2008.09.03

アンネリーゼ・ミシェルのエクソシズム

(p.142 - レンツ神父とユダ)
「聖ヨゼフは?」
「ああ、彼も来ている」
「そして、守護の天使達もか?」
「その通りだ」と、それは唸り且つ叫びながら答えた。そして、古くてあまり上等とは言えないユーモアを付け加えた──「これほどの群衆はここには入り切らないってもんだ」
 レンツ神父は心から感謝した。彼はこれらに更に一対の大天使達の名を加え、その部屋にいる者皆に、天国からの代表者達が心を向けてくれたことに感謝するために、主祷文を唱えさせた。
「天にまします」に差しかかった時、悪魔はしわがれた声で聞こえよがしに当てこすった──「俺達だって代表者だ」
 自分がそれら聖なる人々によって不愉快にさせられているので、その彼らに同じ不愉快さをお返しするためだけに、悪魔はちょっとした暴露を自ら買って出た。
「人間どもに伝えるがいい」
「何をだ?」
「立って聖体拝領しろ」
「他には?」
「手で聖体を受けろ」
「他には?」
「それだけだ」
「それは誰の利益のためだ?」
 悪魔は冷笑的に吐き捨てた。
「われわれの利益のためだ!」
以下、カトリック・フォーラムから
投稿者:Mark 投稿日:2006年1月3日 8:35 AM
引用
投稿者:Alexi
アンネリーゼ・ミシェル?
そうだね。彼女の物語は、私にいわゆる『伝統的カトリシズム』というもの、全くもって実際、率直に言えば、本当のカトリック信仰、真のカトリック信仰というものを教えてくれたものだよ。
以下のエクソシズムの引用は、私が今から五年か六年前に買った本からのものだ。私はその本を、私が今いる場所、フィリピンで買った。他の場所で購入可能かどうかは分からない。
その本は:
SATAN'S ANSWERS TO THE EXORCIST
by Gaspare Bullinger
TRANSLATED BY FR. ADOLF FARONI, SDB [1]
その映画 [2] に関しては、私も見たよ。それは詳細においては悪魔の数を十二体に増やしていたりして事実と違っているけれど、しかし基本的にはこの本とも一致するものと思う。
悪魔達は今日の教会についてたくさん語っている...
彼らは次のようなことについて言っている: 手による聖体拝領。聖体拝領の際の跪き。オランダのカテキズム [3] とオランダの司教達。Barbara Weigand [4] とエウカリスティックな契約("愛の契約")。アンネリーゼの妹達(Roswitha, Gertraud)。Marienfried [5] 、サン・ダミアーノ、モンティキャリでの聖母出現。教皇。聖顔。ロザリオ。クレド。その他多数...
私はこうやって、どうにもこれら全てを挙げずにはいられないんだ。
悪魔達は、自分達はある真実について語るように聖母によって強要されている、と言った。そして、自分達は出て行きたいが、しかし『いと高き女王の命令によって』そうすることができない、とも言った。
主の御祝福のあらんことを!
アンネリーゼ・ミシェルは霊的覚え書きも書いてる...
