2011.11.17

前教皇様を正しくお愛し申し上げる方法 1

ちょっとイケ好かない表題だが ↑ 、「聖ピオ十世会は前教皇様の『悪口』を言っている」としか捉えられない “聖座忠誠派” に、一つの “モノの見方” を提案するために、あえて。
あなたは物事を直視しますか?
あなたは、もしそれが事実なら、たとえ見るのが辛くても、それを見て混乱に陥りそうな不安を感じても、なお、それを直視しますか?
──そして、そこから物事の理解を得ますか?
それとも、いわゆる臭いものに蓋をしますか?
あるいは、もう少し「知的」に、合理化しますか?
──そして、それによって善良な盲目者のままでいますか?
***
「事実」を「事実」として
今回のこの記事は、一昨年の記事「事実」のいわば続編ということになるかも知れない。その時言ったのと同様の前置きをしておきたい。
私達に必要なのは、まず「事実」を「事実」として見、知り、受け止めるということである。いわゆる「直視」することである。これが極めて大事である。
そうした上でないと、いくら「私は教皇様を愛します」と言ったって、その私達のいわゆる「愛」は、知性を欠いたものになるだろう。「親の欲目」や「ファン心理」と似て、盲目性を含んだものになるだろう。
教皇様を感情的に愛しているカトリック信者の中に、時々そのような心の状態が見られる。
そのような人は、誰かが教皇様にとって少しでも不利となりそうな事柄を掲げるのを見ると、過敏に反応する。そして、それを掲げた者が教皇様を「感情的に非難」しているかのように錯覚するのである。おそらく、心の中に発生した軽い恐慌が、その人をそのように「早合点」させるのだろう。(もっとも、或る会の若者たちの過去の言動にも、問題の質をそのように誤解させるものがあったのだろうが。)
しかし、人には教皇様を「感情的に愛する」か「感情的に憎む」かのどちらかしかないわけではない。たとえ教皇様に関してであれ、善いものを「善い」と、悪いものを「悪い」と、白いものを「白い」と、黒いものを「黒い」と見る、単純な、かつ理性的な姿勢というものもあるのである。
「教皇様を愛する」は結構。しかし、そのような理性的な姿勢が可能であることを検討もせずに、教皇様に不利になりかねない、しかし確かに「事実」であるところのものを、自分自身の目からさえ半ば隠すかのようにしつつ「教皇様を愛する」のであれば、それはどこかしら偏っている。物事に対して素直でない、真っ直ぐでない。(もう一度言うが──「親の欲目」や「ファン心理」と似て。)
そのような人は「教皇様」を愛しつつ、しかし「真理」からは離れるだろう。
「私達の教会に何が起こっているか」についての真の理解から離れるだろう。
目を塞げば理解の伸張をも自ら塞ぐことになるからである。
当然、それは天主様の真にお気に入られることではないだろう。天主様は、もしご自分の教会の中に何らかの「善くないもの」が発生すれば、信者たちがそれに気づき、それが何なのかを混乱せずに理解し、それを取り除く方向に動くことをお望みだからである。(それが「教皇」から発生したのだとしても。)
とにかく、まずは「正直な目」を持つことが大事である。
警告 以下に掲げる写真はカトリックの男性にとっては目の毒であるかも知れない。しかし、あなたがカトリックであれば、「こんなものを見せやがって。掲げやがって」と不満を鳴らして済ますわけにはいかない。
何故なら、これらの写真に映っているものは、
残酷な言い方を許してもらいたいが、
全て、いわば教皇公認のものだからである。
それは一つの「事実」である。
あなたはいささかも逃げるな
(しょうもない注を付ければ、私からではなく物事から、である)
それが、“理解” の、始まりだから。
一昨年の「事実」に対し、「物事を写真で評価するようなことは適当ではなく、それはどういう動機からのものなのかを考えることが必要と思います」と可愛らしく応えたカトリック信者がいたが、まあ、それはそれとしていいが、しかし、では、以下のようなものについても同様に言えるものであるかどうかを考えてもらいたい。
また、「知的」な人も、以下に掲げるようなことの「容認」は(教皇様方は確かにそれらを容認したわけだが)果してカトリックの「信仰と道徳」に反したものでないかどうかを、考えて欲しい。書物から目を上げて、生きた現実を前に。
