2011.11.17

ワールド・ユース・デイは拒絶されねばならない

WYDのことはひとりWYDのことに留まらない
三人の人を紹介する。
コルネリア・フェレイラ(Cornelia Ferreira)氏
左から、ジョン・ヴェナリ(John Vennari)氏、
一人おいて、マリアン・ホーヴァット(Marian Horvat)博士
コルネリア・フェレイラ博士については、前回の記事の中で彼女の「国連:世界平和のための誤った解決」を紹介(リンク)した。
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ジョン・ヴェナリ氏もファチマ・クルセイダーの記事にしばしば登場するお人である。お二人ともファチマ・チャレンジの話者である。
ホーヴァット博士は「シスター・ルチアは二人いたのか?」や「ダ・ヴィンチ・コード: 冒涜の仮説とデタラメな歴史」を書いた人だ。Tradition in Action 社(それは本やCDなどの販売もしている)の社長(president)であるらしい。
お三人とも、カトリックの著述家である。
とても善い、素敵な、そして真の意味で優秀な人達だと思う。
ワールド・ユース・デイについての本論(翻訳)に入る前に、寄り道する。
私はホーヴァット博士を紹介する時、彼女の次の名言を引くことをもってしたいと思う。
人々はしばしば自分の目の前にある現実さえ見たくないのである、ということは、なんと真実でしょうか。
これはある意味「シスター・ルチアは二人いたのか?」という問題よりも重要である。何故なら、それは人間の「目」に関することであるから。
ここで、そのエピソードを振り返っておこう。(「二人いたのか?」より)
写真1
写真2
博士はある時インサイド・ザ・バチカン誌の中に「若き日のシスター・ルチア」の写真(写真1)を見た。年代からすれば、この写真のシスター・ルチアは少なくとも41歳にはなっていなければならない。しかし、博士にはこの女性はそれにしては若過ぎるように見えた。博士が知っているシスター・ルチアの40代の写真は写真2のようなものだった。博士にはどうしてもこれらが同一人物のものとは思えなかった。インサイド・ザ・バチカン誌に問い合わせたが返事がない。そこで博士はこの二枚の写真をウェブ上に一つの「疑惑」として掲げた。
すると、それを見たカトリック信者たちから「あらゆる種類の異議」が寄せられた。
ある者は次のように言った。
「あなたは間違っている。その一組の写真はまったく明らかに(quite obviously)同じ人を撮ったものだ」
別の者はもっと暴力的だった。
「もしあんたの目にこの二人が別の人間に見えるんなら、きっとあんたはクスリでもやっているんだろうよ!」
しかしその後、インサイド・ザ・バチカン誌が訂正記事を発表し、真相が明らかになった。実は、写真1は別の修道女のものだった。シスター・ルチアの修道会、コインブラのカルメル女子修道女会の院長、マザー・マリア・セリーナのものだった。つまり、ミス・ラベルだったのである。
彼らの「偏見」が明らかになった。博士は「若干の可笑しさ」をこらえることができなかった。「あなたは間違っている。その二枚の写真はまったく明らかに同じ人を撮ったものだ」と断定し、息巻いて非難した人は、今、どうしているだろう? 博士は「人々はしばしば自分の目の前にある現実さえ見たくないのだ。ただ自分が見たいと思うものだけを見るのだ」ということを “再確認” した。
これは優秀な逸話である。この逸話は、誰かを馬鹿にして笑うためでなく、人間の「目」に関する学びのために、非常に重要である。しかし、ほとんどの人の目には──それこそ、その「目」には──決して「重要」と映らない。「ちょっとしたこと」にしか見えないのだ。
そしてもう一つ、人々が往々わからないのは、私達は物事を「勝者と敗者の物語」としてばかり見てはならないということだ。つまり、人間には常に「プライド」の問題がある。それは人間がモノをクリアーに見るべき時に大抵「悪さ」をする。物の見方を歪め、阻害するのだ。
プライド(劣等感もプライドだが)を脇に置くことのできない人は、始終「人」の世界ばかりに住し、「事物」の世界にシンプルに住むことを知らない。そのような人は、物事を「素直」に見れないが故に、結局、学びと気づきの機会を失う。(そんな学びも気づきも欲しくなどない、というところなのかも知れないが。)
さて、表題「ワールド・ユース・デイは拒絶されねばならない」は、きっと多くの人にとっては「極端な結論」に思えるだろうと思う。
しかし、私は、それは本当だ、それは拒絶されなければならない、と思う。
何かの本で読んだことがある。
私達が悪い職場にあたった時、選択肢は二つある。
一つは、その職場をやめること、
もう一つは、その職場を良いものに変えることだ。
私達は、この考え方をワールド・ユース・デイにも適用できるだろうか?
私は、無理だと思う。そして結局、「拒絶せよ」と言う声に同意する。
何故なら、それは初めから「悪い種」から成長したものだろうから。
上の三枚の写真は全て今年8月のマドリッドでのものである(画像はリンクされている)。まさに、Catholic Woodstocks still continue である。
次のページでも、このような写真を幾つか貼ることになる。
こんな時、ありそうなのは...
あなたはワールド・ユース・デイの悪い面ばかり挙げています。もっと良い面もあるんです。あなたは不公平です。きっと文句ばかり付けたいのでしょう。難癖つけ隊の隊長なんだわ。
...という抗議である。私はこう答える。
どんなものにも比較的良い面もあるというのは当り前です。しかし、今は特に病性の部分を扱っています。そんな時に、なぜ、いちいち良性の部分まで取り上げなければならないのですか。そして、「悪貨が良貨を駆逐する」という言葉をご存知ですか。
ワールド・ユース・デイのことはワールド・ユース・デイのことに留まらない。すべてのものが連関している。ワールド・ユース・デイのことは「今日のカトリック教会」のことであり、教皇様のことであり、そして或る程度、私達の小教区教会のことでもある。私達にとって実は “身近な” 問題なのだ。だから、もはやそれほど若くはない私達(誰?)も、一応の関心を持ってもよいと思う。
次は、フェレイラ氏とヴェナリ氏が共著したワールド・ユース・デーに関する本『ワールド・ユース・デイ - カトリシズムからカウンター・チャーチへ』にホーバット博士が付した書評である。いつものナンチャッテ訳でお届けする。
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