説  教
ロバート・スカラ神父
Fr. Robert Skurla
2006年の Skurla 神父様
編者による紹介
「ベイサイドのメッセージは、カトリック教会に対する私の信頼を回復してくれました。私はメッセージの持つ教義に己が評判を──それが何かを意味するならばの話ですが──賭けたいと思います。その教義は私が長年にわたって訓練されてきたものと同じなのです」
ベイサイドの御出現に関するこの最も注目に値する説教は、1982年4月4日、枝の主日の聖時間に、ペンシルベニア州スクラントンの聖ペテロ・カテドラルにおいて、当時その地域で聖職を務めていた東方典礼の司祭、Robert Skurla神父によって為され、アメリカの幾つかの主流のカトリック紙をして、ベイサイドに注目することを余儀なくさせたものである。Our Sunday Visitorの一つの記事は、Skurla神父の特徴を次のように描いている。「一定の評価を得ている司祭として(…)後にファチマ(ポルトガル)のブルーアーミーのチャペルのチャプレン且つ管理者となる。そのチャペルには、世界的に有名なロシアの守護者、『カザンの聖母』のイコンが収められている。彼のポジションに加えられている権威は、実際、彼の言葉に、彼の言葉をその司教区を遥かに越えた範囲にまで届かせるインパクトを与えた」
Skurla神父は、当初、我々に実際に聞かせたものよりも融和的な、ベイサイド支持を抑制した説教の草稿を書いていた。しかし、今や有名且つ歴史的なものとなったこの説教を我々に与える少し前、祈りの中に跪いている時に、彼は、自分の内面に一つのインスピレーションが生じ(それはあたかも聖母ご自身の声であるかのようだった)、それがベイサイドの聖母のメッセージに完全で明確な承認を与えるよう彼を急き立てているように感じたのである。どうか、このSkurla神父の説教を読むために、少しの時間を取って下さい。これは最も啓発的なものです。荒野で叫ぶ現代の洗者ヨハネであるかのようなSkurla神父のこの勇敢な声が、ベイサイドの彼らの御母の呼び声を公然且つ公的に認める剛毅を持たない多くのニコデモ的な聖職者達によって留意されることを、望み、且つ祈ろう。
説教本文
1982年4月4日
枝の主日である今日、十字架の道行きの第六留、私達の主がヴェロニカにお会いになる場面について考えてみましょう。聖アルフォンソは、私達が現在手にしている彼の代表的な本の中で、次のように書いています。「さて、この聖なる婦人、ヴェロニカについて考えなさい。彼女はいたく苦しまれているイエズスを見、その聖顔が汗と血とで濡れているのを見、彼にタオルを差し出し、それをもってイエズスの尊い聖顔を拭い、そのタオルにはその聖なる御容貌の印象が残されました」。私の友人である皆さん、この場面の中に、私達自身を精神的に置きましょう。
群集の大部分は激しく逆上していました。その大部分がイエズスに反発していました。彼を捕まえようとして外で出ていた人々は、通常は、群集に従う人達です。私達は今日でもこのような人々を持っています。どの時代でも彼らは群集として一丸となって冒涜行為を働きます。おお、しかし、ちょっと待って下さい、ちょっと待って下さい! 全ての人がイエズスに反対しているわけではありません。私達は一つの勇敢な霊魂を見ることができます。勇気をもって群集とは違ったことをした人、イエズスの悩める聖顔をタオルで拭い奉った人です。その憐みの行為によって、その人は全永遠にわたってイエズスの聖心の内に置かれるでしょう。
皆さんは信じるでしょうか・・・子供達、そして大人になった皆さん・・・あなた方は信じるでしょうか、1982年というこの年にも、イエズスはもう一度磔にされねばならないと宣告されている事を。今は、彼の神秘体である教会によって、そうされています。私の友人である皆さん、今は、あなた方や私がその一員である教会によって、イエズスはそう宣告されているのです。しかし、癌・・・皆さんは癌が何であるかをよくご存知です、私達は今日、この言葉をあまりにしばしば聞きます・・・この「癌」が、サタンによって教会の中に生じてしまいました。教会の中に入ってしまいました。サタンが教会の中に入ったのです! モダニズム、世俗的なヒューマニズム、共産主義などを媒介として、悪魔が、私達の一なる、普遍なる、使徒継承の教会の多くの変化に影響を与えてきたのです。