これらの諸事実は私にとって目新しいものではないが、真面目ではあっても不完全な私達が物事をはっきりと知るために、見るために、日本語環境の中にも一度きっちりと表示しておく必要があると思った次第である。
枠内の文章は Tradition in Action のテキストを簡略に訳したもの。画像にはリンクが貼ってある。
1980年
ブラジルでの聖体大会における教皇のためのダンス
1980年のフォルタレザ(ブラジル)の聖体大会の開幕において、ヨハネ・パウロ2世は、スタジアムの祭壇の前における大衆的なダンスのパフォーマンスを承認した。
聖体を象徴した麦の穂を持ち、教皇のために演技することを待っている。“教皇のためのダンス” は、慎みのない服装とジェスチャーに市民権を与えるための新しい方法だった。
1984年
ローマのオリンピック・スタジアム
ローマのカトリック・ハイスクール〔複数〕はオリンピック・スタジアムに、ヨハネ・パウロ2世のためにパフォーマンスをする少女たちを1200名集めた。上の写真の左上に、赤いマントをはおったヨハネ・パウロ2世が見える。
不道徳な装いをした女性たちに対する安易さは、彼の教皇職の恒常的な特徴だった。
カトリックの世界に、なんでこんなものが必要だろうか。不道徳である前に失笑ものである。
(今言ったこれぐらいのこと、これぐらいの “言い方” は、「理性的な批判」「健全な批判精神」の範疇だと私は思う。上の Tradition in Action の言葉も。)
1985年
ブリュッセル
コーケルベルグ(ブリュッセル)大聖堂でのヨハネ・パウロ2世による野外ミサで出番を待っているレオタードを着た少女たち
「野外ミサで(at an outdoor Mass)」とは言っても、「ミサのあったその機会/その場所で」というほどの意味であって、「ミサ中に」ということではないだろう。
1985年
バチカン
バチカンにて、ぴったりとしたレオタードを着た女曲芸師が、教皇の祝福を受けた後、人々の賞讃の視線の中、歩み去る。
平気なんですか、教皇様。
さて、以下は、かの「パウロ6世ホール」でのものである。
敵はこのようなことをするために、それ(パウロ6世ホール)を作ったわけだ。
パウロ6世ホール
1980年。ローマの Youth Games に出場する運動選手たちに与えられた教皇謁見の場にて。
一人の若い女性が教皇のために曲芸を演ずる。教皇は他の聖職者たちと共にこれを鑑賞する。彼女の姿勢は明らかに猥褻である。ヨハネ・パウロ2世は、いつ、目の慎みに関する指針を彼自身に適用するのか?
1981年。ヨハネ・パウロ2世は、自らそこに臨席しながら、バチカンのパウロ6世ホールで演技する僅かにしか身に着けない若い女性のアーチストたちの不道徳を承認(容認)する。
レオタードを身に着けたティーンエイジャーが、拍手するヨハネ・パウロ2世の前で、淫らな姿勢で演技する。
まずは、私らしく少々激烈な(?)調子で始める。(あとで少し整理する。)
普通程度の想像力を持って欲しい。
教皇様は、以上のこれらを(他にもあったろうが)確かに「見た」のである。それは10分間か、20分間か、30分間かは知らないけれども、「一瞬」でなかったことは確かである。教皇様はこれらをかなり普通に「鑑賞」なさった。
そして、これらを会場にいた信者たち全てにも「見せた」のである。
──「教皇」としての指導責任、教導責任において。
驚くべきことではないか?
まさに信じがたい情景ではないか?
誇張なしに仰天ものではないか?
私は大袈裟に「騒ぎ立てて」いるのだろうか?
(注: 私はリベラル派の人達やリベラルとか以前の人達には呼びかけていない。聖座忠誠派、あるいは少なくとも保守的傾向のある人達に呼びかけている。)
そこがどのような場所であるか、そして、
そこに居る人は何を代表する人であるかを念頭に置きつつ、
もう一度見てください。確認
あなたは、shocking という言葉をここで使わなければ、どこで使うのか?
それともあなたは、これらのはっきりした情景にも拘らず、これらが教皇様に関するという理由で、「敬虔」にも自らの感受性を押し殺すのか?
