2005.12.08

洗礼は「外的なしるし」?

聖母の無原罪の御宿りの祝日、おめでとうございます。
私もロザリオを一環お捧げした後、夕ミサに与りました。
いつになく小聖堂に人が多く入りまして、少し嬉しかったけれど、
でも所詮小聖堂であります。本当は主聖堂に煌々と明かりがついた中に
百人単位の人々が集まって盛大に祝う、という感じなら良いのですが。
でも、その小聖堂も或る意味少数精鋭、だったかな?
それは間違いなく、聖母への信心が篤い人達でしょうから。
御ミサが終わった時に一人の御婦人が立ちまして、
聖母に捧げる聖歌を歌い出しました。
皆で唱和したのですが、とても良かったです。
私は節は全然分からなかったけれど、とても良かったです。
歌は魂に近いですよね。理屈は頭に近いけれど、歌は魂に近い。
「よく歌う人はよく祈る人である」というようなことを、
どなたかが言っていましたが。
そういう、魂、ハートにじかに触れて来るものを、
いっぱい聴きたいものです。説教も。
というのは、最近聖ドミニコの伝記を読んだからなのですが、
彼の説教は、昨今の若者言葉で言えば「ヤバイ」ほど魂を揺さぶる
ものだったようですね。聴いてみたかった。
聖ヴィアンネの説教もそうだったようですね。
彼らの魂から発されるものが、理屈なく、聴くものの心に点火する
のだと思う。エマオへの旅人の二人が主の御言葉を聴いた後で、
「私達の心は内で燃えていたではないか」と振り返ったあの場合と似て、
真に主に一致した聖人の言葉には「聖霊が乗る」のだと思います。
そんな幸せな夕ミサに与り終えて、
さぁその後はいつもの入門教室でありました。
そこでまたまた、なんかションボリせざるを得ずのことが・・
司祭曰く、
恵みというものを何か “外から” 来るもののように考えて、そのため洗礼を受けることに急いたり、御聖体を頂いている信者のことを羨ましく思うような人がいるが、その考えは違っている。何故なら、恵みとは “内から” 来るものであり、洗礼はその “外的なしるし” であるからだ。
私は、このような司祭の言い回しに、言い知れぬ不安を感じます。
「外的なしるし」という言い方が何を意味しているのか、
神父様ご自身わかっていらっしゃるのでしょうか?
私は訊いてみたかったです、
「それでは神父様、洗礼や御聖体には、純粋にそれ自体として、
人間の魂に作用する力、聖化する力が無いとお考えなのですか?」と。
彼はどうして、
「秘跡の恵みに対する人間の協力があって初めて、
人間の内に聖性が形成される」
と言わないのでしょう。それなら私にも分かるのですが。
つまり、私の抱く「言い知れぬ不安」とはこうです。
たとえば御聖体の秘跡に関しても、この神父様は
御聖体を何か「象徴的なもの」ぐらいにしか考えていなくて、
まともに主の御体だとは信じておられないのではないか?
話は変ります。
以前、入門教室で、マーチン・シーン主演の『四人目の賢者』(参照)という映画を見せてもらいました。
それは、東方の三博士の後を追う四人目の賢者がいたという設定の話なのですが、その男は御降誕した主を礼拝せんと向かう旅の道中で、病者貧者あらゆる憐れむべき人々に出会います。それで、主に会いたいのはやまやまだが、彼らに対する同情に勝てず、三人の博士達との合流を断念し、その場所に一つの共同体を作り、彼らを助け、彼らに教え、彼らと共に額に汗して働く生活を選ぶのです。
そうしてイエズス様に対する憧れを心の片隅に閉じ込めたまま何十年か経ったある日、彼の傍らを十字架を担ったイエズス様が通り過ぎて行きます。
神父様は「この映画は今のキリスト者としての私達に何かを提示していると思う」とおっしゃっいました。神父様は、主を礼拝しに行った三博士のことももちろん無視しないが、それ以上にこの四人目の男に「イエズスの御心(イエズスが私達に語りたかったこと)に応えている人間の姿」を見るらしいのです。「イエズスに物理的に近いか遠いかは問題ではない、ただその御旨を行なうことが全てである」というふうに。
しかし私の目には、その主人公は祈ることよりもこの世的に働くことを第一義としているように見えました。社会主義的なヒューマニストとどう違うのか。
しかも、主が十字架を担って歩まれて行くさなかに、主の御側に馳せ寄りもせず、遠くから見ていることができた、そのような人間像でした。そんなものを何故私達に勧めることができるのか、実に変だと思いました。不気味で、心ないことだと思わずにはいられませんでした。主の十字架行を目の前にして、私達は冷静に「善きサマリヤ人」の逸話を想起しつつ、共同体や社会の中で「人助け」をしていられるものでしょうか? 遠くから見ていて、主の痛みが分かるでしょうか? 主の御姿から抽出した理想だけを受け取れば、私達は充分なのでしょうか?
私は、カトリック信者の愛はいつも「特殊的に」主イエズスへ向かっていなければならない、と思います。
私達は主イエズスに生き方の指標を中心的なこととして学んでいるわけではない。信仰者にとって最も中心的なことは、私達が一人一人直接に、「イエズス・キリスト」というただお一人の方の苦しい御犠牲によって、その御血によって、救霊のお恵みを頂いたということです。
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