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序 章

(1)

 私が “湯沢台のマリア像” のお膝もとに住むようになってから、早や十二年が過ぎ去った。
 ここに来るまでのいきさつをかえりみれば、多くの遠因がみとめられるが、直接のきっかけとなったのは、旅先での天候異変という事故であった。
 新潟市で催されたカトリック研修会で話すように、東京から招かれた私は、ついでに久しぶりの郷里に足をのばした。十二年前の二月のことである。ちょうど天候が不順であったが、珍しい猛吹雪のために、二日ばかり全交通機関がマヒ状態になってしまった。その間私は教会の食客となって、なす事もなく過ごしていた。そんな姿を見たある婦人から、湯沢台の姉妹たちの所にミサをたてに行ってもらえないか、と懇望された。このところずっと大雪で、山の修道院には絶えてミサがないという。ことわる理由もないので、承諾した。
 その日の午後二時ごろ、近くに行くという牧場のトラックに便乗して出かけた。山に登る急な坂道は、雪も深く、最後のコーナーはブルドーザーの牽引で、ようやく這い上がることができた。
 はじめて見た修院は、まことに貧相そのものというたたずまいであった。その時の訪問記を、帰ってから吉祥寺教会の十二年前の会報にのせているので、そのまま引用してみよう。
 「この冬、わたしはちょっとした機会に、ある貧しい人々の集まりに出会ったのです。この婦人たちは約十年前から、数人集まっては祈りをし、やがて離れた者もあったが、山の中に残って暮らす小さなグループでした。そこには司祭もおらず、いずれも貧しく、すべての財産を捨てて神に身を捧げた人たちでした。 人からは、あんな事をして何になるのか、と絶えず批判され、陰口をたたかれていたようです。そういううわさだけ聞いていれば、わたしも同じような見方をしていたかも知れません。ある人が、ある者によって軽蔑されているとすれば、それだけその人はキリストに現実的に近いものである、という逆説を、今も忘れてはなりません。神のみ前では、唾を吐きかける者と、かけられる人と、どちらが神に愛されるかは、イエズスの例を引くまでもないでしょう。
 ところで、この婦人たちは、わたしに次のような事を話してくれました。“わたしたちが聖母マリアを通じて一生けんめい祈っていましたら、不思議にも、十字架を背負った木彫のマリア様の手に、赤い血と十字架の印が現れ、それが三週間以上もつづき、マリア様の苦しみが次々と示現されました” そして、そのマリア像をわたしに見てほしい、という事でした。
 わたしは聖堂を訪ねて、ミサを捧げ、聖母を通じて祈りました。御手から血を流したという御像を仰いで、聖母が日本の教会のために血を流しておられる苦しみを、ひしひしと感じました。
 わたしは、今どんなに祈らなければならないか、と何かに胸を突き刺されたような思いで、その山を降ったのでした」

 このような印象を受けて帰って来た私は、心のどこかに、マリアのみ心にふれた痛みをやどしていたようである。
 この出来事があって間もなく、私は吉祥寺教会の主任司祭を辞任することになり、身のおきどころを考えるようになった。すぐ思い浮かんだのは、あの血を流されたマリア像であった。あそこへ行って、まずこれから祈ることを教えて頂きたい、と何かに迫られるように、つよい望みが起こったのであった。
 こうして “湯沢台のマリアさま” のもとに導かれ、今や十二年の歳月をへだててふり返ってみると、すべてに神の大いなるはからいをみとめずにいられない。 私がここに住むようになってからも、聖母像にはいろいろな変化が現れ、自然的には解明できない現象が起こった。その中で最も顕著なものは、御像の両眼からの涙の流出であり、これは今や日本全土に知れわたっている。

(2)