あるいは、これらを自分の中で「持て余す」からといって、処理しかねるからといって、これらを指摘し、提出し、見せた私のことを憎むのか?
そうだとしたら、それは「混乱した反応の仕方」というものである。
(「少しも持て余さない」という途方もない反応よりは良いとしても。)
これらは「事実」である。
必要なら、もう一度、一番上から見てください。
あなたの「カトリック精神」に照らしつつ、再検討してください。
「取るに足りないこと」だろうか? 体よく回避できる話か?
私はあなたにヨハネ・パウロ2世教皇様のことを「憎ませたがっている」のではない。「責めさせたがっている」のではない。
そうではなく、これは私達の「信仰の真理」についての話なのだ。
整理の苦手な私だが、少しだけそれを試みよう。
まず、昨今では、聖ペテロの座、その領域で上のようなことが行なわれても、何も感じず、少しも持て余さないカトリック信者がいるような気がする。
そのような人達はこう言うかも知れない。
これらが果して “猥褻”、“淫ら” などの形容に値するかどうかは、人それぞれの受け取り方、主観によるのでは?
教皇様も、他の聖職者も、修道者も、一般信徒も、このようなものを “いやらしい目” で見ていたとは限りません。だから、これだけでは教皇様の指導性に問題があったとは言えません。
しかし、そんなことを言うなら、たとえば「服装」だが、それの無制限な自由を事実上認めたも同然である。服装の受け取り方はまったく「人それぞれ」である、或る種の服装によって “刺激” されるのはひたすら刺激された方の責任である、と言うのであるから。
しかし、そんなことでは「道徳」というものを空気のようなものにしてしまう。明日は御聖堂がミニスカートの女の子たちでいっぱいになるだろう。
原罪のリアリティが分かっていない」の最たるものである。
次に、「保守的」な人々が考えられる。しかし、私は悲観的である。
「保守的」な人々でさえ、こう言うかも知れない。
ええ、確かに、このような情景は酷いものです。慎みに反するものです。前教皇様の時代には、確かに、教会はその辺の配慮が足りなかったようです。今後はダンスでレオタードはやめましょう、アクロバットで肌の露出の多い衣装はやめてもらいましょう。それらをもっと無害なものと取り替えましょう。それでOKです。
このように言う人は、最初の部類の人達よりは余程いいが、それでも問題の性質が分かっていない。レオタードならレオタード、あのようなアクロバットならアクロバットという、“目の前の具体的な個々の物” しか目に入っていない。
真の問題、真の問いの対象は、教会において、それも聖ペテロの座の領域において、このようなことが起こるのを可能ならしめた、その背景/土台である。Tradition in Action の説明が言うように、教皇様や他の教会指導者たちにこのようなものを「容認」せしめた、彼らの「メンタリティ」である。
教皇様ご自身が、残念ながら「原罪のリアリティへの視力をなくされた」と言うほかない。
(もっとも、仮に私が教皇の位置に立たされたら、ワッと悪魔に襲われて、3秒でそれをなくすが。)
「知的」な人達は、「これは教会と世俗の交わる場所で起こった事だから、『信仰と道徳』の問題そのものとは、少なくとも『全く』は、関わらない」と言うかも知れない。
が、私は思う、それは間違いだ。上のあれらの情景は、ただただ全くカトリックの「信仰と道徳」に反している。
このような途方もないことを教会に可能にさせた、聖ペテロの座の領域に可能にさせた、教皇様に可能にさせた、その「原因」は何だろうか?