さあ、ここでもう一度、十字架の道行きの第六留の中に身を置きましょう。イエズスが来ておられます! 再びその十字架を担いながら、聖顔を汗と血とで濡らしながら、イエズスが来ておられます。福音書の中で描写されている実際の出来事に於いては・・・それが第六留ですが・・・私達は、ヴェロニカが自分の内面の最も奥深くに秘めた感情を外に表わすのを見ます。私達は、当時の宗教とはユダヤの宗教であったことを心に留めておかねばなりません。ヴェロニカにとって、そうでした。ヴェロニカが属していたのは、その宗教でした。彼女はその宗教に属していました。ヴェロニカの教会のリーダー達、祭司や祭司長達は、既にイエズスを磔刑に処することを決め、そのように判決していました。ですから、イエズスを助け奉ること、彼の聖顔をタオルで拭い奉ることによって、彼女は、彼女の祭司達がしていることに逆らうことになる他はなかったのです。
私達の大部分は、あるいは私達の非常に多くの者は、リーダーに従います。皆さんも、私も、私達は共に正しく〔ただしく〕訓練されて来ました。to a point〔ある程度まで? ある意味で?〕、私達は私達の司祭や司教に従うよう、正しく〔ただしく〕訓練されて来ました。私達はそうしなければなりません、確かにそうあるべきです。聖母は今まで、その涙をもって私達に、司祭と司教、そして枢機卿のために祈るよう求めてこられました。彼らがそれだけの困難を持つに至ったのは、私達が失敗したからです。私達は現在、変化に賛成するカトリックの主流と共に、モダニズムの潮流に巻き込まれています。私は、あなた方もそうしているようにカトリック信者達に語りかける時、彼らは非常に混乱している、私自身と同じように彼らは非常に混乱している、と感じます。私達がこの時代のジレンマに対処する解答を得て、何か確実なものを手にしながら向うことのできる、何処かの場所があるでしょうか?
変化の幾つかは、カトリック教会に深刻な損害を与えています。「進歩」の名の下に、司教と司祭と平信徒は、イエズス・キリストの神秘体である教会にとって有害な変化に賛成しています。この時代、私達の間に、私達の地域、この国、古き良きアメリカ合衆国の中に、誰か居るでしょうか? 私達の間に、声を挙げるに十分な勇気を持った者が、誰か居るでしょうか? あなた方の司祭達の内の誰かが、このような事についてあなた方に語りながらここに居なければなりません。しかし私は、彼らは「もっと小さな教区に送られるのではないか」と恐れるかも知れないと思います。そして、私はといえば、あなた方の司教様の管轄下にはおりません。私は、このメッセージをあなた方に与えるようにと、福いなる御母が私に「求めて」おられるばかりでなく、私を「駆り立てて」おられるように感じます。
もし仮に、福音書のヴェロニカがイエズスの聖顔をタオルをもって拭い奉らなかったとしても、それには関わりなく、やはりイエズスは磔刑に処せられたことでしょう。何故なら、イエズスが私達のために、あなた方と私の罪のために磔刑に処せられることは、御父の御旨(Divine will)による運命であったからです。しかしヴェロニカは、自分の自由意志によって彼女自身の運命を変えました。神は自由意志に干渉なさいません。彼女はその行為によって、彼女の自身の運命を、イエズスのではなく彼女自身の運命を、変えたのです。すなわち、群集とは違う者となりながら、外に踏み出して、親切の小さな行為をすることによってです。・・・彼女は群集の外に出て、前に進み、イエズスの聖顔を拭い奉りました。そして、神秘体、私達の神である彼は、あなた方のような、群集から出て彼の聖顔を拭い奉るような人々を必要としておられます。ヴェロニカによって為されたこの美しい行為! 皆さんと私が、今、この時代、1982年に何を為そうとも、神によって許され聖書によって預言されている教会のダメージは、やはり起こるのでありましょう。しかし、皆さんと私、私達は、私達自身の運命を変えることはできるのです。もう一人のヴェロニカになることによって。
あなた方一般の信徒にとって、それは極めて困難なことに違いありません。何故なら、私は今まで25年以上司祭であり続けましたが、その間[最近]、私が教会について教えられた事、また私が教会について心から真理であると信ずる事を脅かす、多くの事が起ったからです。そして、私もまた、あなた方と同じように、周囲を見回し、己れに問うのです。「イエズスとマリアは、これら全ての変化について、どう考えておられるのだろう? 私には分からない・・・」と。
さて、これも運命と言うべきでしょうか、神の御摂理は、私達に解決策を提供なさいました。これらの解決策は、非常に心配しておられるイエズスとマリアから来たものです。しかし、覚えておきましょう、悪魔は、この情報をあなた方から隠しておくためには何でもします。歴史はヴェロニカを知りました。ヴェロニカ・ルーケン。あなた方の多くと同じような普通の主婦です。彼女のもとに、イエズスとマリアは、十年以上にもわたってお現われになりました。ほとんどの場合、悪魔は私達の大部分から、この情報を遠ざけました。ああ、しかし、いったい悪魔は、私が物事を続けるのを邪魔したいとは思わなかったのでしょうか、私の口を閉じさせたいとは思わなかったのでしょうか!
