖の危機に瀕した。それが間違った種類の顧客を引きつけているようだったからである。訪問客の大部分は敬虔なクリスチャンなどではまったくなく、超常現象や超自然現象に関心のある人達だったり、更には悪魔そのものに関心のある人達だったりさえするということが判明した。参照
また、Weekly World News という名の酷く俗悪な雑誌が1994年8月に伝えているところによると、当時この博物館の館長を務めていたらしい Ismaro Benidicti という名の司祭は次のように言ったそうである。
この博物館に在る物は疑いなく(undoubtedly)邪悪な力によるものです。(…)教会はそれらを悪魔の存在の具体的な証拠として受け入れて来ました。私達はそれらについて宣伝もしなければ語りもしません。しかし、「悪魔はどのような能力を持っているか」を示すために、私達はそれらを保存しているのです。参照
しかし、これはあくまでこの神父様の個人的見解であろう。なぜなら、下にこれから見るように、少なくとも現在におけるこの博物館の備え付けのパンフレットは、それらは悪魔・悪霊の所産であるとは言っておらず、あくまで煉獄の霊魂たちからのサインだと言っているからである。
(そしてまた、冒頭の写真を見て欲しい。その右側に見えるのは、おそらく聖ドミニコとシエナの聖カタリナにロザリオを与える聖母子を描いた絵である。下には煉獄の霊魂たちの姿もあるであろう。この博物館がこれらの遺留品を煉獄の霊魂たちからのサインだと信じている証拠である。)
そして事は現在に限らない。上のその俗悪雑誌の記事自体も、その博物館はその設立当初、時の教皇様によって「祝福された」と書いているのである。別の二、三の記事も、ジュエー神父は同じ教皇様から「許可(permission)を得た」と書いている。参照  参照
その教皇様とは聖ピオ十世教皇様である。私には、教皇様が上の神父様と同じ意味合いで──つまりそれらの物品を「悪魔・悪霊の仕業」であり、その存在を証明するものとして──その博物館を “祝福” し “許可” なさったとは到底思えない。悪魔の存在を証明する物が有意義だとしても、しかしまったく「悪魔の作品」であるものを、それを集めた博物館を、教皇様が “祝福” し “許可” なさることは、まずまったくもって「あり得ない」話である。
だから、上の神父様の「undoubtedly」は「独断」であろう。
(精神がいい加減な人間の一つの特徴は、本来断定し切れるものではないものを断定することである。)。
以下に紹介するような「おどろおどろしい」世界を見ると直ぐに「オカルト」と思う人も多いだろうが、この教会がれっきとした「カトリック教会」であることも忘れないで頂きたい。
私達は、ある意味、好むと好まざるとに拘らず、「世界」に住んでいるのである。
「世界」とは?
普段は目に見えないだけで実は「全てが有る」世界である。
以下がパンフレット。画像はクリックすると拡大表示される。
プラティのサクロ・クオレ教会
(ローマ、ルンゴテヴェレ・プラティ 12)
煉獄の小さな博物館
最も重要な遺物に関する説明
1
 
1900年より以前に現在の教会と修道院の間に在った礼拝堂のロザリオの聖母の祭壇の写真複写。
1897年11月15日に起こったボヤの後、祭壇の側面にこのようなイメージが残った。
補足: 二つの別記事から引用する。
ある日、後から増築された礼拝堂の一つが火事になった。ヴィクトール・ジュエー神父は火事が治まって直ぐにその礼拝堂に戻ったが、その時、黒く煤けた残骸の一部に取り乱した人の顔のような奇妙なイメージがあることに気づいた。参照
煙は、祭壇の一つの面に苦しむ人の奇妙な顔のイメージを残した。それは博物館にある写真の中に今でも見ることができる。フランス人司祭ヴィクトール・ジュエー神父はその不穏なイメージを煉獄の霊魂からのサインと看做した。それからのち彼はこの主題の研究に己れを捧げ、この奇妙な博物館の誕生の元となった具体的な証拠物を求めてイタリアとヨーロッパの至る所を旅した。参照
あなたは画像を拡大して見ただろうか? 確かに、正直言ってあまり気持ちのいいものではない。しかし、たまにはいつもとは違った捉え方をしてみて欲しい。すなわち……もしこれが本当に煉獄の苦しむ霊魂の必死のサインだったなら、「オバケ扱い」するのは可哀想ではありませんか?
以下、国名が明記されていないのはイタリアのものである。
翻訳の完全さは保証できない。〔 〕は管理人の挿入。
2
 
