私
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洗礼の恵みとは、何ですか。
というのは、以前の神父様のお話で、こういうのがありました。「恵みというものはあくまで内から来るものであって、洗礼や聖体はその外的なしるしである」と。しかし「外的なしるし」というと単に精神的、象徴的、記念的なものに聞こえます。 秘跡はそれ自体尊いということではないのでしょうか? |
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司祭
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それはそうです。
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私
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つまり、秘跡は、洗礼でも御聖体でも告解でも、それ自体、人間の霊魂を聖化する力、効力を有している、とそのように考えてもよろしいということでしょうか。
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司祭
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ええ。でも、その恵みの働きというものを人が何時感じるかというのはまた別の話で、往々にして後から気づくものではないでしょうか。「ああ、あの時のアレは今思うと神様の恵みだった、導きだった」と。
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私
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ええ、でも一方、人間が自覚するとしないとに関わらず、秘跡にはそれ自体に聖なる力があるという、そういう理解でよろしいですか?
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司祭
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うん、でも、たとえばここに洗礼というものが何なのか知らない人がいて、「ちょっと来い」と言われて訳も分からず洗礼を受けさせられたとすると、彼には何も感じられないでしょう。
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私
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そうかも知れません、でも、その場合でも、10年後に彼がその洗礼による何らかの変化を自分の霊魂に感じる可能性があるというような、一応そのような形において「秘跡にはそれ自体に効力がある」ということですよね。
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司祭
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でも彼はその時、それが洗礼のせいだとは気づかないでしょう。恵みとは何でもそうですが、自覚的に信仰を持った人が、後から自分の人生を振り返って、あくまで結果として「ああ、今から思うとあれも神様からの恵みであり導きだったのかなぁ」と知るものです。
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私
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いや、だから原理としてはです。原理としては、「秘跡それ自体」というものを考えられると、そういうことですよね。原理というか、それが信仰の態度であると。それに神父様は「あらゆる恵みが」と仰いますが、秘跡の恵みというのは特別のものではないでしょうか。たとえば私が昔を振り返って「ああ、幼稚園の時プロテスタントの日曜学校に行ったことが今に繋がっているのかもなぁ。今思えば神様の導きだったのかなぁ」という時の恵みとまったく同列に語られるべきものではないということですよね。神様からの特別の恵みですよね。
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司祭
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ええ、でも(云々)
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私
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いや、私がお訊きしたいのは神父様のお考えなのですが。
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司祭
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(云々)
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私
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いや、ですから、私の言いたいのは、神父様は、またカトリック教会は、そのように教えないのですか? ということです。
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司祭
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そう教えてますよ。
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