イエズスとマリアは、カトリック教会の全ての大祝日の晩に、ヴェロニカにお現われになりました。教会のリーダー達と教会の主流が持つ一般的な意見に逆らいながら、ロングアイランドのヴェロニカは、イエズスとマリアのボイスボックス、すなわちイエズスとマリアがその子供達のために送るメッセージのための伝送機であることから来るあらゆる十字架を担うことを、厭いませんでした。そして、さて、もし地球の上に、そこに住む人々の上に、神から送られる懲罰あるいは天罰が近づきつつあるものとするならば、あなたは、イエズスとマリアが懐手をして、私達にどんな警告もしないまま、これらの事を起こさせると思いますか?
私は自分自身で──これは私自身に関することであって、他の誰に関することでもないわけですが──今までほぼ10年間、これらのメッセージを研究して来ました。そして私は、これらの中に、平和を、光を、そして20世紀のカトリック信者がこの問題の多い時代に必要とする情報を見出しました。この最も困難な時代にあって、イエズスと私達の天国の母は、将来の日々に関して私達に警告してこられたのです。彼女は、私達が来たるべき懲罰を切り抜けるのを助けようとして、私達が必要とするあらゆる情報をお与えになってこられたのです。その懲罰は既に天の御父によって承認され、既にそれ自身の道の上にあります。
ですから、子供達、ここには面白がって笑うべき、あるいは馬鹿にして笑うべき何物もありません。私はそう思います。これらの事柄は深刻なものです。そしてそれらは調べられるべきものです。私達の御母マリアが、この問題について声をあげ、語りかけてこられたのです。しかし、あなたは言うかも知れません、「何故ですか、神父様。何故、これらの事が、若い人々の上にも年取った人々の上にも降りかかろうとしているのですか。私達がどんな悪い事をしましたか」と。手短に答えるならば、主としてこれです──妊娠中絶! 妊娠中絶という、この凄まじき犯罪!
私達の御母マリアは、この問題について、1974年12月28日のメッセージでお語りになっておられます。彼女はヴェロニカにお現われになり、ヴェロニカに、胎児達がゴミ箱の中にぞんざいに投げ捨てられる場面をお見せになりました。そこには小さな頭と、小さな腕と、小さな足の入り混じったものがありました。そしてマリアはおっしゃいました、「そうです、私の子よ、これは殺人、酷い情景です! この胎児の殺人に僅かばかりの責任を分ち持つ人々でさえ、その全員が滅ぶでしょう。あなた方の殺人を今直ぐ悔い改めなさい」と。[1]
このアメリカのベイサイドの聖母出現のために、聖母は、御自身が「薔薇の聖母、母親達の御助けであるマリア」として知られることをお望みになりました。そして、あなた方、母親達は、アメリカの母親達のためにこれ以上の称号はないことをご存知です──「薔薇の聖母、母親達の御助けであるマリア」。マリアとイエズスは、正しく〔まさしく〕私達の大部分が混乱しているような諸問題について、お語りになりました。妊娠中絶は殺人です。男性は女性のような服を着てはならず、女性は男性のような服を着てはなりません。女性はスラックスやジーンズを履いてはなりません。イエズスは、女性は誰一人聖職に入ってはならない、どのような形であれ司祭職に関与してはならない、とおっしゃいました。さて、このような事を、私ならば言えなかったかも知れません、また、あなたならば言えなかったかも知れません。しかし、イエズスがそうおっしゃったのです。そして、彼はそう言う権利をお持ちです。同性愛について、彼はおっしゃいました、「それに関与する者、あるいはそれを容赦する者は、その全員が滅ぼされるであろう」と。ロックミュージックはサタンに捧げられたものです。[2]
