2005.12.19

教えないのですか? 2

こんなやり取りもありました。
神父様、今神父様は「滅び」と仰いましたが、それは何ですか?
司祭
滅びとは、「神から心が離れた状態」です。
滅びた人はどうなるのですか?
司祭
ん?
つまり、私が訊きたいのは「死んだ後」のことですが。
司祭
神から離れた心の状態が永遠に続きます。
状態? それだけですか?
司祭
つまり、私がお訊きしたいのは、いわゆる「地獄」というもののことですが。
司祭
ええ、だからそれは神から離れた心の状態が永遠に続くことです。
それはある精神の状態のことだけだということですか?
司祭
精神? いや「心」ですよ。精神とはここ(頭を指差す)のことでしょ? そうじゃなくてあくまで「心」です。ここ(胸を指す)です。
いや、だから要するに、〈状態〉であると同時に〈場所〉でもあるのではないですか?ということですが。
司祭
つまりです、地獄という、一つの場所というか、こう天と地が開けている世界、時間と空間のある世界があるのではないか、ということです。
司祭
いや、天国も地獄も「永遠」の世界ですから、時間はありませんね。
いや、私がお訊きしたいのはですねぇ・・つまり、あるじゃないですか、たとえばファチマのシスター・ルチアが「地獄の火の中に降る雪のように落ちてゆく滅びた霊魂達」を見たとか。
司祭
ああ、あれは信仰箇条ではないので信じなくても構いません。
いや、私はファチマそのもののことを云々しているのではなく、つまり人間の心の中には古来からそういう世界への一定のイメージがあるじゃないですか。他宗教でも、たとえば仏教の地獄絵図とか、あるいはダンテの神曲だとか。
司祭
ダンテ? いや、あれは違います。
だから・・直接ダンテがどうのというのではなく、それらに見られるのとある種同じような世界観をもって、カトリック教会は地獄を、また天国というものを教えないのですか? ということです。天国も地獄も一つの〈状態〉としてばかりでなくある種の〈場所〉として、ある意味物理的に存在していると、教えないのかということです。
司祭
物理的? だって物理的には存在してないじゃないの。
いや、勿論この世界と次元は異にしているのですが、言ってみれば物理的に存在してると・・
司祭
ああ、それは貴方にとっての「物理的」ね。
いや、そうじゃなくて単に言葉の使い方です。確かにそれは現在の科学では捕捉できませんよ。しかしそのような世界、そのような天地が「存在する」のであれば、それは「物理的に存在する」ということであり、そのような意味合いにおいて私は「物理的」という言葉を使うわけですが。
司祭
ああ、それは貴方の言葉の使い方ね。
前にも言ったが、この神父様はおそらく、自分がわかっていない事をわかっていると錯覚しているタイプの人だろう。
「天国も地獄も “永遠” の世界ですから、時間はありません」?
確かに、カトリックの何かの神学書にそんなことが書いてあるだろう。
しかし私達は、「時間がない」ということを “理解” できるのか?
理解できなければ、そんな事を口に出すのは無益である。
それに第一、「時間」なんてこの世にも「ない」ではないか、ある意味。
それは椅子やテーブルのように存在しているわけではない。
物理的に存在しているわけではない。
観念力を持った生き物(人間)が、「記憶」やら「予想力」やらを動員して観念的に描く、“計る”──そこにしか「時間」はない。川の水が上流から下流に流れる、そのような物の推移・運動があるからといって「時間」があることにはならない。人間の観念力があって初めて「時間」はある。
そして、天国の存在者達はもちろん「観念力」を持っている。
だから、天国にも「時間」ぐらいあるんじゃないですか?
私達同様、彼らの「観念」の中に。
もう一つの言い方をすれば、
天国は何かの欠乏ですか?
天国には「全てが有る」のではないですか?
全ては有る、しかし「時間」は無い?
全ては有る、しかし「空間」は無い?
おかしいな〜
ええ、私はそれはおかしいと思う。
天国には全てが有るなら、「時間」や「空間」ぐらい「含む」と思う。
いや、しかし、「信仰」の話に戻ろう。
「信仰」の話ということで言うなら、信者に「天国」や「地獄」をある種の〈場所〉として思い描かせることに、特に不都合はない。いや、不都合はないどころか、それが唯一「有効」な方法である。何故ならば、私達は「想像力」を持っており、「想像力」に十分に訴えかけて来ないものは、私達にとっては「無きが如きもの」になってしまうからだ。
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