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第一章 苦しみの器

 もともと姉妹笹川は、早産児として生まれ、病弱であったが、あたたかい家庭の愛情にかこまれ、精神的には非常に恵まれて育った。
 第一の大きな試練は、十九歳の時、盲腸の手術の失敗から中枢神経麻痺におかされ、十六年間も寝たきりの闘病生活を余儀なくされたことであった。病院を転々とし、再三の手術後入院した妙高病院で、熱心なカトリック信者のW看護婦と出会った。その献身的看護で病状も快方に向かい、またその導きで入信の恵みも得た。
 神の愛にめざめた彼女は、神と隣人への奉仕の熱望にもえ、案ずる家族を説得し、病弱のハンディに理解を示された長崎の純心聖母会修道院に入会した。
 が、わずか四ヵ月後、病気が再発、ふたたび妙高病院へ。こんどは十日間も意識不明となり、絶望状態に陥った。ちょうど純心から送られたルルドの水を口に含ませたところ、即座に意識がもどり、麻痺した手足も動くようになった。
 リハビリ訓練ののちは、長崎の修院に復帰を志していたが、高田教会の主任司祭から新築の妙高教会の “聖堂守り” の役に懇望され、これも神への奉仕、と引き受けることにした。
 昭和四十四年、在俗で修道生活を送れる聖体奉仕会を知り、創立者伊藤司教のすすめで入会、外部会員として、妙高教会での “聖堂守り” 兼カテキスタの奉仕生活をつづけることになった。

 以上が、聖体奉仕会と結ばれるまでの姉妹笹川の経歴のあらましである。
 試練にみちた前半生に、すでに特筆すべき神のはからいが見られるが、ここでは本稿の主旨に添い、聖体奉仕会会員としての姉妹笹川に焦点をしぼり、以下、この時点から詳述してゆきたいとおもう。

あらたな試練

 一九七三年(昭和四十八年)の一月末ごろから、姉妹笹川の聴力の低下を感じはじめていたが、教会の仕事の忙しさにかまけて過ごしていた。
 ところが三月十六日(金曜)の朝、奉仕会本部からの電話に出たとたん、突然聴力を失ったことに気づいた。ベルが鳴ったのは聞こえ、受話器を取ると同時に、相手の声も周囲の一切の音も消え失せてしまった。あまりの驚きに、呆然と聖堂にすわりこんでいるのを、折りよく激励訪問に来たC神父に見つかり、すぐ新潟労災病院に連れて行かれた。
 耳鼻科の沢田医博は、数年前にも左耳の難聴に悩んでいた姉妹笹川を、他の病院で診察したことがあった。こんどは徹底的に調べた結果、左耳が全聾、右耳も80デシベルという状態で、明らかに進行性難聴であり、回復の見込みはない、と診断された。
 すでに過労のため極度に疲労している本人は、直ちに入院加療と安静を命ぜられた。また、やがての社会復帰にそなえて、読唇術を学ぶこともすすめられ、すぐさま四日間の特訓ののち、退院するまで四十三日間、必死の努力を続けた。その時沢田医博が筆談用のメモ用紙に書いて与えられた宣告と助言を、彼女は次のように日記に書きとめている。
 「責任のある仕事は、今のあなたには到底無理です。あなたの病気は、耳そのものにはなく、極度の疲労からきた聴覚神経麻痺とみられる。だから、責任のある仕事はおやめなさい。音のない世界に生きるのは、大変なことです。幸いあなたは信仰をもっておられるから大丈夫だと思うが、挫折しないでください。……入院中に、身障者の手続きも全部して上げます。社会復帰のため、私たちの出来る限りのことで助けましょう。…」
 彼女はまた、この四十数日間の入院の間、どれほど多くの人々からあたたかい励ましと援助を受けたかを、感謝をこめてしるしている。読唇術の勉強のためには、病院側の親身の配慮のほかに、手早い筆談をやめて気長に口を動かして見せてくれた兄夫婦や友人の協力が大いに役立った。親族知己のほかに、妙高教会関係の人が三百人近くも見舞ってくれたことは、ともすればくずおれそうになる心の貴い支えとなった。
 病床生活の間、彼女の脳裡を占めていたのは、当然、今後の身の振り方についての思案であった。教会のカテキスタの仕事が無理となれば、家族は家に引き取ろうとするであろう。しかし、神に身を捧げた自分としては、あくまで神への奉仕ひとすじに生きてゆきたい。聖体奉仕会の本部で、ひたすら祈りと犠牲をもって神に仕えることは、許されないものであろうか…と。