投稿者:Marybonita 投稿日:2006年10月28日(日)6:42 pm
Anemus Athanasium xx. scl:「聖ヨハネ・ケンティ会(St. John Cantius Society)は日曜の普通のノヴス・オルド・ミサで聖体を信者達の手(the Paw)に与えているのですか? そうだとすれば、それは不名誉なことです」
ダニエル:「Amemusさん。あなたはご自分の投稿の全てにおいて、わざわざ『手(the Paw)で受ける聖体拝領』などという言い方をしています。しかし、そのような考えは古臭いものになりつつあるし、また率直に言って、そのような表現は秘蹟そのものを侮辱し、また、その方法を選択している何億ものカトリック信者達のことをも侮辱 [6] するものです。あなたは大概は言葉使いが丁寧です。どうか聖体拝領のこの習慣について言及する時にも、そうあって下さい。サンキュー」
最初のもの〔訳注:上の Anemus Athanasium xx. scl の言葉〕は以前私が書いたものですが、その言葉の選択は以下に基づいて言ったものだったのです。
1975年9月29日のエクソシズムから
1. ユダ(レンツ神父に対して): お前が着ているそれ(カソック)を、もはや圧倒的大多数の者達は着ていない。それらモダニスト達は俺の仕事の結果だ。彼らは既に俺の所有だ。
4. 修道会の修道士達はテレビの前で時間を消費し、十分には祈らず、跪きもしない。そして、彼らは手(the paws)を伸ばすのだ。(手による聖体拝領のこと)
5. これが全ての者によって行なわれている。全ての者が同じように行なっている。司教から教区司祭に至るまでだ。また、こ... こ... このことは、信者達が立っていることを許し、彼らの手の上にそれを与えることを可能とする。(馬鹿にしたように笑い、動き回る)
出典:
Satan's Answers to the Exorcist
in the case of Anneliese Michel
Gaspare Bullinger
translated by: Fr. Adolph Faroni, SDB
Nihil Obstat: Rev. Msgr. J.C. Abriol
Vicar General of the Diocese of Manila
Imprimatur: Rev. Fr. Francis Gustilo, SDB
Provincial
投稿者:tAnGo 投稿日:2006年1月10日(火)11:14 am
70年代に行なわれたアンネリーゼ・ミシェルのエクソシズムを録音したものを書き起こしたものを読めば、「新しい教会の改革で悪魔達はひどく喜んでいる」という君の言葉が正しいことがわかる。
その書き起こしたものの抜粋は次の場所にある。[7]
トップページ:http://www.najukorea.de/web_michel/index.htm
抜粋のページ:http://www.najukorea.de/web_michel/teufel/teufel_g.htm
++++++++++++++++++++
注)彼女のことを知らない人達のために言うと、アンネリーゼ・ミシェルとは、映画『エミリー・ローズ』のモデルになった若い女性です。彼女の体の中に六体の悪魔がいることが分かりました。ユダ、ヒトラー、ネロ、ルシファー、カイン、そして、今は名前が思い出せないけど、もう一人。
以下の抜粋には、日付と、その時に話した悪魔の名前が書かれています。
++++++++++++++++++++
(ただし、一部、私には訳すのがちょっと難しかったものがある、と念の為に言っておきます。)[8]
ユダ
1975年9月29日 -[彼らは]立っていなければならない。俺は跪きよりもそれが好きだ。跪くべきではない。俺はそれがひどく嫌いだ。
司祭... 司祭は、彼ら全員を出しゃばらせず、我慢させる、それが司祭の仕事だ。司祭はあまりに馬鹿だ。俺は誰一人跪かないようにするだろう。[9]
1975年10月15日 - 俺達はこの新しい改革を非常に喜んでいる。この変化に心から満足している。
1975年10月6日 - もう一つ言えば、彼らがそれを手の中に与えること(手による聖体拝領)は、俺がまんまと成し遂げたことだ。
1975年10月10日 - そしてとりわけ、彼らがもっぱら立っている時、俺達は嬉しい。彼らはそれ(聖体)が配布される時、いつも立っている。俺達がそうしたのだ。彼らはとても馬鹿だ。
1975年11月24日 - 会議が終わってとても残念だ。それは俺達をひどく喜ばせた。
────
ルシファー
1975年10月20日 - 一つは、彼らが(全然)俺が存在することを信じないということだ。気に入った。俺は本当にハーグ [10] が好きだ。それは全世界に混乱をもたらした。
[アルト神父に対して]俺はお前達が “僧服” ではなく別の物を着ているのがたまらなく好きだ。実際、お前達の大多数はもはやそれを着ていない。このことは俺を際限なく喜ばせる。
1975年10月27日 - それ...(手による聖体拝領)は、俺が成し遂げた偉大なる功績だ。
────
ユダ
1975年10月29日 -(1)聖体拝領台は教会の中に戻されなければならない。(またか!) 俺はこれを言いたくない。しかし、婦人(聖母)が俺を強要する。あの女が。
────
ルシファー
1975年10月4日
(2)司教達は教皇に従わねばならない。
(3)[人々は]教会の中で(何度も何度も)跪かねばならない。彼女が... 俺を強要する。
