2005.12.03

対面ミサ

対面ミサですけど、あれはやっぱり駄目なような気がします。
あれは司祭と会衆のお見合いです。
その視線の交わりの中に、イエズス様が十分にはいらっしゃらない。
もちろんまったくいらっしゃらないわけではありません、
少なくとも言葉の次元ではいらっしゃいますが、
しかし動きの導線ということでは「司祭 ─ 会衆」のラインの方が
ずっとずっと濃くなっていると思います。
家の設計でも、広告デザインなんかの世界でも、
よく分からないけれど「導線」という概念を使いますよね。
人の動きや視線を導くことを意図して引かれた線、
というようなニュアンスだと思いますが。
デザイナーはそれを意識しながら、色んなものを配置するのですよね。
その考えからしても、今の御ミサの中では、
イエズス様は「導線の外」に置かれていると思うのです。
今の御ミサの中で、
会衆の視線が自然に十字架に導かれると思いますか?
圧倒的に司祭の動きに気を取られるんじゃないですかね。
会衆は司祭が十字架を仰いだ時に十字架を仰ぎ、
司祭が御聖櫃に跪いた時に、自分も心の底から安心して跪くものです。
それが最も自然な、幸せなミサの形です。
そしてこのことを、信者自身の主体性、信者自身の信仰の自覚
の話にすり替えてはなりませんよね。
それは、しっかりした信仰をお持ちの方なら、
ミサの形が多少どうあれ大丈夫なのですが、しかしミサは、
信仰の浅い人をも弱い人をも導かなければなりませんから、
ミサの目的に最も適った形式を持っていなければなりません。
何度も言うようですが、私に口がある限り何度でも言いますが、
今の司祭達は十字架に、御聖櫃に、御聖体に、祭壇に、イエズス様に、
跪きません。
「礼拝」や「祈祷」の模範を示しません。
典礼文を読み上げているから「祈っている」と言うのでしょうか?
あれはかなりの程度(もちろん「すべて」とは言いませんが)、
「人間の集会」「人間の共同体」における、人間に向けられ、
人間の目を意識した、浅い次元での「音頭取り」ではないでしょうか。
言い過ぎですか?「失礼」ですか?
しかし実際、四六時中、会衆の方を見てるではありませんか。
あれでほんとに司祭の心が神に向くと思いますか?
御ミサにおいては主に対する特別の心の「集中」が必要だというのに?
(必要ではないのですか?)
司祭も人間。
あれでは神よりも人の目を気にするようになるのではないですか?
極端に言えば、私としては、御ミサ中、神に没入するあまり、
御聖体を跪拝したまま動かなくなってしまうような司祭が好きですが。
そのような神父様がかつていらしたということです。
この話は実話であると同時に一つの「例」です。
モノを観察し、真実を知るための。
つまり、ポイントは何かと言うと、要するに、
「今の御ミサの形態では、そのような神父様が出そうにないじゃありませんか」
ということです。
違いますか?
始終会衆に向って呼びかけ調で、
あれでは「神に没入」なんかできやしません。
で、「司祭」って、「ミサ」という最高に神秘の時、
「神に没入」しなくていいものなのですか?
「祈りに沈潜」しなくていいものなのですか?
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