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第十四章 教会側とマスコミ

 一九七六年五月十三日。
 五月十三日といえば、カトリック信者の間では、先にポルトガルのファチマに聖母が出現された記念日として知られている。
 この日たまたま湯沢台に、カトリック・グラフの編集者山内継祐夫妻が訪問、聖母像のお涙を親しく目撃するということが起こった。
 すでに一年半前からカトリック・グラフは “秋田の聖母像” に関する記事を独占的に報道していた。いくつかの週刊誌もこれを追い、二、三のテレビ会社も取り上げて放映するようになった。こうして世の注目を集めはじめると、かえって国内のカトリック新聞雑誌は目をそむけ、意固地に黙殺の態度をとった。私自身はカトリックの報道機関を通じて正しい情報を提出し、適正な判断をもとめたいと願ったが、ことごとく拒否された。そこでカトリック・グラフの編集者たちの革新的報道方針の熱意を頼みとして、これまでの資料を提供したのであった。
 この珍しい報道は、グラフの読者層を一時ひろげたが、一方反対者の怒りも買ったようである。山内氏は「聖母像の出来事を取り上げて以来、われわれの仕事は危急存亡の瀬戸ぎわに立つことになった」と私にたびたび述べていた。
 その彼が、五月十三日にはからずも自身の目で聖母像の涙を確認することとなった。その報告記事には、まずそれまでの苦しい心境の告白が述べられている。
 「(聖母が)メッセージを広く伝えよ、と命じられたと聞いて、グラフではすべてを書きました。私たちとしては、この使命ゆえにこそグラフが刊行され続けているのではないかとさえ思っています。そうでなければ、司教団首脳にきらわれ、資産の乏しいグラフが、今日まで生き続けることは出来なかったかもしれません。それにしても、一連の出来事のために修道院とグラフが浴びている批難は、小さくありません。ことに、私にとってはもう、耐え切れない重荷になってしまいました。…」
 山内氏はなおも次の号のために、先の五月一日と二日の “お涙の現象” の目撃者たちの座談会も企画していた。重荷によろめく心境で秋田にたどりつき、御像の前にぬかずいた彼は、にがい思いを聖母に訴えかけずにいられなかった、という。
 「カトリック社会に何とか真の報道機関を、と願って、私は肩ひじ張って来ましたが、もう疲れました。まったく余力がありません。これまで毎月の経済的危機を乗り越えられたこと自体、あなたのお取り次ぎによる奇跡だ、と私は思っています。その恵みには感謝いたしますが……。予定される目撃者の座談会だって、しょせん誰が何を見たかを伝える形式のもの。もし出来事が真実なのなら、私にもお見せください。そうすれば私はグラフの一人称で胸を張って書くことが出来るではありませんか。……といっても、涙を出すも出さぬもあなた次第ですね。ま、あなたのお望みどおりなさってください。とにかく私は、もう疲れました」

神の答え

 山内夫妻は夜行で上野を発ったので、湯沢台に着いたとき、私たちはすでに朝食をすませ、聖体礼拝も終えていた。
 山内氏の報告を追ってみると──まず聖堂の入口で夫人が聖水入れを指さし “いい香りがするでしょう” という。“べつに” と答えると、彼女は聖水に浸した指先で何度も十字を切りながら “ほんと、今度は香らないわ” と首をかしげていた。
 午後、彼ら二人はひと気のない聖堂に入った。彼が何気なく祭壇右手のマリア像に目をやると、顔ばかりか全体が白々と輝くように見えた。午前に見たときは黒っぽい顔だったと思いだし、“オーイ” と夫人に呼びかけておいて、自分は聖母像に歩み寄った。「私はマリア像に近づき、象の顔から三十センチ、いや十センチくらいの位置で観察しようとした。その鼻先に、水滴が光っていた。水滴は大粒で丸く、像の右頬に止まっている。右目が濡れて光り、下まぶたから水滴まで一筋の水跡がついている。……一歩退いて像を見たまま、出てるぞ、と私は言った。“恐い” と叫んで妻が私にすがりついた。私は像から目を離さずにいたが、頭の中では様々な思いが交錯した。……」
 彼は冷静を取りもどして “天使祝詞を唱えよう” としたけれども、声の震えをどうしようもなかった。彼がゆっくりと祈りを唱えはじめたとき、夫人は声を上げて泣きだした。(彼は生まれてこのかた、初めて無心に祈れた、といい、神がすぐそばにおられることを実感した、と付言している)
 やがて彼が私の部屋にとびこんで来て「いま、涙が出ています」と告げたので、私もすぐ聖堂におもむいた。
 この日ちょうど秋田教会の婦人たち二十名が、一日黙想のため来訪しており、知らせに全員集まって、御像の涙の目撃者となった。私は例によって先唱してロザリオ一環を一同と唱えた。祈りが終わったのちも、聖母像の木肌の涙にぬれた部分が赤く染まっているのが目についた。
 山内氏の記事はこう描写している。
 「ロザリオの祈りが一環の終わりに近づいたとき、像の胸元の濡れがすうっと消えていった。あ、涙が消えてゆく、消えてゆく…と思っている間に、絵にかいたような消失ぶりである。そのとき私の位置からは、頬の涙やアゴの涙は確認出来ず、胸元のにじみの変化だけが鮮やかに目に映った」
 そして “現象” が終わったあと、彼は「これが神の答えだな」と確信し、苦しくとも辛くともグラフ刊行を続けよ、との神の意志を感じ取ったという。
 こうして、カトリック・グラフはその後数年間は発行をつづけたのであった。