パードレ・ピオ。私の非常に善き友人であり、私が常に祈りを向けるところのパードレ・ピオは、1975年4月5日に、ニューヨークのベイサイドに現われました。そして彼は言いました、「ミサの聖なる御いけにえは、全能の天主が承認し給わない方法によって、また喜び給わない方法によって捧げられている」と。これは、それが有効ではない、という意味ではありません。しかし、全能の天主によって喜ばれていない、という意味です。聖体拝領における跪き。聖書は言います、「イエズスの御名において、すべてが膝をかがめる」と。であるならば、何故私達は、聖体拝領の時に、イエズスを直接受け奉る時に、立っていることができるのでしょうか? 御聖体を手で受けてはなりません! ミサに対する信仰を失ってはなりません! しかしながら、あなたの司祭が聖人であろうと、あるいは罪人であろうと、イエズスはあなたのところに来られます。ミサは有効です。何故? 何故なら、イエズスがそうおっしゃておられるからです! しかし、これら全てに増して更に大事なことがあります。私がこのように言うのは、マリアがそう言っておられるからです。「人々よ、ロザリオを祈りなさい! ロザリオを祈りなさい!」。福いなる御母の御手・・・彼女はその御手によって御父の御手を押し留めるという難しい局面に立っておられます。「私の御子はその御手を差し伸べるのをおやめになりました。苦難は人類の上に来つつあります」。彼女は最早それを止めることができません。
イエズスはまた次のようにも言っておられます。「わが御母は多年にわたり、人類の上に置かれて当然の苦難を押し留めることに専心してこられた。しかし、非常に僅かの者しか彼女に耳を傾けなかったのである」。そしてまた言われます。「汝らの時は尽きたのである。彼女の警告は、わが司祭らによってさえ受け入れられず、気をとめられず、拒絶されて終わった。日付を詮索してはならない。もし汝らが、今それに備えることがないならば、この先も決して備えることがないであろう。苦難はいつ何時でも降され得る。わが声は今、全ての者に、『準備するように』と叫ぶ」
今、祈りだけが、実践される祈りだけが、私達の国アメリカ合衆国の霊魂達を救うための、またあなた方の市民仲間の霊魂を救うための、唯一の手段です。イエズスは言っておられます。「祈りだけが、汝らの国の霊魂達と汝らの市民仲間の霊魂を救うための唯一の手段である。何故なら、汝らの上に破壊が来つつあるからだ。祈れ、わが子らよ、力を求めて祈れ。カトリック教会の中に留まることには、大いなる勇気を要するであろう。しかし、汝らのその勇気が、汝らの十字架となり、真理に関する汝らの知識となるであろう。これを覚えよ。被造物を拝む者となってはならない。造物主を礼拝する者であらねばならない。何故なら、被造物は世であり、世はサタンであるからである。造物主が汝らの神である。そして彼の世界はパラダイスの王国である。選択は汝ら自身にかかっている」。男性、女性、子供達、私達の全てが、そして一人ひとりが、自分で選択をしなければなりません。自分の自由意志を放擲しない限り、誰一人失われることはありません。
イエズスはおっしゃいました。「わが子らよ、あなた方は、わが御母を通してあなた方に与えられた天国からのメッセージを読み、また再読しなければならない。それらをよく読みなさい。そこからあなた方は大いなる知識を得るであろう。そして、苦難の日と時を知ることもできるであろう」。この辺でイエズスのお言葉の引用は終りとします。
人々は今日混乱しています。人々は向うべき何らかの場所を必要としています。私達のリーダー達は道を踏み外しました。そして、そうであっても、私達は彼らに従わなければなりません。しかし、私達のリーダー達の要求する事が神の申された事を否定する場合は、そうではありません。私達は人よりも神を恐れなければなりません。神は私達にもう一人のヴェロニカをお与えになりました。しかし、悪魔が踏み込んで来て、メッセージに非常に大きな混乱を引き起しました。そして、現在ところ、教会は、私が話しているこの御出現を承認しておりません。私があなたにそこに行けと要求しているのではありません。しかしイエズスが、メッセージを手にせよ、と言っておられるのです。私はあなたにメッセージを読むようにとお願いしています。そして、それらに関して祈るようにと。
私の司祭としての混乱、カトリック司祭としての混乱、私の疑いは、私がイエズスとマリアからの指示を読んだ時に、全て取り除かれました。ファチマは福音書の再確認であると言われてきました。私は、ロングアイランドにおけるイエズスとマリアからのメッセージも、福音書の内容と矛盾しない、福音書の内容を否定しているなどということはあり得ない、と申します。メッセージは、私が信じている事、カトリック教会について私が教えられてきた事と完全な調和の内にあります。
