1. 教会の状態について
管理人注
[1] このエクソシズムが行なわれたのは1975年なので、これはパウロ六世教皇様のことである。
[2] 手による聖体拝領のこと。
悪霊は「手」を意味する言葉に Pfötchen という語を採用している。これを英訳すれば little paws、そして paw は “動物の足” を意味する。
つまり彼は、手による聖体拝領をする人間達のことを、一方で喜び、愉快がりながらも、他方で軽蔑し、馬鹿にし、嘲っているのである。
[4] 悪霊達は、地獄あるいは煉獄の下の方に居る状態を指して「下で屈む(うずくまる)」という言い方をするようだ。(英訳者は「be crushed 押し潰されている」と訳しているけれども。)
[5] 豚のように馬鹿:(独)saublöd,(英)sow-stupid, beastly stupid
[6] Sch...:不満あるいは反抗を意味する音。英語の “shit
(くそっ)” に近いのだろうか。違うか。因みに、英訳版の訳者はこれを訳していない。私も、煩わしいので、以降訳さないことにする。
また、英訳版には時々本文中に「language indecently abusive(やたらに汚い口調で)」という注釈が入っているが、これも訳さないことにする。基本的に。
訳さないが、人はまた、エクソシズムにおける悪霊達の “荒れ様” を一応は知っておくべきではないかと思う。すなわちエクソシズムの記録をこのように文章化する時、人はつい、あたかも悪霊がそれなりに落ち着いて話しているかのような錯覚に陥る。しかし実際は違う。実際は彼らは荒れた感情と言葉を「吐き出して」いる。それを確認したい方はこちら。
音声記録因みに、このビデオ作者はビデオの背景に、疑い深かった使徒聖トマが主の御傷の中に指を差し入れている画像を採用している。私は共感する。多くの人は見ても聞いても信じない。
[7] 聖母に言うことを強要されているのだろう。「毎日……」とはもちろん「毎日祈らなければならない」ということだろう。
[8] 実際は、「
ただの共同体だ」と思っている神父様は少ないでしょう。が、それでも同じことです、ほとんど同じことです。敵の蒔いた “重点ずらし” の罠とその害悪
──それは “実際的” なものです、机上ではなかなか分からぬことです
──によく気づかない限りは。
[9] ヤコブの手紙 1:13
「こころみのときに、『神が私をこころみられる』といってはならない。神は悪に誘われることもできず、また人を誘うこともないからである。」
主の祈りのその部分
(独)und führe uns nicht in Versuchung
(英)and do not lead us into temptation
オランダ・カテキズムが主の祈りのこの部分に関してどのようにいい加減な解説をしているかは、管理人の関心の外です。
[10] 編者の説明によれば、「17」とはファチマの1917年を意味する。
[11] ご立派な司祭さん達:
(独)geehrten Herren Pfarrer
(英)the Rev. Parish Priests
皮肉のこもった言い方なのだろうと思う。
Hans Küng(1928 - )
神学者
2007年、
フリーメーソンから表彰された(
参照)男である。
Herbert Haag(1915 - 2001)
神学者 (この人のことに違いない)
この人は、なんと、「
エウカリストを祝うために叙階された司祭が必要かどうか」をバチカンと議論した(
参照)そうである。
ハーグ(左)とキュンク
[14] 編者は注の中でこれを聖書のエキュメニカルな改訳と結び付けている。「聖書のエキュメニカル版にはリベラルな翻訳者とプロテスタントの翻訳者も関わっていた。カトリックの神学者はその翻訳の中に3000以上の誤訳があると嘆いている。中には10000を数える人もいる。」
Wikipedia を見ると、確かに「共同訳」の動きが一つの形を取ったのはこの頃のようだ。
共同訳聖書
[15] ユダが言っているのは次のような変化のことらしい。
ドイツ語:
(旧)hinabgestiegen in die Hölle
(新)hinabgestiegen in das Reich des Todes
英語:
(旧)descended into hell
(新)descended to the dead
これに関する学術的な考察は、私にはできない。(無知により)
日本語では、旧においては「古聖所に降り」、新においては「陰府(よみ)に下り」。また新においては、これに当たる言葉がないバージョンもある。そしてまた、ニケア・コンスタンチノープル信条にもそれがない。
私は「古聖所」という言葉に慣れているので、英語で「Hell」という言葉が使われていたのを知って、驚いたぐらいである。しかし、ややこしいことに、英語の使徒信経における「Hell」は必ずしも「地獄」ではなく、私達が「古聖所」という言葉で理解している通りの意味らしいのである。
「ここで言う Hell とは、旧約時代の義人の霊魂がイエズス・キリストの来臨と罪のあがないを待ちつつどとまった場所、すなわち Limbo を意味します」(
参照 : 2Q)
しかし要するに、「古聖所」という言葉が現在では「死者(のところに行き)」というような表現と置き換えられているということであろう。
ある人から頂いた精道教育促進協会の昭和49年刊の公教要理には、この「古聖所」と訳されている言葉はもともとはラテン語の Inferi(下界、地下、地下の者、死者)であることと、その言葉は必ずしもリンボだけではなく、文字通りの地獄、そして煉獄をも含む、かなり広い意味合いを持った言葉である、というようなことが書かれている。
『他界からの警告』のユダはこう叫んでいる。
「彼は来たのだ。彼はそこに降りて来た! 彼は彼を待っている(義人の)霊魂達のいるリンボに行っただけではなく、地獄にも来たのだ。彼が我々のためにも死んだということを示すためにだ。それは我々には恐ろしいことだった。彼は確かに死者の国(Kingdom of the Dead)に行った、しかし地獄にも来たのだ。本当に、本当に地獄にも来たのだ」(
参照)
福者アンナ・カタリナ・エンメリックの受けた幻視の中にも、主が古聖所に、煉獄に、そして確かに地獄にも(凱旋として)、降りて行かれたことが書かれている。
結局、よく分からない。よく分からないが、もしユダが真実を伝えている(強いられて)のだとすれば、天国は使徒信経の中で私達に「古聖所」も「煉獄」も「地獄」をも想起させたいようである。