2005.12.01

想像以上にひどい

「今の教会は想像以上に酷いです」と言っていいように思います。
毎日曜に御ミサに出て、御聖体を頂いて帰るだけではお分かりにならないかも知れません。ええ、きっとそうでしょう。私も信者になれば分からないことでしょう。でも、今、求道者の集まる教室に身を置いて、私は嫌というほど感じています。彼が、今自分の目の前に坐っている人間達の救霊に関して如何に「無関心」であるかを。「熱がない」かを。
私達の神父様は、
私達求道者を御聖堂の中に案内したことが、
今迄、只の一度もありません。
私達に御聖体のイエズス様を指し示して紹介したことが、
今迄、只の一度もありません。
「御ミサに来ていますか?」と私達に訊いて来たことが、
今迄、只の一度もありません。
教室においてさえ、時々、始めと終わりの祈りを省略します。
そうして終わると直ぐ私達を玄関に導きます。
そこから十歩ほど歩けば御聖堂の扉があるのにです。
驚いたことに彼は私達に「祈る」ことを教えないというわけです。
どこにそんな「司祭」がいていいものでしょうか?
彼は、私達求道者がどんな思いをもって教室に集っているのか見ようともしない。
求道者とは霊魂の救われを待っている人のことです。
そして霊魂の救われは小さなことではありません。
世間の諸事一般と同じラインにあるものでは決してありません。
私達の司祭はよく
「次の週は文化の日にぶつかっているからお休みとさせて下さい」
という休みの取り方をしますが、そういう「のり」が、
今回の私の洗礼式の延期にも感じられるので、
私は彼に改めて激しく、ガックリ来るのです。
(ここを分かって頂きたい。単に一度洗礼式を延期された、
そのことだけを恨めしく思っているのではありません。)
「ちょっと都合悪いからまた今度」てなもんです。実に簡単です。
救霊ということの重大性に対する留意も、使命の自覚も、
人が人の心を推し量る思いやりも、何とかしてあげたい
と思っての創意工夫も、そこには全くありません。
司祭は私達のためにどんな犠牲も払いたくないみたいです。
私が「今のお勉強のペースで、私の受洗はクリスマスに間に合いますか?」と訊きに行った時、彼はその時見ていたテレビを邪魔されたくないような素振りを見せたものです。
実際、「今、私テレビを見てるんで」 と言いました!
・・・・・
彼は「司祭室」で何をしているわけですか?
人々の救霊のために待機しているのではないの?
まあ、私が早く切り上げて「お邪魔しました」と言った時には、
「いや、なんもなんも」と二三度繰り返しはしましたが。
(しかし、ある意味「あとの祭」です。
信者はそのような司祭の心を敏感に感じ取ってしまいました。)
皆さん、私はこの司祭に特別嫌われていると思いますか?
以前この司祭と何かあったのではないかと思いますか?
私はむしろ「そうであったなら」と思います!
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