(4)それ(聖なる聖体の秘蹟)... 誰一人として[それを]配布することを許されていない。平信徒はそれを配布することを許されていない。
(5)それを手の中に与えることは許されていない。
(6)それ(聖なる聖体の秘蹟)が配布される時、[人は]跪かなければならない。このように言えと彼女が命じている。
(7)古いもの(カテキズム)が... 戻されなければならない。このように言えと彼女が命ずる。オランダのカテキズムは学校において(教えられて)はならない。これが、ナザレ人(イエズス)が俺に言うようにと要求していることだ。
1975年10月10日
(8)司祭達はまた、結婚することを許されていない。これは天の命ずるところだ。
(9)修道女らは、彼女らの修道服を着て活動しなければならない。
(10)もっと多く祈られなければならない。家庭の中で、ロザリオが。
(11)オランダの司教達は背教者だ。彼らは教皇に対して不忠実になった。
(12)教皇に従順でなければならない。
(13)尊敬すべき司牧者であるならば、俺が存在することを説教しなければならない。彼らはこのことを人々に知らせなくてはならない。
(14)彼らはそれ(ストラ)を... 着なければならない。
(15)司祭はそれによって見分けられなければならない。
(16)人々は告解に行かなければならない。しかし幸運なことに、今や誰もがそれにほとんど行かない。
(17)カトリックの教理は誤謬なしに教えられなければならない。
(18)そうだ。司祭達は俺が存在することを言わなければならない。さもなくば、彼らはみな俺達のところに堕ちて来ることになるだろう。婦人はいつも俺に言うようにと強要する。彼女はつまり人々を救いたい。しかし、彼女はそれについて概ね何もできていない。何故なら、あまりにも祈りが少ないからだ。
(19)神学生達は祈らなければならない。彼らは神学校で教育されるべきだ。彼らは他の大学では[教育される]べきではない。
(20)最悪なのは、教育の質が落ちていることだ。司教達はローマに目を向けなければならない。
────
フライシュマン
1975年10月14日 -(21)人々は、病んだ時、司祭のもとに行かなければならない。[このように]言えと彼女が命ずる!
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ルシファー
1975年10月28日 -(22)天主の花嫁が言えと命ずる。聖霊にもっと祈られなければならない。いと高き婦人が言えと命ずる。お前達はもっと祈らなければならない。何故なら、あまり多くの者が俺達のところに堕ちないようにする目的のもとに、それ[懲罰?... 来るべき第二の?]が間もなく来るからだ。ロザリオを祈れ!
1975年10月27日 -(23)手による聖体拝領は廃止されなければならない。それは俺の仕事だった。司教は、もしそれが可能なら、手による聖体拝領を禁止しなければならない。
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ネロ
1975年10月10日 - そうだ。お前達はファチマのメッセージに従って行動しなければならない!
フマネ・ヴィテは極めて重要だ! フマネ・ヴィテの全てが!
それが果たされなければ、一つの新しいもの[懲罰?]が来るだろう。お前達は何もかもを破壊している。それはヨーロッパで、非常に悪く、忌むべきものとなるだろう。
それ(ロザリオ)が祈られねばならない。さもなくば、もう終わりだ!
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ルシファー
1975年10月13日 - 従順が徐々に蝕まれるが故に、教会にあっては民主主義は最良のものではない。それ[聖職者諮問委員会?]もまた最良のものではない。司牧者達は命令しなければならない。司牧者達は自己自身の良心の声に従わなければならない。とりわけ、彼らはこの修道服[カソック?]を着て走り回らなければならない。
守護の天使達にもっと祈らなければならない。何故なら、今この時、地獄のパワーはきわめて大きいからだ。
人々は守護の天使達に、自分達のことを護ってくれるようにと祈らなければならない。
1975年10月15日 - 聖水が家に戻されなければならない。そうだ。そして、十字架も家に戻されなければならない。
司祭達はそのようにしてはっきりと見分けられなければならない。もし彼らが彼らの...(ローブ、カソック)を着て走り回るなら、俺達には ... 達に振るう力はそれほどない。
1975年10月17日 - ...(神の御母が)言えと命令する。イエズスの聖なる五つの御傷が崇敬されなければならない。
1975年10月22日 - イエズスの聖顔が崇敬されなければならない。ナザレ人(イエズス)がそう言っている。何故なら、それは人々によってひどく歪められているからだ。それ故、それは崇敬されなければならない。
聖顔のメダイ [11] が崇敬されなければならない。天国と地獄の上に力を持っている者が、俺にそのように言えと命ずる。
聖ファウスティナの、その上にイエズスの顔がある絵が広められなければならない。(慈悲深い救い主の御絵のこと)
この絵がある場所では多くの祝福がある。──それはわれわれに損害を与えるものだ。彼自身がこのことを命じている。ナザレ人とその母親が。
彼は、司祭が聖顔を崇敬して祈りを捧げるのを聞くことが好きだ。全ての司祭と人々は、彼の聖顔を崇拝すべきだ。
聖ヨゼフに祈ることはきわめて大事だ。非常に!
