教皇様。
私は謹んであなた様に、私達の司教様達に対して、ミサの中に、跪きと、舌による拝領と、「東向性」
[1] を戻すようにと、指示して下さることを求めます。何故なら、あなた様のご著書『典礼の精神』の中にある次の教えの故に、私はあなた様を尊敬するからです。
ひざまずくことは現代文化にとり、異質なものでありうるかもしれません。その文化というのは、つまり、信仰から遠ざかってしまい、その方の前ではひざまずくことが正しく、それどころか、本来的に必要な態度であるような方を知らないのです。信じることを学んだ者は、ひざまずくことも学びます。そして、もはやひざまずくことを知らないような信仰、あるいは典礼は、その核心において病んでいるのでしょう。ひざまずくことが失われたところでは、再び学ばなければなりません。
司祭が会衆に向くことは、信徒共同体がそれ自体で完結した社会を形成することになります。それは、その形態からして、もはや前方へ、また上方へ開かれたものではなく、自分自身の内に閉じこもったものです。こぞって一緒に東を向くことは、「壁に向かってミサをささげる」のではなく、司祭が「会衆に背を向ける」ことを意味したのではありませんでした。司祭がそれほど重要とは受け止められていなかったのです
[2] 。なぜなら会堂で一緒にエルサレムを仰ぎ見たように、ここではこぞって「主に向かって」仰ぎ見ているのです。
公会議前のミサでは、司祭は会衆に背を向けて司式する (CNS)
[3]
しかし、カトリック日本司教協議会は、それ自身の新聞である「カトリック新聞(Catholic Weekly of Japan)」において、次の言葉をもって古いミサを紹介しました。「公会議前のミサでは、司祭は会衆に背を向けて司式する」
← 2007年7月15日号の記事
そしてまた、私は、マルコム・ランジス大司教様をも、アタナシウス・シュナイダー司教が最近お書きになったご著書『Dominus Est』の中に彼が与えた序文にある次の示唆の故に、尊敬します。
(非公式訳)
私は、現在このような善き習慣が概観され再評価されるべき時が来ていると思います。そして必要とあらば、『愛の秘跡』によっても過去の教皇様達によっても求められず、ただ幾つかの国における不法な導入の後に受入れられたに過ぎない最近の習慣を廃止すべき時に来ていると思います。私達は現在、教会の生命を強めるため、また現在の状況が尚引き起こし続けている信仰の危険な歪曲の渦中において教会の生命を護るために、御聖体におけるキリストのまことの現存に対する深い信仰を新たにするように信者達を助けなければなりません。
(「最近の習慣」とは、御聖体拝領の時に「立つ」こと、そして「手」による御聖体拝領を意味します。)
本当のことを言えば、私は古い御ミサに与ることを望んでいます。何故なら、それは三つのポイント、つまり「跪き」と、「舌」による拝領と、そして「東向性」を、確実に含んでいるからです。しかし残念なことに、私達の国日本では、古いミサに関心を持っている人はほとんどいないようです。
それどころか私達の教会は、相も変わらずカトリックの精神から、またローマから、離れ続けることを望んでいるように見えます。最近、昨年の中頃、私達の司教座聖堂は信者用の座席を新調しましたが、選ばれた椅子は跪き台(膝クッション)の付いていないものでした。そのため、この司教座聖堂で長い間続いていた習慣、つまりミサの奉献の間の跪きは、失われました。つい最近までは全ての人が跪くことを習慣としていましたが、しかし今では、全ての人がその特別で荘厳な瞬間に立っています。私はとても悲しいです。
更に、ここでは詳細には書きませんが、別の司教区の或る教会では、舌による拝領を選んでいる信者達が、典礼の流れの中で不当に疎外されています。司祭が御聖体拝領の新しい形式を発明し、試行しているからです。
その司祭は私の友人に言いました、「私があなたに舌による拝領を許すのは、それが既にあなたの習慣になっているからであり、また、あなたが跪きたいとは言わないからです」。しかしこれでは、跪かないことが舌による拝領のための交換条件であるかのようです。そして彼は加えてこう言います、「しかしこれから新しく教会に入ってくる人達には、私は手による拝領を厳しく指導するつもりです」。
教皇様。私達の国では未だにこのようなことが続いています。ただ僅かな人達だけが、真のカトリック精神に興味を持っているようです。あなた様の自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」の公布以来、私は私達の教会のために古いミサを望んできましたが、その望みは今、小さくなりつつあります。
教皇様。どうか私達の教会がこれ以上カトリックの精神から離れて行くことができないように、私達をお助け下さい。どうぞそのために、具体的な手段をお取り下さい。私達の司教達にとってローマは単に一つの外国の国なのかも知れません。或る司教はかつてカトリック新聞の中で言いました、「私はバチカン・チルドレンの中の一人になるつもりはない」。彼らは、バチカン当局による何らかの示唆に対面する度に、毎回、型にはまったように、「それは私達の国の習慣ではない。それは私達の国の文化ではない」と言っています。私はうんざりです! そしてこれは笑い事ではありません。
どうか預言を軽んじないで下さい。フランスのの神秘家にして聖痕受領者であるマリー-ジュリー・ジェニー(1850-1941)は、司祭達と司教達によって享受される増大する自由について、また、彼らがそれを如何に悪く使うかについて、言っています。彼女は、一人の教皇が最後の瞬間に彼のポリシーを翻して聖職者達に荘厳なアピールをするが、彼は従われず、それどころか司教達の会議は更に大きな自由を要求し、もはや教皇には従わないと宣言するだろう、と言っています。更に、聖ヒルデガルド(12世紀)は言っています、「王子と国民らが教皇の権威を棄つる時、その時が到来しつつあります。各国は教皇よりも己の教会の規則を好むでしょう」。
このような傾向が、既に、あまりに明らかに私達の教会にあります! 原因は、第二バチカン公会議があまりに人間の善性を信じ過ぎたからであり、またあまりに多くの権限を司教達に委譲したからです。
ですから、私はただミサにおける幾つかのポイントだけに固執しているのではありません。どうぞ、あなた様と各国司教達との関係を、手遅れになる前に修正なさって下さい。どうぞ力強い指導力をもって、彼らをしてあなたに従わせて下さい。
そして勿論、私は私達のミサにおける跪きを、舌による拝領を、そして「東向性」を、とても強く望みます。何故なら、私はこれらの単純で具体的な実践が、私達をカトリックの精神に、力強く、また効果的に導くと堅く信ずるからです。
私はスキャンダルだけを集めたくはありません。しかし同時に、私は、私達は物事から目をそむけてはならない、と思います。カトリック教会は、第二バチカン公会議以前においては、決して左の写真にあるような光景を持ってはいませんでした。私達は、これが御聖体拝領の光景だとは全く信じられません! これは神聖な主の御からだに対する冒涜以外の何かであり得るでしょうか?
教皇様。私達は、あなたの力強い、また効果的な指導力を乞います。
2008年2月17日