リミニ県ポッジョ・ベルニ〔Wiki-ja〕の聖アンドレ教会の Maria Zaganti 所有の祈祷書の上の三本の指の跡。
その教会の司祭の姉妹である Palmira Rastelli(1870年12月28日帰天)が、1871年3月5日に残したもの。
Palmira Rastelli はこのようにして、彼女の友人〔Zaganti〕を通して、彼女の兄弟である神父に、何度かミサを立ててくれるようにと願った。
3
 
1875年、フランスはマンシュ県デューシーにおける、Luisa Le Sénèchal(Chanvrières 出身、1873年5月7日帰天)の、夫 Luigi Le Sénèchal への出現。
彼女は彼に、彼女のために祈ること、及び、彼のナイトキャップの上の五本の指の跡を印として残すことを頼んだ。
この出現を認証した記録によると、このナイトキャップの上の焦げ跡は、彼女が幾度かミサを立ててくれるように望んでいることを示す具体的な証拠として、彼が彼らの娘に示すことができるように、彼女によって残されたとのことである。
〔写真を見てもよく分からない〕
4
 
1696年10月13日土曜日、ドイツはヴェストファリア州ヴァーレンドルフの近く、ヴィーネンベルクのベネディクト女子修道女会において、その平修女 Sister M. Herendorps のエプロンの上に、1637年のペストで死亡した同会の教育修女 Sr. Mary Care Schoelers が押したとされる焦げ跡。(写真複写。実物はヴィーネンベルクに保管されている。)
〔見えにくいかも知れないが〕裾にも同修女の手形が二つある。
5
1789年6月21日の夜、ベルギーの Wodecq において、Leleux 夫人が彼女の息子の前に現われた際、息子のシャツの袖に残した印。
息子の証言によれば、彼は11夜連続して彼を恐れのため病気のようにさせたノイズを聞き、その終りの1789年6月21日に、死んだ母親の出現を受けた。彼女は彼に彼の義務を思い出させながら、あるいは彼の父親が彼に残した遺言に従ってミサを依頼することを思い出させながら、彼の生活態度を咎め、行ないを改めるようにと、また教会のために働くようにと懇願した。それから彼女は手を息子のシャツの袖の上に置き、その上に非常にはっきりとした印を残した。息子ジョセフ ・ルルーは改心し、平信徒のための信心会を設立した。彼は1825年4月19日に聖者の香りと共に死んだ。
6
信心深い “聖ルイジ・ゴンザガのシスター・マリア” が1894年6月の5日から6日にかけての夜に “聖心のシスター・マルガレッテ” に現われた時につけた指の跡。
バスティア(ペルージャ)の「幼子イエズスの聖クララ会」の年代記によれば、シスター・マリアは生前、結核、高熱 、咳、喘息に苦しみ、落胆のあまり、そのような苦しみをこれ以上耐えなくていいように死ぬことを切に願った。しかし彼女は非常に熱心な霊魂だったので、自身を天主の御旨に委ねた。数日後、1894年6月5日の朝に、彼女は聖なる死を遂げた。その夜、彼女は貧しきクララ会修道女の装いでおぼろに現われた。シスター・マルガレッテにはそれが彼女だとは分からなかった。シスター・マルガレッテが驚いたのは、その死んだ修道女が、自分は天主の御旨の受け入れにおいて忍耐が欠けていたため、それを償うため煉獄に居ると語ったことであった。死んだ修道女は祈ることを頼み、自分が来たことの証拠として枕の上に人差し指を置き、再び来ることを約束した。そして実際、彼女は6月の20日と25日に、天国に上がる前に感謝を告げるため、また会に霊的アドバイスを与えるために、同じ修道女に再び現われたのだった。
人間にとっては過酷なことだが、たとえ苦しみがどんなに酷くても、「もう嫌だ。こんなことならもう死にたい」と願うことは、天主の御目には「忍耐の不足」を意味するようだ。確かに、聖主は、あのような過酷な御受難に遭いながら──「引き受け」ながら──苦しみの杯の「最後の一滴」まで飲み干し給うた。
7
尊者マザー・イザベラ・フォルナーリ(トーディに在る聖フランシスコ修道会の聖クララ童貞修道女会の院長)の小さな木のテーブル、〔チュニックの〕裾、そしてシュミーズの上に残された印。
四つの印は、その時には既に死んでいた Panzini 神父(イタリア、マントヴァのオリヴェート修道院の僧院長)が1731年11月1日に残したもの。
最初の印〔写真上〕は、マザー・イザベラが仕事のために使っていたテーブルの上に残された左手の手形である。(それは非常に鮮明で、木に深く彫りつけられた十字架の印も伴っている。)
二番目〔写真下〕は紙の上に写った同じ左手の手形である。
三番目〔写真見つからず〕は右手のもので、修道女会院長のチュニックの裾に残されたもの。
四番目〔写真見つからず〕はシュミーズの裾に残された跡である。これはチュニックの上の跡と同じものだが、チュニックを通過してシュミーズに写ったものである。血の跡がある。
この出来事は、同修道女会院長の聴罪司祭、聖なる十字架の Isidoro Gazata 神父によって記録された。彼は彼女に、それらを彼が保管すべく、彼女のチュニックとシュミーズから印のある部分を切り取って渡すようにと命じた。
別記事によれば──あなたがこれを信じるかどうか分からないが──木のテーブルの上にマザー・イザベラの修道服が乗っていて、その上に Panzini 神父が手から光を照射して上のような跡ができたということのようである。
8
〔フランス〕
1815年、メス司教区 Ellinghen 教会の Margherite Demmerlé に、30年前の1785年に亡くなった彼女の義母が現われ、彼女所有の『キリストに倣いて』の本の上に印を残した。
義母は生前の自分の地方の伝統的なコスチュームに身を包んだ巡礼者の装いで現われた。彼女は溜め息をつきつつ、まるで何かを乞うかのように義理の娘を見ながら、納屋の階段を降りて来るのだった。
Margherite は教会の司祭のアドバイスに従い、義理の母親に話しかけ、次のような返答を得た。
「私は今から30年前に出産時に死んだあなたの義理の母です。マリエンタールの聖母の聖地に巡礼してください。そしてそこで私のために二つのミサを立ててください。
Margherite が巡礼を果たした後、義母は再び現われ、自分は煉獄から解放されたと告げた。彼女の義理の娘が教会の司祭のアドバイスに従い、彼女に何か印を残して欲しいと頼んだ時、彼女はその本の上に手を置き、そこに焦げ跡を残した。その後、彼女はもう現われなかった。
互いに国境を接している国々の歴史はややこしいものです。この話の舞台を一応「フランス」としておきましたが、何だかすっきりしません。正確に知りたい方は参照してください──メス司教区〔Wiki-en〕。
そして、マリエンタールは聖母のご出現当時(13世紀)ドイツ領だったようです。ああ、ややこしい。Notre Dame de Marienthal
9
 