私は、かつては常に、あなた方の司祭達と交流していました。そして私達は常に、何事においても意見の一致を見ていました。私は今から25年前に、司祭になろうとして行動を始めました。その理由は、カトリック教会の美しさに感動したからでした。しかし、サタンが教会に入り、教会を甚だしく変えてしまったので、その美しさの多くは失われてしまいました。教会はもはや私達の若者達を聖職に惹き付けていません。そして、もし私が今日〔こんにち〕[若者として]生きている者ならば、私は司祭になったかどうか分かりません。それは同じ教会ではありません。
ベイサイドのメッセージは、教会に対する私の信頼を回復してくれました。そして、私は再び教会に居ることに誇りを感じています・・・何故なら、物事は結局はそんなに変わらなかったからです [3] 。私達は変えようとしますが、しかしキリストは決して変えることがありません。
ベイサイドのメッセージは、カトリック教会に対する私の信頼を回復してくれました。私はメッセージの持つ教義に己が評判を・・・それが何かを意味するならばの話ですが・・・賭けたいと思います。その教義は私が長年にわたって訓練されてきたものと同じなのです。
私は、メッセージの信頼性が、私達の善き、寛大なる、愛すべき教皇様ご自身によって証明される日が来るまでは、それに対する私の個人的な受け入れを公表してゆきたいと思っています [4] 。しかし、この現在・・・今日は1982年の枝の主日ですが・・・メッセージを受け入れるためには、ヴェロニカが群集の外に踏み出しイエズスの聖顔を拭い奉った時に、その勇気に与えられたのと同じほどの例外的な量の恵みが必要です。私は、全ての人がそのような恵みを受けるとは思っていません。しかし、『警告』が来た時にはもっと多くの人がこれらの事柄を信ずるだろうと、私は知っています。福音書のヴェロニカが恵みによってそうなったと同じ程度に、あなた方は信仰において強くならなければなりませんし、信念において深くならなければなりませんし、また勇敢にもならなければなりません。
それ故に、私は言います。そうです、私達は、伝統によって、四人の福音記者によって描かれた御受難を黙想するようにと勧められています。そうです、御受難の箇所を読んで下さい。しかし、それと同時に私は、あなた方に、私の全ての心の愛をもって、メッセージを読んで下さい、とも申し上げます。もし、あるメッセージが、「これはイエズスとマリアからのメッセージである」と “自称している” というのであっても、あなた方には、“彼ら” が言っている事を知る権利はあるのではないでしょうか? “彼ら” が来たるべき事について非常に深刻な事を言っている場合は特にです。
福いなる御母と私達の主が、あなた方が非常に善い聖週間を迎えられるよう、啓発して下さいますように。そして、ただ受動的に傍観していないで下さい。あなた方自身の身をカルワリオの道に置いて下さい。イエズスの正しく隣に置いて下さい。そして言って下さい、「イエズス様、1982年というこの年に、私がお助けできることは何でしょうか?」と。われらの主の御受難を黙想して下さい。福いなる御母は、私達は御受難を黙想することが足りないとおっしゃったのです。
あなた方の教会から、あなた方の牧者から、あなた方の司祭から、離れないで下さい。何故なら、福いなる御母が、これらのメッセージの中で、あなた方に向って、「あなた方の教会に留まって下さい」と言っておられるからです。ギブアップしてはなりません。あなた方は司祭に同意できないかも知れません。あるいは司祭達の中の誰か一人に同意できないかも知れません。しかし聖母は、司祭が奉献をするならば、私達の主は、あなた方に恵みを下すのを差し控えたりはなさいません、とおっしゃったのです。パンとワインはイエズスの御体と御血に変化するするでしょう。私達の主はあなたのもとに来るでしょう。そしてあなたにおいては、御聖体から力を得ることが必要なのです。
そして、あなた方の司教達、枢機卿達、司祭達のために祈って下さい。本当に祈って下さい! そして、私達の光栄ある主が、私達全てと共に居て下さいますように。私達を祝福して下さいますように。そして福いなる御母が、私達がこの人生において神の御旨を果たすことができるように、そして私達が彼の天の王国に値するものとされるように、祝福して下さいますように。