 一九七四年三月十日、私はいよいよ湯沢台の人となった。
 最初の仕事は、姉妹笹川を通じて与えられたという聖母のメッセージと、マリア像をめぐるふしぎな出来事を調べ、原稿にまとめることであった。まず姉妹笹川の当時の日記から関連記事を抜き出し、筋道を立て、資料として整理し、その原稿を、聖体奉仕会の姉妹たちに示し、伊藤司教の閲覧にも供した。
 後に、カトリック・グラフの取材に会った際、このような事柄は、さらに広い立場から、多くの人々の客観的な判断を求めるのが妥当であろうと考え、私はあえて資料の公表に踏み切った。
 その結果は、賛否両論が、次々とグラフ誌上を賑わす事になった。はじめの数年間は、いきり立った反対論がめだち、とくに指導層の聖職者の間で、否定的な態度が顕著に示された。(この強硬な否定論が今もって尾を引いている事は否めない)
 その後、私の呈供した原稿の連載記事はそのままカトリック・グラフ側の編集で “極みなく美しき声の告げ” というタイトルのもとに出版された。このような刊行は、当時カトリック界上層部における反対の気運に遠慮していた私の関知するところではなかったのである。
 しかし、嵐を一応くぐりぬけて来たこんにちの時点において、湯沢台の聖母像をめぐるふしぎな出来事に、神の干渉のしるしを今や疑いなく認める者として、私なりの事実の見直しと報告をする責務を感じるようになった。当然、先の “極みなく……” の刊行物と重複する個所も多く、すでにこの書を読まれた方には煩わしい反復となるかも知れぬが、私見をまじえての再考という意味で、御諒承を得たいとおもう。

(3)

 一九八四年五月、待ちに待った “よきたより” がとどいた。“湯沢台の聖母の事実” がいまようやく、当新潟教区の長である伊藤司教によって、「秋田の聖母像に関する司教書簡」の形で、公に、認められたのである。
 この過ぎ去った十年間というものは、それこそ紆余曲折の茨の道であった。
 この司教書簡は、これまでのローマ聖庁との折衝のいきさつを述べた上で、教区長である自身の責任において、この聖母像に関連した出来事は、結局超自然的なもの(つまり神の働きかけに由るもの)と認めている。そして、そこにカトリック信者の信仰と道徳をそこなうものを見いだし得ない、と保証している。

 いまふり返って明らかに見えるのであるが、“秋田の聖母の事件” が、人々の目にゆがんだ形で当初から伝達されたのは、いわゆる “超能力” 説がいち早く優先的に流布されたからであった。この有力な説は、事実の報道よりも先に、日本のカトリック界に根をはりめぐらしていたくらいであった。どんな驚異的な現象も、一修道女の超能力に由る、の一語で、簡単に、あるいは憫笑をもって、片づけられてしまった。引いては、そうした超自然的しるしを以て与えられた聖母からのお言葉も、まじめに取り上げるまでもないもの、とされてしまったわけである。
 この根強い謬説とたたかうには、長い忍耐と神の摂理への信頼が必要であった。十年の歳月を経て、ようやく、超能力説は、教会の責任ある指導者によって、正式に否定されたのである。
 また、ふしぎな現象は悪霊のしわざ、とする説も、「良き木は良き実を結び、悪しき木は悪しき実を結ぶ」と聖句にある通り、その後生じたよい結果によって、反駁された。改心や信仰の恵みを得るとか、不治の病気から癒されるなどの例は、悪魔の仕業によるとは考えられないからである。
 この実証には、韓国のテレジア・千善玉さんのケース(巻末の付録参照)が有力な一例として引かれている。すなわち、脳腫瘍による植物人間の状態から、秋田の聖母の出現によって完全に癒された事実である。さらにもう一つの顕著な事例として、姉妹笹川が不治と思われた全聾から、聖母のお約束通り、一瞬にして癒されたことも挙げられている。(それが御聖体の祝福を受けた瞬間であったことは、聖体の秘跡に現存されるイエズスによる奇跡と考えられる)
 大体以上の理由によって、司教書簡は、“秋田の聖母像に関する一連の不思議な現象” の超自然性を、公に認めたのである。
 これをもって聖母崇敬への第一の門が大きく開かれたことを、心から喜び、また神のおはからいへの感謝と信頼のいよいよ深まるのを覚える次第である。

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