────
フライシュマン
1975年10月24日 - 司祭は結婚することが許されていない。彼は永遠に司祭だ。そして、このことは修道会にいる者達にとっても同様だ。彼らは自身の召命に忠実なままでなければならない。今日、多くの者が不忠実になっている。
司祭はまた、聖体の秘蹟ともっと親しく結ばれるようにならなければならない。
────
ルシファー
1975年10月24日 - お前達はもっと説教しなければならない! 天に代わってだ! お前達は人々を、彼らが神なき(不信心な)世界の危険性にもっと気づくように導かなければならない。人々は自分達がどの場所に平和を見出すべきかを知らずにいる。
その他、英語以外の環境で、同様の記録が次のような場所にあります。
管理人注
[1]  この本は、ドイツ語、イタリア語、英語で出ているようです。
ドイツ語版(原著)
“Anneliese Michel und die Aussagen der Dämonen”
von Kaspar Bullinger
Das Leben und Sterben der Anneliese Michel und die Aussagen der Dämonen
Ruhland-Verlag, Rudolf-Diesel-Str. 5, 84503 Altötting
DIN A5, 164-seitig, Best.-Nr. 035, 8,50 €
www.druckerei-ruhland.de
druckerei.ruhland@t-online.de
1. Auflage 1981
2. Auflage 1983
イタリア語版
“Le risposte dei demoni”
di Bullinger Gaspare
Autore: Bullinger Gaspare
Editore: Edizioni Segno
Genere: teologia cristiana
Argomento: demonio
Collana: Nel segno del mistero
Traduttore: Dellandrea S.
Pagine: 130
ISBN: 8872822343
ISBN:(9788872822340)
Data pubblicazione: 1997
英語版
“Satan's Answers to the Exorcist in the case of Anneliese Michel”
Gaspare Bullinger
translated by: Fr. Adolph Faroni, SDB
Nihil Obstat: Rev. Msgr. J.C. Abriol
Vicar General of the Diocese of Manila
Imprimatur: Rev. Fr. Francis Gustilo, SDB
Provincial
後日追記
今ではWeb上で各国語で読めます
English
German
Italian
Japanese
けれど、どの国のamazonでも全く出て来ないところを見ると、おそらくはどれもが今は絶版で、入手はとても困難なのだろうと思います。
しかし、この本にある内容はほとんど全て次の場所(既出)に表示されているのかも知れません。
著者の Gaspare Bullinger という人については、詳細はわかりません。作品はこれ以外にはほとんど見当たりませんから、おそらく職業的な著作家ではないでしょう。
英語版への訳者である Adolph(Adolf)Faroni 神父(サレジオ会)とは、おそらく右の写真の神父様でしょう。フィリピンはマカティ(Makati)市の St. John Bosco Parish Church で「聴罪司祭として」働いておられる、という記事を見ました。しかし、2013年2月で90歳になられたようですから(参照)、現在は全ての聖役から退いておられるかも知れません。
[2]  映画『エミリー・ローズ』のこと。
[3]  これについてはルフェーブル大司教様が次の場所で触れておられる。
また、これの日本語版はまだ売られているようだ。セブンネット
[4]  Barbara Weigand(1845 - 1943): この人はドイツではとても有名なようです。
最初に挙げた Felicitas D. Goodman の本には、アンネリーゼがこの女性に対して大きな愛情を抱いていたこと、また聖母から「Barbara Weigand の仕事を引き継いで完成して欲しい」と言われたことが書かれています。
[5]  ドイツの都市。1946年に何か(聖母出現?)あったようです。