ヒューマニズム(人間中心主義)」である。
難しい話ではない。ほとんどその訳語──「人間中心」──が説明している。信仰の真理や目的を犯してまで──少なくともそれらを危険に晒してまで──人間的なものに寄り添うことである。
これも同じである。「真理より高い宗教はない」に似た、人間的、地上的、唯理的な発想だからである。……これもである。それは他宗教者に対する何らかの「配慮」だとしても「人間中心的」な配慮だからである。……これもである。)
それ故、
前教皇様を正しくお愛し申し上げる方法
もしこれらの情景がカトリックの「信仰と道徳」に反したものならば、もしこれらの情景が天主様のお気に入られぬことであるならば、そして、もしいまだに教会の中にこの種の流れ、これに似た雰囲気が続いているならば、それを取り除くことこそ、ヨハネ・パウロ2世教皇様を「よく弔う」(カトリック的な言い方ではないが)ことである。
もしこれらがカトリックの道徳、天主様の命じたもう道徳に反したものならば(そうであるに違いないが)、ヨハネ・パウロ2世教皇様は今、向こうの世界で大いに「悔んで」おられるはずであり、現在の教会にご自分の過ちを「継承して欲しくない」と思っておられるはずである。(これをあなたの心の中で確認してください。教皇様に会ってお聞きしなくても分かることである。)
そのお気持ちに応えるのが、真の「ヨハネ・パウロ2世教皇様を愛する」ということである。
彼を「福者」に上げることなどより何倍も、である。
もし私達がそれをしなければ、それに努力しなければ、彼の晩年は深い悲しみに包まれたものだったけれども、私達は今の彼の悲しみの存続にも手を貸すことになるだろう。
念を押すが、「これらの情景」とは、アクロバットやレオタードのことだけではない、広く「ヒューマニズム」である。ヒューマニズムあってこそ、そのようなものの「容認」も可能だったのだから。
これらの写真を掲げることによって、いかにもヨハネ・パウロ2世教皇様のことを「叩いて」いるように見えるかも知れないけれども、つまり「憎くて叩いて」いるように見えるかも知れないけれども、私はこのような視点から、そうしている。私達がそれらを「取り除く」ことができるためには、まず「事実」を見、次いで、その意味を理解することが必要だからだ。
「愛」にはもちろんそれに相応しい「感情」も必要だ。けれど、ヨハネ・パウロ2世教皇様の教皇職には明らかな間違いが含まれているが故に、それを「継承しない」ことこそ、天国か煉獄におられる彼を喜ばせる方法だと私は思う。
ここにおいて初めて私達は、「ヨハネ・パウロ2世教皇様を愛する」という事と「物事を真っ直ぐに見る」という事とを〈両立〉できるのだと、私は信ずる。
〈両立〉の構図はここにも描かれている。
これは十分に現実的な話だろう。
頭、及び「信仰者」のセンスをもって、熟読玩味されんことを。
おまけ
そして、たとえそのような(SSPXによる)論述がなくてさえ、また、今日ここで示した諸事例がなくてさえ、もし人が一方で「教皇は『信仰と道徳』においてさえ間違い得る(不可謬権を行使しなかった場合)」と認めながら、他方で「その『教皇の信仰と道徳における間違い』を的確に認識できる教皇以下の者が存在する可能性はまったくゼロ」であるかのように言い、「もしそんな口振りをする者がいれば『教皇よりもカトリックのつもりか』と非難され嘲笑されて当然だ」というような態度を何らの躊躇もなく取るならば、それはあまり賢明なことではない。
何故なら、もし教皇が「信仰と道徳」においてさえ間違い得るならば、天主は善であり愛であり正義であられるから、教会を救うため、有り得る教会の危機に対応するために、必ずや、教皇の間違いを正しく認識する恵みを教皇以下の信者に送る道を、御自ら拓き給い、敷き給う筈である、と推理することは、それほどおかしなことでも突飛なことでもなく、むしろかなり道理に適ったことだからである。
また、これは人間観察の話だが、以上の事を分からぬ者、否、分かろうとしない者は、「教皇よりもカトリックのつもりか」と、あたかも或る種の仕方で「謙遜」の重要性を掲げるようでありながら、「教皇以下の者たちの間に教皇の間違いを正しく認識できる者など居てはならない」かのように、あるいは「居ないことを私は知っている」というかのように、そのように〈断ずる〉に等しい主張をするのであるから、そのほとんど「過信」なることと、天主の御配慮の可能性をほとんど全面的に顧慮せぬ態度によって、却って「傲慢」である。本当は、「誰がそのような恵みを受けるか分からない」ぐらいに考えておくのが、真の「謙遜」の一条件である。
(これを読んでプライドによって引き返さないようにせよ。)
さて、本来はここで終わってもいいぐらいのものなので、ラインを引こう。
しかし、今、持病の「せっかく病」の発作が起きたので、もう少しサービスする。
次へ
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