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第十五章 ふたたび涙が

 先年マリア庭園を造るにあたって、聖ヨゼフの御保護を祈ることにした次第は、前述した。さらに、守護の天使が姉妹笹川に「ここにヨゼフ様に対する信心のしるしがないのは、さびしいことです。今すぐでなくとも、出来る日までに、信心のしるしを表すように、あなたの長上に申し上げなさい」と告げられた、と聞いて、私はさっそく聖ヨゼフの小さな御像を求め、祭壇をはさんでマリア像と向き合う位置に据えておいた。
 その後、日ごろ親しく来訪される信心家のひとりH氏から、木彫の聖ヨゼフ像を献納したいとの申し出があり、聖母像の同じ製作者若狭三郎氏に依頼することになった。半年後の六月半ば頃、その作品が届けられてきた。聖母像と同じ大きさで対になるように完成された、気品のある御像である。私たちは大いによろこび、聖母の被昇天の大祝日こそそれを祝別するのにふさわしいと考え、八月十五日まで、玄関の間に移されていた聖母像のそばに置くことにした。
 七月に入り、夏休みを待って和歌山から三十二名の子どもたちが、私塾長Y夫妻に引率されて、大挙おとずれてきた。小学上級と中学生の、未信者の少年少女であったから、私はせっかくの旅のみやげに何か心に残る行事を、と考えてみた。
 マリア庭園も完成して二ヵ年にもなることだし、聖ヨゼフの御援助によって出来上がったことを思えば、感謝のしるしとして、新来のヨゼフ像をかついで “庭園をお見せ” してはどうか、という案がうかんできた。Y夫妻と姉妹たちにはかったところ、大賛成を得た。
 一見子どもじみた行動ではあるが、信仰の行為にはとかく子どもらしい単純さがふくまれているものであって、現に子どもたちが参加するにはもってこいの行事と思われた。
 そこで、かれらの到着した七月二十六日の夕、祝別前の聖ヨゼフ像を担ぎ台にのせて少年たちに荷わせ、庭園に繰り出した。大人たちも、手燭式ちょうちんをかざして、こどもとともに行列をつくり、かつぎ回られる御像について、聖歌をうたいロザリオを唱えつつ庭園をめぐり、にぎやかに祈りの時を過ごしたのであった。
 一時間あまりの式の後、また御像をかついで、マリア様の部屋にはこんで来た。元の位置におさめようと係の姉妹が電灯をつけたとたん、“聖母像が涙を流しておられる” と私に告げた。はじめは冗談かとおもったが、再度の呼び声に戸口から引き返し、近寄って見ると、たしかに今流れたばかりらしい涙のあとが、頬から胸にかけて濡れた筋を引いており、あごに大きなひと粒がたまっていた。それはまぎれもなく、二年前まで十回にわたって眺めてきた、“お涙の現象” であった。
 知らせを聞いてたちまち人々は集まり、大人・子供合わせて五十名近くが、小部屋にあふれた。中に、ヨゼフ像の献納者H氏夫妻の姿もあった。御像を先頭に灯の行列をする、と聞いて参加されたのであった。
 二連のロザリオを唱え終わるころ、お涙は自然にかわいて消えた。
  “みちのくの巡礼旅” を飾る灯の祭典に勇みたち、ヨゼフ像をかついで無心に歌い祈った子供たちは、思いがけぬ “お涙” に感嘆の目をみはり、自分たちの行動を聖母がよろこんでくださったしるし、と受けとめて、元気いっぱい帰途についた。
 H氏のほうも、意想外の “お涙” に接して、自分の捧げたヨゼフ像を聖母がよろこばれたしるし、と思われたのではなかろうか。と推測するものの、その感想を聞くよしもない。というのは、意外なことに、H氏はその翌日、急逝されたからである。
 約束があったゴルフに出かけ、急に首筋に痛みを訴え、日射病の注射など受けたが、間もなく心臓の発作で他界されたということであった。
 前晩、マリア庭園から帰る車の中で、H氏は夫人に “私たちはこれから毎日山のマリア様のところへ来てお祈りしよう” と提案されたそうである。晩年に洗礼を受けたH氏は、発明の仕事に情熱をもやし、信仰には必ずしも熱心というほどでもなかった。その人がこのような決意をされるとは、聖母像のお涙によほど感じるところがあったに相違ない。このようによい心がけの時に召されたことに、未亡人はせめてもの慰めと励ましを得られたであろう。