[6]  この反論者が「侮辱」と言ったのは、初めの投稿者が「手」を意味する言葉に「hand」ではなく「paw」を選んだからだと思います。Yahoo辞書によると「paw」とは、「1.(かぎづめのある四つ足獣の)足(⇒HOOF 1);(一般に)動物の足 ;(略式・おどけて)人の手」ということです。
[7]  このサイトは現在でも存在しますが、しかし何故かアンネリーゼのエクソシズムについては削除したようです。また、URLを見てもわかるように、このサイトは韓国ナジュの聖母のためのものです。しかし、ナジュは信ずべきものではないようです。ナジュについて(聖ピオ十世会
[8]  悪魔達の言葉として紹介されているものは、この投稿者が次の場所にあるドイツ語のテキストを英訳したもののようです。
[9]  現にそうなっているわけです。これを驚かない人は stupid(by ユダ)だと思う。
[10]  ハーグ: Herbert Haag(1915 - 2001)という神学者らしい。この人はなんと「エウカリストを祝うために叙階された司祭が必要かどうか」をバチカンと議論したそうです。参照
[11]  次のような記事がありました。
イエズスの聖顔のメダイ
イエズスの聖顔のメダイは、1938年3月、聖母が Sister Maria Pierina De Micheli にその作成をご要求になったものです。それは「防御の武器、勇気の盾、性的関心と天主と教会への憎悪の時代における愛と憐れみの約束」として要求されました。
完全なデザインで彫られたメダイは、二倍のコミュニケーションを与えます。一つは、よく知られた表の面を通じて、もう一つは、裏の面を通じてです。前者にはイエズスの聖顔(それは聖遺布から再現されたものです)があり、「illumina Domine Vultum Tuum super nos(ああ主よ、御顔の輝きを我らの上に照らし給え)」の文字があります。これは、イエズスがそれによって贖いを果たされた十字架上の御いけにえの意味を注目すべき方法で捕捉し、表現しています。
裏面では、光を放つ御聖体がかたどられており、「Mane nobiscum Domine(主よ、我らと共に在し給え)」の文字があります。これは、私達の最も素晴らしい崇拝行為であるミサ聖祭において現在の私達が捧げる犠牲を現わしています。イエズスは御聖体の秘蹟のうちに常に私達のそばにおられ、彼と親しくあろうとして私達が彼を訪れるのを待ちながら常に御聖櫃の内に現存しておられます。Sr. Maria Pierina は聖母から、「このメダイを身につけ、毎火曜日に御聖体訪問する(できるならば)人は全て、わが天主なる御子の慈しみに満ちた御眼差しのもとに幸いなる死を遂げるでしょう」との約束を受け取りました。
このメダイは1940年、Sister Maria Pierina の指示によって、指定されたデザインの詳細にまったく忠実に作成されました。
この聖顔のメダイは次の場所から入手可能です:
Holy Face Monastery
P.O.Box 691
Clifton, New Jersey 07012
「イエズスの聖顔への信心」については「信心の園」さんが力強く紹介して下さっています。 イエズスの聖顔への信心 1  
実は、信仰の浅い私は今の今まで、「聖顔」といえばただごく一般的に主イエズスの「聖なる御顔」を意味するのだ、と思っていました。聖顔への信心、聖顔への崇敬というものを、今まで特に考えたことがなかったからです。しかしそれは、主の十字架上での御犠牲とあまりにも深く結びついたものだったのですね。
アンネリーゼ・ミシェルのエクソシズムにおいて悪魔は、上のように「イエズスの聖顔への崇敬は人々によってひどく歪められているから、それを回復しなければならない」というようなことを言っています。歪められているというか、現在の教会においてはこの信心は、あたかも「ない」かの如きです。そこには、この信仰における「苦しみ」の要素を薄め、「喜び」を特に強調したいという現在の教会の姿勢があるのではないでしょうか(意識的であれ、無意識的であれ)。聖顔への信心というものが、今回私が遅まきながら気づいたように、特に主の御受難とその御苦しみを想起させるものであるならば、そのひどい打撲痕、茨の鋭い棘によってできた傷、流血の跡を凝視させるものであるならば、現在の教会はそれを「避けたい」、少なくとも積極的にはそれにスポットライトを当てたくない筈です。しかし、これは「歪める」行為でなくして、いったい何でしょうか。
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