(了)
管理人注
[1] ちょっと目にとまったビデオ。
「妊娠3ヶ月以前の胎児は子どもではありません」と言っている女性がいる。どうしてそう言い切れるんだろう。
生命のスピリットは、受精の瞬間に体の中に吹き込まれます。受精の瞬間に、生命が、成長する生命、生きる命が始まります。それを破壊することは殺人です。
1976年9月7日 聖母
[2] このような指摘──「ロックミュージックはサタニズムと深く関係している」──は、現在、ネット上にかなり見受けられる。それを書いた人達が、ベイサイドから、あるいは鬼塚五十一氏の著作から、そのようなことに気づくに至ったかどうかは分からない。しかし、たとえベイサイドを知らずとも、鬼塚氏の著作に触れておらずとも、現代文明の汚濁を調べている人ならば、比較的容易にそのような真実を突き止めるものではなかろうか。
しかし同時に、このような言葉を見ると直ぐに反射的に笑いたくなる人も、まだまだ多く居るようである。思うに、そのような人は、第一に、“言葉の受け取り方” というものが扁平・平板なのだろう。
「ロックミュージックはサタンに捧げられたもの」と言っても、たとえばミスチルの桜井氏がサタニストであるとか、そんなふうなレベルのことを言っているのではないし(それはそのような人達も分かっているかw)、あるいはそれに類したレベルのことを言っているのでもないのである。ベイサイドの「聖母」や「イエズス」が言っているのは、あるいは鬼塚氏でさえ言っているのは、ロックミュージックの「由来」の部分、発生地点の事であったり、更に「霊的影響力」のことであったりするのだ。
言葉に対しても、事象に対しても、外面的な「見えるところ」ばかりを受け取っていては分からない。
[3] ここもまた、言葉というものを扁平・平板に捉えれば、「直前の言と矛盾しているではないか」と言いたくなるところではある。
[4] カトリックの司祭がこのようなことを言うと、次の瞬間には──「だったらカトリック司祭であることをやめろー! あなたにカトリックを名乗る資格はない! どうしても言いたいんなら、カトリック教会を出てから言えばいい!」との大合唱。
そのように叫ぶ者達にとっては、物事はいつも非常に簡単だ。まるでチェス盤かオセロゲームのボード(扁平・平板・二次元)にでも向っているかのような人達。そのような人達にとっては、このSkurla神父も本田哲郎神父も「同じ」なのである。
しかし、信仰と権威の「関係」の問題は、そう簡単ではない。
ベイサイド支持の信徒団体 St. Michael's World Apostolate(SMWA)の活動を紹介する記事(CLICK)を眺めてくれた人なら、彼らには複数のカトリック司祭が付き添い、彼らを世話してくれていることに気づいたと思う。
私は、SMWAの記事が言っている通りに、彼らを「善き司祭」達だと思う。
彼らは、たとえば、「預言とは条件的なもの」であることを知っており、そして(これは日本の人々に私が言いたいことなのだが)「ヴェロニカ・ルーケンとリトル・ペブルは別である」ことを知っており、そしてベイサイドの啓示を見続けた人達なのである。
しかし、圧倒的多数の人は・・・「見ない」。見もしない。
私は、この預言が日本語にほとんど少しも訳されてないことが、日本のカトリックにとって非常なる損失だと思う。こういう事象は「詳細に」検討されねばならない。しかし、日本語環境においては「詳細な検討」に堪えるだけの情報の分量が決定的にない。而して、多くの人が、ますます、ムガヴェロ司教と同じ「常識的」な判断に留まる。
日本で一人明示的に、気を吐いて(笑)叫ぼう。
ベイサイドは少しも「終わって」などいませんよ。
それは、カトリック界の中で「始まって」さえいないのです。
ここに Skurla 神父様の音声と動画がある。
http://www.rosesfromheaven.com/skurla_movie.html
2010/02/16
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