 前に述べたごとく、第一調査委員会のE師は、調査開始以後聖母像の涙の止まったことを当然の成行きとし、もはや新たに涙が流れることなどはない、と宣言していた。私が意見をただしに訪ねたときにも、調査が始まってから姉妹笹川の超能力的仕掛けは止まった、と断言した。調査の始まる直前に十回目の涙の現象が起こったが、これは姉妹笹川が超能力を用いて調査委員会に働きかけようとした意図的なものであった、と彼の神学的解釈の結論に説いてあった。
 ところで、二年二ヵ月の間いわば沈黙のうちに、移された小部屋のすみに粛然と立つのみであった聖母像が、まるで調査会の否定的結論を待ち設けたかのように、ふたたび涙を流してみせられたのである。それは一九七八年七月二十六日の夜のことで、以来、一九八一年九月十五日、聖母のお悲しみの記念日まで、引きつづきくり返されることとなった。さかのぼって、最初の一九七五年一月四日から数えれば、実に百一回も涙を流されることになる。
 後日、伊藤司教がE神父を訪れて、聖母像からなおも引きつづき落涙が見られ、しかも姉妹笹川が修院から遠く離れている留守中にもその現象の起こる事実を告げ、その理由の説明をもとめたところ、“聖母像をかこむ姉妹たちの中にも超能力者がいて、そのようなことになるのだ” という、それこそ摩訶不思議な解答を与えられたそうである。超能力者といわれるような人物は、そんなに都合よく、そこにもここにも存在するものであろうか。

 H氏もあの無邪気な子供たちも、ただ聖母に引き寄せられるごとく集まって来て、思いもよらぬ経験をし、それぞれ神のみ心にかなう働きをしたのだという喜ばしい実感をいだいて帰って行ったが、私のほうも、再度の “お涙” に接して、この現象はまだ終わったのではない、とあらたな感慨に浸ったのであった。人間の浅知恵がいくら頑強に否定しても、神は自在に働きをつづけられることを、ひしひしと感じた。二年二ヵ月の空白を埋めるかのごとく、聖母像はふたたび、好む時好むままに、落涙を示しはじめられたのである。
  “超能力による” 涙よりも、“そんな不思議はもう起こらぬ” というE神父の宣言のほうが、空しく消えてしまった。
 素直な信仰の価値というものが、あらためて思われる。「からし種ほどの信仰があるなら、山に向かって海に移れと言えば、山は海に移るであろう」とのキリストのお言葉を、小賢しい割引なしに現代文明の世界に取り戻す必要がある、とつくづく感じたものであった。

 また私は、聖母像の褐色の頬が生けるもののごとくに涙に濡れるのを目にするたび、二千年の昔、十字架のもとに立って、死なんとするわが子を仰ぎつづける聖母のお姿を、想起せずにいられなかった。
 御受難を描いたどんな名画に接するよりも、木像にせよその両眼から実際に人間の涙があふれ出るのを見るとき、それが人の胸を打つ力も、まさしく真に迫るのである。
 過去にどれほど強烈な、忘れてはならぬ事実があっても、年月がたつにつれ、その記憶はうすれ、感激も色あせてくるものであろう。
 聖母像のいまの落涙は、二千年前のいたいたしいお涙と、十字架上の救い主のお姿を、現実に引き寄せて思い起こさせる、ひとつのお恵みとも私には思われるのである。