〔フランス〕
1838年12月21日、ロレーヌ地方 Sarralbe において、Joseph Schitz という既に亡くなっていた男性が、その兄弟のジョルジュ所有のドイツ語の祈祷書に右手で触れた時にできた指の焦げ跡。
彼は自分の生前の信心の不足を贖うため祈って欲しいと頼んだ。
10
 
イタリアの10リラ紙幣
(写真複写)
1919年の8月18日から11月9日までの間に、モンテファルコの聖レオナルド修道院に、ミサを懇願する故人である一人の聖職者が、合計30枚ほどのメモ書きを残した。
(実物は聖レオナルド修道院に返還され、今もそこに保管されている。)
〔写真を見てもよく分からない〕
翻訳、了。
冒頭でも言ったように、今日のこの記事は、もし前教皇様との関連というだけで書かれたとすれば、「過剰」である。それはそう思う。
しかし私は、その関連のみで書いたのではないし、そしてとにかく、表面上のおどろおどろしさに拘らず、ここには見るべきものが幾つかあると信ずる。
何よりも「煉獄」は、私達の多くがやがて自ら経験することになるものである。
(私達はその「リアリティ」を十分 “予感” しているだろうか?)
私達は、うまく行って、煉獄に行く。
(もちろん、天国に直行することを求めるべきだろうが。)
リアリティ。想像力。
上の記録の中の霊魂たちは、明日の私達の姿そのものかも知れない。
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