 ここでちょっと私見を述べてみたい。
 姉妹笹川の耳が、三月十六日の金曜日に突然聞こえなくなった事実に、私は明らかな摂理の手をみとめずにいられない。最初に診察した沢田医師同様、後年秋田大学の耳鼻科専門医も、彼女の耳自体にはなんら故障を発見できず、精密な機械の検査を経ても原因はつきとめられず、完全に聞こえるはずの状態と診断された。ところが実際には、彼女は「深海に引きこまれたように」と自ら表現する通り、全く音のない世界に住んでいた。これもふしぎなことであった。
 それが、後に見られるごとく、一九八二年の五月三十日聖霊降臨の祝日に、聖母が “第一のお告げ” で約束された通り、全聾から突然癒されたのである。この出来事にも、神のはからいの一端がうかがわれる気がする。
 三月十六日といえば、かつてかくれ切支丹が長崎の大浦天主堂で、聖母マリア像を中だちに、三百年来の闇の世界から再発見された記念日の前日にあたる。神は姉妹笹川を選んで、聖母のメッセージを世に送る道具とするために、まず全聾という音の闇の世界に閉じ込められたようにおもわれる。彼女の隠された使命は、この日から始まっているのである。
 あえて聖書を引き合いに出せば、“荒野に叫ぶ声” として召された洗者ヨハネの使命は、父ザカリアの聾唖の試練によって準備されている。全知全能の神は、人間の思い及ばぬところに、その深いはからいと力強いはたらきを示されることを、考えずにいられない。

希望の山

 身障者となれば、家に引き取って一生面倒をみよう、と家族は考えたが、姉妹笹川の決意は固く、両親も兄弟もついに折れざるを得なかった。折りしも、聖体奉仕会の本部から見舞の手紙がとどき、こちらで生活を共にしては、と書き添えられ、司教からも書簡や訪問でそれをすすめられた。彼女の胸は新たな希望にふくれ上がった。
 そこへ意外な反対者が現れた。妙高病院以来の恩人で代母でもあるW看護婦である。もう一度入院して健康回復をはかるべきである、という強硬な反対意見をもって、いわば行手に立ちふさがったのであった。当人の体を案ずればこそ、のこの妨害は、愛される身にとって格別つらいものであったが、同じく深い愛情で見守る兄夫婦が懸命に代母の説得にあたり、ようやく道が開かれることになった。
 一九七三年五月十二日、生家をあとにした姉妹笹川は、兄嫁と妹に付き添われて秋田に着いた。
 当時山の修院で共同生活をしていた六名の会員に、家族のように待ち迎えられ、彼女は安堵と喜びにあふれて神に感謝をささげた。
 実家ではまだあやぶむ気持ちから、いつでも戻れるようにと、荷物を寄越そうとしなかった。自分でも、思い上がった行為ではなかったかと、一抹の不安を指導司祭に打ち明けてみた。五年あまり前からこの山の小さな修道会を指導して来たM師は、彼女をよく理解し、神の召命がここにあることを明言して、安心させてくれた。
 十日以上もたって送られて来た身の回り品を整理したとき、小さな修室に長年住みなれたわが家のような心の安らぎをおぼえた。
 ただ残念だったのは、よき励ましを与えられたM師が、彼女の落ち着くのを見とどけるとすぐ、他に移られたことだった。以後、毎日の御ミサもなくなったことは、とくに心ぼそいことであった。

ふしぎな光

 一九七三年六月十二日、会員たちは新潟方面のカテキスタ集会に出席するため、姉妹笹川ひとりに留守をたのんで出かけた。目上の姉妹Kが、聖櫃の扉を開けて御聖体のイエズス様を礼拝するよう、言い残して行ったので、その命に従い聖堂に入ったとき、異常な現象がおこったのである。
 その時の驚愕を、のちに司教の命で委しく書きはじめた日記の中で、彼女は次のようにふりかえっている。 「長上の言葉通りに、聖櫃の扉を開こうと、そっと近づきましたところ、突然、聖櫃からまばゆいふしぎな光が現れ、それに射すくめられて、おもわずその場にひれ伏しました。
 もちろん、聖櫃を開く勇気はありませんでした。およそ一時間もそうしていたでしょうか。何かの威光に打ちひしがれたように、光が見えなくなっても畏れとおののきから、頭を上げることができませんでした。
 あとで我に返って反省してみて、罪深いわたしを照らすために、御聖体にましますイエズス様が光をもって御自身をお示しくださったものであろうか、それとも自分の精神的錯覚であろうか、と思いまどいました。
 かつて妙高巡回教会にカテキスタとして勤めていた頃、何回となく聖櫃の扉を開けて聖体礼拝をしておりましたが、このような経験は一度もありませんでした。それだけに、もしや頭がおかしくなったのでは、と考え、聖堂にもう一度行って祈ってみましたが、何も起こりませんでした。ともかく生まれて初めての、あまりにもふしぎな体験だったので、誰にも話さず、自分ひとりの胸におさめて、その夜は床につきました。……」