記憶に残る日々

 聖母像の落涙現象は百一回に及んだが、涙の流れる様相は常に異なっていた。量にしても、ある時はとめどなく流れくだり、ある時は二、三滴したたり落ちる、という具合であった。状況としては、私たち修院在住の者だけの面前で起こることは少なく、外部からの訪問者のある時が多かった。つまり、内輪の者ばかりでなく、客観的に観察をなしうる証人の存在する時に、おもに起こったのである。その時間も限定されず、昼夜を問わず、だれの予測も及ばぬかたちで始まるのであった。必ず発見者が出るわけであるが、それは大人でも子供でも、訪問者でも姉妹でも、だれでもよかったようである。落涙が起こらなかった例外的な時間があったとすれば、それはミサ聖祭の間である。御ミサは姉妹たちの生活のなかで、日々欠くことのできぬ、最も神聖な典礼行為である。そのミサの開始前、あるいは終了後には、二、三度 “お涙の現象” があったように記憶する。

  “百一回のお涙” については、いちいち記録がとってあるので、巻末に付しておく。ここでは、その中から特に注目すべき二、三の場合を、以下に拾っておきたい。

 一九七九年三月二十五日。

 朝食後、聖体礼拝の直前に、聖母像から涙が流れた。この時は、御像の全顔面を滂沱たる涙が蔽った。百一回中もっとも多量に流されたものである。涙が止まってからとられたスナップ写真に、そのあとは歴然とみられる。“神のお告げ” の祝日にちなんで流されたもの、と受けとったことが記憶に残っている。

 その後もお涙はいよいよ繁くなり、五月、六月などは連日起こることもあり、七月末日には計九十五回の落涙現象を数えるに至った。
 このころになると、修院内では誰もが一種の馴れを感じはじめていた。いつでも見られる現象であるかのように、安易な気持ちでロザリオを唱えに集まる風が出てきた。いそがしい仕事の最中の姉妹の中には、またか、と思う者もなきにしもあらず、という案配で、厳粛に受け止めるべきものの重みを、狎れが軽んじさせるという、人間一般の悪癖が見えてきていた。
 ところが、七月三十一日以後急にお涙はピタリと止まってしまった。
 爽やかな季節をむかえ、奇跡の聖母を慕って巡礼者たちが日ましに訪れて来ても、うわさのお涙に接することはなかった。秋から冬へと季節はすみやかに移る。御像からは一滴のお涙も流れぬままである。どういうわけからか。また、これは中断なのか、終結なのか……私にはなんとも判断のつかぬことであった。

 この年もそろそろ終わりに近づいたころであった。
 突然思いもよらぬ所から、私に電話がかかってきた。あるテレビ局のTというディレクターからであった。その話によると、ひとりの匿名の人物から妙な警告の電話を受け “秋田の聖母の涙というのは大ウソであるから、絶対に取り上げないように” と言われた。全然初耳だったT氏は、二、三やりとりするうち、かえってカチンとくるものを感じた。そこでカトリック・グラフの山内記者に電話を入れて、事の詳細をたずねた。そして、むしろ実地に真相をただしてみたい思いにかられた、ということで、私に面談を申し込んできたのであった。
 私としては、マスコミとかかわるのは煩わしい思いであったが、ウソかマコトかを見きわめるためとあれば、承諾せざるをえなかった。

 グラフの山内氏を先頭に、テレビ局のスタッフ四名が訪れて来たのは、十二月六日であった。はじめの予定が都合で二日遅れて、ちょうど十二月八日聖母の無原罪のおんやどりの祝日を前に到着したことにも、のちに摂理のはからいを感じさせられたのであるが……。
 六日は木曜にあたっており、修院では毎月初金曜の前晩を、とくに償いのため、顕示された御聖体に向かい姉妹が交替で徹夜礼拝を行うしきたりになっている。
 機械一式をかかえて乗り込んで来たスタッフは、さっそく聖母像に向けてカメラを据え、夜通し六秒間隔の瞬間写真をとるべくセットしたのである。
 聖堂は隣りの室とはいうものの、カメラの自動シャッターの音は秒きざみでひびいてくる。当然、祈る人の神経にさわるので、私は徹夜礼拝をひと晩のばすことにした。それに、ちょうど土曜日の “無原罪のおんやどり” の祭日の前晩に、夜を徹して聖体礼拝を行うのも意義があろう、と思ったからであった。
 カメラは聖母像をいわば独占したかたちで、翌金曜朝の御ミサの開始まで刻々と、文字通り機械的に、写真をとりつづけた。が、なんらの異変もとらえられなかったようである。
 七日の日中は、姉妹たちも私もインタビューにかり出され、あとは周囲の景色を紹介するとかで、スタッフ全員がいそがしく動きまわっていた。夜になり、働き疲れた人々が安眠に入ったのち、われわれのほうは、ふり替えた徹夜礼拝を開始した。
 深夜十二時過ぎ、すなわち十二月八日に入って十分ほど経ったころ、私は部屋の電話のベルで目をさました。今、聖母像から涙が流れているのを交替の姉妹が発見した、との知らせである。二階に山内氏とテレビ局の人びとが寝ているので、私はまず山内氏に声をかけ、応答を聞いてから、修院へいそいだ。玄関を上がり、聖母像に近づくと、もううしろからスタッフの面々がカメラを手にかけつけていて、あっという間にシャッターが切られた。さすがに俊敏なつわものたちである。もっとも中には “最初手がふるえて、うまくとれなかった” とあとから告白した人もあった。
 私たちは例によって、集まってきた訪問客とともにロザリオ一環と唱え、涙が自然に消えてゆくのを見守ったのであった。
 朝になると、テレビ局員たちは夜の間カメラをセットしておかなかったことをくやみ、滞在を一日のばしてこの夜もう一度ためしたい、と願ってきた。もっともな希望で、私も同意した。
 そこで八日の夜八時ごろからまた聖母像に向けて据えられたカメラは、秒きざみのシャッターを切りはじめたのである。
 その夜十一時過ぎ、姉妹のひとりが遅い聖体訪問をした帰りがけに聖母像の前にひざまずき、お涙を発見した。
 この時の模様はカメラがとらえていて、やがてこのテレビ局から “ウソかマコトか” の疑問への答えとして、全国的に放映されることになった。
 そして、このビデオは今なお巡礼客に “お涙の現象” を再現し、奇跡を身近に感じとる一助となって喜ばれている。ここに神のはからいをみるとともに、無原罪の聖母の祝日を期してこの恵みがまた与えられたことにも、とくに感銘をおぼえるのである。

決定的鑑定

 一九八一年八月二十二日。
 この日は “天の元后聖マリア” の記念日である。以前の教会暦では “汚れなき聖マリアのみ心” の祝日であった。
 この日の “お涙の現象” は、状況として特筆すべきことはなかったが、後日の記録のためにマークしておきたいと思う。
 すでに私は一九七五年一月四日に流された最初のお涙を提出して鑑定を依頼し、ヒトの体液との判定を受けていた。しかし不用意に採取されたその検体に余分な他の “人の体液” の付着物があったため、落涙現象の検討がすすむにつれて、問題が起こってきた。それがある人びとの不信を買い反対を煽る動機ともなったのであった。
 そこで私は、絶対に不純物のない検体を入手したい、とその機会を心待ちにしていたのであった。
 この日私は、細心の注意をはらい、用意した真新しい脱脂綿をピンセットで大豆大にまるめ、聖母像のアゴの下にたまっていた涙のしずくを充分に泌みこませ、新しいビニール袋に納めた。そしてただちに同日午後、秋田大学に持参した。医学部生化学第一教室の奥原英二教授を通じて、岐阜大学医学部法医学教室の勾坂馨教授に鑑定を願うためであった。
 繁忙の勾坂教授をわずらわした鑑定の結果は、三ヵ月を経て奥原教授の手から、克明な文書として私のもとに届けられた。
 鑑定書は、(1)鑑定依頼者(2)依頼日(3)鑑定物件(4)検査記録(5)血ウサギ抗ヒト血清による検査(6)血液型検査(7)鑑定、の項目から成っている。
 ここでは “鑑定” の結果だけを写せば、次のようである。
  鑑定
 一、検体にはヒト体液が付着しているものと考えられ、その血液型はO型と判定された。
 昭和五十六年十一月三十日
  岐阜大学医学部法医学教室
       鑑定人 勾坂馨