 翌朝、彼女は早く目ざめたのを幸いに、他の姉妹より一時間前に聖堂に行った。昨日の光が一時の錯覚にすぎなかったのか、ためしてみたい気に動かされていた。祈りの姿勢で祭壇の奥の聖櫃に近づくと、たちまち、あの同じまばゆい光に打たれた。おもわず一歩さがり、ひれ伏して礼拝しつつ、「ああ、これは錯覚でも夢でもない。御聖体にましますイエズス様が、御自身をお示しくださったのだ」と確信し、その畏るべき光が消え失せたのちも、ゆかに伏していた。
 やがて入堂して来た姉妹たちに気づき、共に聖務をとなえたが、まだ威光に射すくめられたかたちで、上の空の口祷であった。

 翌六月十四日(木曜)。姉妹たちと聖体礼拝を行っていると、これまでの威光の輝きだけではなく、聖櫃から流れ出るその光を包むかのごとく、そばの聖体ランプの赤い光が炎のように燃え上がるのが見えた。その尖端は金色に輝いている。聖櫃全体がその赤い炎に包まれているようである。……
 またもや、彼女は畏れおののき、その場にひれ伏してしまった。

 三日間つづいたこのような経験にたいし、いや増す驚愕ととまどいを、彼女は告白している。「わたしの心はすっかり驚きに捕えられてしまい、聖堂ではひたすら聖主を礼拝し賛美する以外に何も考えられませんでした。いったん聖堂から出ると、我にかえり、日常の言葉では言い表し得ないあの内的甘美から解き放たれるのでしたが、こんどは、自分はどうかしているのではないか、と不安な疑惑にさいなまれるのでした。
 そのうちに、あれが全くの現実であり自分の異常な精神の作用によるものでないとすれば、他の姉妹も同じく目にしているはずである、と思いつき、むしょうに知りたくなって、朝食の時、ふしぎな光のことをちょっと話題にしてみました。ところが皆さんの反応は、何も見ないという様子なので、すぐに口をつぐみ、それ以上語らずにおきました。それに長上のIさんから『それはあなただけのことでしょうから、話さずにしまっておきなさい』と忠告され、ハッとしてうなずいたのでした」
 午前八時半から九時半までの出来事であったという、この三回目の現象は、最も強烈な印象を残し、胸の奥に深く刻みつけられたごとく、どこに居ても忘れえないものとなった。ことに聖堂へはおのずと足が向き、聖体にましますイエズスへの賛美が心にみちあふれるのをおぼえた。ふしぎな現象を思い返すたび、言い知れぬ内的甘美の念と聖主への愛に、心は焼きつくされるほどの喜びにみたされた、と彼女は控え目ながら内心の状態を打ち明け “これを書く今もなおその喜びの余韻が残っていて、聖主へのあこがれへと心を燃え立たせるのをおぼえます” と書いている。

検 討

 姉妹笹川がこのように、反省的になりつつも、あらがいがたい霊的なぐさめに満たされているところに、錯覚ではない超自然的現象のしるしが見られるとおもう。 このような天来の光を見るのは、超自然界からの一つの招きとも考えられるが、それと明らかに言えるのは、後に来る一連の出来事によって証明されるからである。聖パウロの改心と召命も、はげしい天来の光に遭うことから始まった。ダマスコへの道で、電光のごとき光に打たれ、“なぜわたしを迫害するのか” という声を聞いた時、パウロは地に投げ倒されたが、同行の者は立っていた。それは、パウロだけが天来の光の影響を受けるはずだったからである。
 姉妹笹川と同じ家に住み、同じ聖務にはげんでいる他の姉妹たちは、全然このような光の作用にあずからなかった。つまり、これは後の特別な使命への第一歩ともいえる招きであり、姉妹笹川だけが呼びかけられていたからである。
 また、ファチマにおける聖母の出現の場合も、ルチアたち三人の牧童は、最初に稲妻のごとき天来の光に驚かされている。これが聖母出現の前じるしであったことを思い合わせれば、姉妹笹川が、やがて湯沢台の聖母からのメッセージを受けるべく、天の光により心の準備をさせられたことも、うなずけるのである。
 また、聖体の秘跡を通じてこのふしぎな光が現されたことは、“われは世の光なり” と仰せられるイエズスの本来のお姿を示すものであろう。
 その上、姉妹笹川の九年間にわたる全聾の難病も、やがて聖体の秘跡に在すイエズスの祝福によって癒されることを思えば、この光との出会いは、さらに意味を深めるのである。 これが超自然の干渉でなくて何であろうか。

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