 この鑑定書は、聖母像の涙の唯一の真正な科学的物証として、聖体奉仕会に保管されている。これがお涙の “事件” の解明に決定的な役割をはたしたのである。
 すでにたびたび述べてきたように、聖母像に見られる現象は、公式の検討者たちによって、すべて姉妹笹川の超能力のはたらきによるものとされていた。本人が身に覚えがないと否定しても、無意識のうちに行っている、ときめつけられれば、弁明のしようがなかった。
 とくに決め手とされたのは、血液型であった。姉妹笹川の血液型はB型である。ところで、聖母像の右手の傷口の血は、最初の鑑定ではB型であった。両眼から流れた涙の鑑定では、AB型となっていた。しかし、検体にはそれぞれA型B型の付着物があることも、指摘されていた。反対者の筆頭たるE師は、このB型のみを取り上げ、涙もB型と決め、姉妹笹川がみずからの血と涙を “転写” したもの、と断定をくだしたのであった。
 それが、こんど不純物の付着のない完全な検体をもっての再検査により、血液型はO型と鑑定された。B型による超能力説は、成り立たなくなり、根本から打破されたのである。
 いま、最初の鑑定書と再度の決定版をつき合わせてみると、聖母像の血と涙に三つの異なった血液型のあることがわかる。どんな超能力的人間が、自分の血液型のほかに、他の二つの異なった血液型を創り出すことができようか。創造とは神のみが行われる業ではないか。
 ここにも、神の尊いはからいがみとめられる。神はまずB型の血液を創り、AB型の汗と涙の体液をつくり、最後にO型の体液までつくって、人間の考え出した浅薄な “超能力説” に挑戦されたのである。
 再度の正確を期した鑑定という歴然たる化学的物証がなければ、今でも “超能力説” がまかり通り、すべてを誤解にみちびき、神の超自然のおんはたらきに素直に頭を垂れようとする人々さえもまどわせつづけたことであろう、と考えれば、そら恐ろしくなるのである。

一九八一年九月十二日

 この日は、秋田の聖母像の不思議な出来事に関し伊藤司教の委嘱による第二調査委員会の例会最終日であった。
 伊藤司教はその前の五月の例会最後の日には、自分の意見としてほぼ “認める” という草案を読み上げて、出席者の同意を求めた。それに対してあえて反対する者はなかったが、次の例会まで懸案として決定は保留されたのであった。
 この九月の例会においては、その間にローマ聖庁からの書簡が、教皇大使を通じて伊藤司教に送られて来ており、それは第一次調査会の報告にもとづいての忠告であるだけに、伊藤司教としてはあえて超自然性を認めるまでに踏み切ることに困難を感じられたようである。
 聞くところによれば、例会の終結の賛否投票では、調査委員の七人のメンバーのうち、賛成は四、反対は三であったという。それでも伊藤司教は考慮して、ローマの慎重論に従うことにされた。
 そしてこの日の朝、湯沢台において、聖母像から百回目の涙が流れたのである。姉妹たちはさっそく、調査委員会の新潟でのその日の会合が始まる前に、電話でその旨を報告した。しかし、委員会のあるメンバーは、“われわれは聖母像の涙を重大なしるしや奇跡として認めることはできない。もっと涙以上の奇跡がなければ、超自然性を認めるわけにはゆかない” と言明したそうである。
 聖母像は百回涙を流しても、軽視する者はかえりみる心をもたない。信仰が乏しいほど、もっと大きな奇跡、万人が目をみはるようなしるし、を求める。だが、人は信仰なくして超自然の奇跡をみとめることはできない。イエズスの行われた数多くの奇跡が、不信仰なユダヤ人に全然受け入れられなかったことを思えば、聖母像の百回の涙も、まだ取るに足らず、とされても驚くにあたらぬかもしれない。
 最初の頃にも、反対者の筆頭のE師は、「聖母像の涙は一、二滴では物足りない。人間が超能力によって流すことができるから。人間の力で流すことができないほどの量であれば、信じてもよい」と説いたことがある。たとえそのように多量に流されても(時には衣のひだに溜まり台の下をぬらすほどであったが)信じない者は、信じないのであろう。人々が事の超自然性を信じるか否かは、奇跡の大小とか特異性によるものではなく、その人が神に傾倒する精神のはたらきに左右されるのである。つまりは、信仰の如何の問題になるようである。
 後日のことであるが、守護の天使は姉妹笹川に「涙以上の奇跡を人々は求めているけれども、それ以上の奇跡はもうないのです」と告げられた。
 人間的な考えの尺度で推し量れば、“山を動かす” ほどの奇跡と “桑の木を移す” 奇跡を比較するなら、前者のほうが偉大なものとされるであろう。後者は、時間をかければ植木職人にもできる理屈であるから。しかし、人の推量も働きも超越した神の能力を思いみる場合、いずれが大か小かなどの計算など、問題にならない。超絶的能力の前にひとしく頭を垂れて、奇跡を受け入れるのが、人間らしい態度ではなかろうか。

同年九月十五日

 この日も、午後二時ごろ、聖母像から涙が流れた。秋田教会の信者たちのグループのほかに各地から来訪者があり、本部姉妹を合わせて計六十五名が目撃した。涙の量はとくに多くも少なくもないので、現象としてこれまで以上に記憶に残るものではなかった。ちょうどこの日は、聖母の悲しみの記念日であったから、一同はその符合に感銘を受けていたようであった。私自身も、これが最後の “お涙” であるとは、つゆ知らずにいたのである。最初から数えて、百一回目であった。格別切りがよいと思える数字でもなかった。
 ところが、この日から数えて十三日目の九月二十八日、聖体礼拝の時、姉妹笹川は突然天使の訪れを、霊的に感じた。その姿は現れなかったが、目の前に聖書が開かれ、ある個所を読むように指示を受けた。いかにも神秘的な光を帯びた、大きな美しい聖書であった。そこに “3章15節” という数字をみとめた時、天使のお声があり、聖母像の涙はこの個所に関係がある、と前置きして、次のように説明された。
 「お涙の流されたこの101回という数字には、意味があります。一人の女によって罪がこの世に来たように、一人の女によって救いの恵みがこの世に来たことを、かたどるものです。数字の1と1の間には0があり、その0は、永遠から永遠にわたって存在する神の存在を意味しています。はじめの1はエワを表し、終わりの1は聖母を表すものです」  そして、創世記の三章十五節を読むように、再度の指示があって、天使は去られた。同時に聖書のイメージも消え失せていた。
 聖体礼拝が終わると、姉妹笹川は私の部屋にとんで来て、天使からの指図を告げ、創世記三章十五節を読んでほしい、と言った。自分自身ですぐ聖書を開いてみるよりも、まず私にたしかめてもらいに来たのであった。
 わたしがとりあえずバルバロ師の口語訳を開いてみると、次の句が見あたった。
 「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意をおく。
 女のすえは、おまえの頭を踏みくだき、おまえのすえは、女のすえのかかとをねらうであろう」
 そこで姉妹笹川は天使から聞いた百一回の涙の説明を、そのまま私にくり返したのである。

 私はその時はさほど驚くこともなかった。が、日がたつにつれ、涙が以後流れなくなった現実と、その意義が聖書をもって説明されたという事実に、次第に深い感銘をおぼえるようになった。
 創世記の三章十五節は、偉大なる神、絶対的存在者が、サタンに対して予言的宣告をなし、聖母マリアとの対決を言い表したものである。“女のすえ” とは、聖母マリアを通じて世に生まれ出るイエズスとキリスト信者たちを意味することは明白である。キリストの神秘体は、キリストを頭として世に生まれ継いでくる信者全体を指すものである。聖母は、キリストの神秘体である教会と一致して、サタンと悪の子孫に対して世の終わりまで戦う使命を、御父なる神から受けているのである。
 創世記のこの個所は、プロトエヴァンジェリウム(原福音)と呼ばれ、救世主についての神の最初のお約束とされる。また、サタンの対抗者たるべく、いささかの罪との関わりもない、聖母マリアの無原罪をも啓示する最初の聖句でもある。
 ルルドの聖母出現は、教皇ピオ九世による “聖マリアの無原罪のおん孕り” の宣言を記念するものといわれる。童貞マリアは原罪の汚れなく、聖霊によって救い主の母となった、との信仰箇條が一八五四年十二月八日に公に認められたその四年後、ルルドにおいて聖母は十六回目の御出現のとき「わたしは汚れなき孕りです」と、みずから確認するごとく、ベルナデッタに告げられたのであった。
 ファチマの御出現は、聖母の被昇天を記念するものといわれる。教皇ピオ十二世は一九五〇年の聖年の十一月一日に “聖母被昇天の教義” を宣告された。ピオ十二世はファチマの “太陽の奇跡” を個人的にバチカンの庭で見る恩恵を受けたことを、側近に洩らされたことから、その聖母崇敬と “被昇天” 宣言もそのことに関連があるように取り沙汰されている。
 秋田の聖母像の涙の奇跡は、天使の口から、聖書の権威に拠って説明された。創世記の聖句は、世の終わりに至るまでの聖母とサタンの戦いを啓示する。これは聖母ひとりの戦いではなく、全キリスト信者とともに、キリストの神秘体と一致しての対決である。とすれば、“涙の聖母” が “メッセージ” の中で、罪の償いと改心を呼びかけられるのも当然なこととうなずけるのである。
 ルルドでは、聖母の無原罪のお孕りが記念された。
 ファチマでは聖母の被昇天が記念された。
 前者は聖母の御生涯のはじまり、後者はその終わりを輝かしく示すものである。
 秋田において聖母は、両者の中間をみたす御生涯を通じての使命に、わらわれの注意を惹き、心からの協力をうながされるごとくである。

予告通りの耳の全癒

 一九八二年三月二十五日、神のお告げの祝い日の聖体礼拝のあと、姉妹笹川は私に、守護の天使からお告げがあった、と知らせに来た。それはおよそ次のような言葉であった。
 「耳の不自由は苦しいでしょう。あなたに約束がありました癒しの時が近づきました。童貞にして汚れなきおんやどりの聖なるお方のお取り次ぎによって、前に癒された時とまったく同じように、御聖体のうちにまことにましますお方のみ前で、耳が完全に癒され、いと高きおん者のみ業が成就されます。これからもいろいろと困難や苦しみ、外部からの妨げがあるでしょう。恐れることはありません。忍耐してそれらを捧げるならば、必ず守られます。よく捧げて祈ってください。このことを、あなたを導いてくださるお方に告げて、お導きと祈りをいただきなさい」
 私は、以前彼女の耳が一時的に癒されることを告げた天使の予告の中に、“捧げものとして望んでおられるから、暫くの間だけで…” とあったことから、いつかは完全な治癒の日が来ることを予期してはいた。しかし、いよいよその日が近い、と知らされると、あらためて心のたかぶるのをおぼえた。
 それがいつであるかは、何の手がかりも与えられていないから、予測のしようもない。ただ私は彼女に、このことはまだ誰にも語らず、ふだんと同じようにふるまうようにすすめた。
 それから一ヵ月余を経て、聖母の月といわれる五月に入った。
 五月一日の朝、聖体礼拝中に姉妹笹川はふたたび天使のお告げを受けた。
 「あなたの耳は、汚れなき聖母のみ心に捧げられたこの月のうちに、完全に癒されるでしょう。前と同じように、御聖体のうちにまことにましますお方によって癒されます。このしるしによって信ずる者は、多くの恵みにあずかるでしょう。反対する者もあるでしょうが、少しも恐れることはありません」
 聖母マリアに捧げられたこの月のうち、ということなら、五月中の日曜日のどれかであろう、と私は考えた。前と同じように御聖体にまします主イエズスの祝福によって癒されるはずなら、日曜に行われる聖体降福式のときにちがいない。この五月には日曜は五回ある。一日は初土曜にあたっていたから、翌二日はもう第一日曜になる。が、この日では少しあわただし過ぎる感がある。かといって、どの日曜ときめる拠りどころもないのであった。今にして思えば、五月最後の日曜は聖霊降臨の祭日であり、この日の聖体降福式の時間は、すでに翌日の “聖母の訪問” の祝日の前晩にも当たっていたので、お恵みを受けるにはもっともふさわしい日であった。
 ともかく一つ一つの日曜は、漠然たる期待のうちに過ぎ去り、ついに聖母月最後の主日、聖霊降臨の祭日をむかえ、やがて聖体降福式の時間となった。
 この日はめずらしく訪問客が少なく、ただかねて “お涙” の鑑定の際お世話になった奥原英二教授夫妻だけが、折りよく(あとからみればまさに最適の立会人という感じで)礼拝に参加された。
 一時間あまりの礼拝の式がすすみ、私が聖体顕示台をかかげて一同に祝福を与え、鈴が打ち振られた瞬間、前回同様、その音を合図に姉妹笹川の耳は開けたのである。私が例のごとく聖体賛美の祈りを唱え終えたとき、彼女は背後から呼びかけ、「いまお恵みをいただきました。感謝のためにマグニフィカトをおねがいいたします」と言った。(そうか! )感動をうなずきだけに抑えた私は、御聖体を聖櫃におさめてから一同に向かい、天使の二度の予告と、いま姉妹笹川の耳がその通りに癒されたことを語った。次いで指示した賛歌は、言いつくせぬ感謝と涙にあふれる感激のうちに、高らかにうたわれたのであった。
 翌日姉妹笹川は、かねてお世話になっている日赤病院の耳鼻科に診断を受けに行った。細部にわたっての検査の結果、耳は完全に治っていることが証明された。医師は非常に感銘を受けたらしく、看護婦全員と起立して、「おめでとうございます」と深く頭をさげて祝辞を述べた。
 後日、伊藤司教はみずから病院へ出向き、かの耳鼻科部長に “これは奇跡的治癒である” との証明を一筆いただきたいと頼んだが、これはことわられた。前の症状を知る者としては奇跡的治癒としか考えられないが、現在の医学界では診断書に “奇跡” の文字を使用するわけにはいかないから、ということであった。
 公式に “奇跡” の呼称のあるなしにかかわらず、姉妹笹川の全聾の治癒が、神の大いなるはからいによるものであることは、疑う余地がない。一九七三年三月十六日に突然この世の一切の音から遮断されたのは、やがて聖母像を通じてのメッセージを聞くための、大いなる恵みに備える清めであった、とも考えられるのである。
 ルカ聖福音書の冒頭に、老いた司祭ザカリアが一子の誕生の予告を天使から受ける記述がある。その不可能とみえることが成就する日まで、しるしとしてザカリアは天使の言葉通り聾唖者となった。
 姉妹笹川も、天使によって導かれ、耳の試練によく堪え、思いもよらぬ恵みとして聖母からのメッセージを受けた。耳の不自由は超自然の声を聞くためになんの妨げもなさぬことが、あきらかに示されたことにもなる。
 老ザカリアの聾唖は、洗者ヨハネの誕生を待って癒され、彼は声高く神を賛美した。これまでの屈辱的試練は、予言の成就とともに大いなる栄誉と歓喜に変わった。
 昔から不幸な不治の病いとみられていた姉妹笹川の全聾も、伊藤司教が秋田の聖母像に関する出来事と聖母のメッセージの一切を文書にまとめ、教皇大使を通じてローマの聖庁に報告してのち、天使の予告通り、完全に癒されたのである。
 現在彼女の耳はまったく正常で、時には他の姉妹たちよりも耳ざといくらいと言ってよい。
 これらのことを思いめぐらせば、すべては神の摂理のままにはこばれて来たものであると、今さらに感銘深く考え合わされるのである。

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