増大する試練

 このようにカトリック・グラフが “秋田のマリア像の涙の出来事” を確信をもって大々的に報道するにつれ、反対と否定の声も四方から高まってきた。
 当事者のうちでも最高の責任者である伊藤司教は、騒ぎをそのまま傍観していたわけではない。すでに一年ほど前、神学者の中でもマリア神学の研究で知られるE神父に依頼して、ことの真相を究明するようはかっていたのである。そこでE師は湯沢台を訪問、姉妹たちと会い、姉妹笹川を観察したついでに、彼女の日記を貸してほしい、と申し出た。彼女はそれを私に告げに来て、どうしたものか、とたずねた。あちらの言い分では、安田神父の記事は良いことばかり取り上げ、悪い方面には少しもふれていないので、正当な判断のための資料とならないから、とのこと。そう聞いて私はしばらく考え、何も隠しだてをすることもない、真偽をたしかめるため必要とあらば、日記をそのままお貸ししなさい、と答えた。
 この日記はE師によって完全にコピーされ、一年後に彼女に返された。これを証拠資料のように用いて、姉妹笹川は異常性格者、超能力所有者に仕立て上げられたのであった。
 この烙印によって決定的となったおそるべき試練は、姉妹笹川の上に、ひいては彼女をめぐる人々の上に、十年間、すなわち一九八四年の復活の祝日、教区長伊藤司教の公式書簡によって、事実の超自然性がみとめられるまで、つづいたのである。
 さて、先の山内夫妻の訪問の四日後、五月十七日から七日間、ほかならぬE神父の指導のもとに姉妹たちの静修が行なわれることになった。これは先に調査を依頼した伊藤司教がE神父の便宜をはかるためにも賛同した企画であった。私はその間、三重県鈴鹿市の教会から、話題の聖母像をめぐる出来事に関する講演を頼まれ、留守にしていた。姉妹笹川は、これも御摂理の許されたことと思われるが、ちょうど母危篤の知らせを受け、黙想第一日の終わりに郷里へ帰った。こうしてE神父には一週間も、誰はばからず弁舌をふるう場が残されたのであった。
 旅から戻った私は、姉妹たちの異様な沈黙と重苦しい雰囲気におどろかされた。数日後の日曜、ミサを終え、朝食をすませた私の居室に姉妹たちが集まって来た。あらたまって語り出すところを聞けば、E神父の黙想指導によって、自分たちの信念はぐらついてしまった、との告白である。姉妹笹川の異常性格による超能力のはたらきによって万事が作為されたことは明らかである、と専門の神学者から理路整然と説き明かされてみれば、何の反論も出せぬ自分たちとしては、その判断を信じその意見に従うほかないのである、という。
 私は咄嗟に「そんなばかなことはありえない」と答えたものの、あとから思案して、又聞きでただ否定してみても、根拠のある反論とはならない、と気づいた。やはりE師のそれほど確信にみちた意見というものを直接委しく聞いた上で、あらためて事の真相をたしかめなければならない、と思い返した。姉妹たちにしても、その道の権威の自信にみちた解釈で説き伏せられれば、心情的信頼はもろくも覆され、信念の失せる不安に陥ったのも、無理からぬこと、と今は静かにかえりみられる。しかし、この暗く閉ざされた空気の中で、私自身の心の動揺もただならぬものがあった。マリア庭園の花をみても木をみても味気なくむなしく、絶望に近い灰色がすべてを蔽っていた。自らも足元をすくわれる動揺を全くは否定できず、人間の信念というもののはかなさに、暗澹たる心地であった。
 二日ほどして、私は二人の上位姉妹を伴い、E師の意見を直接たずねるべく、上京した。そして神学院の応接間に迎えられ、二時間ほど話を交した。
 彼は、姉妹笹川の日記による研究レポートを引いて説明し、彼女はもともと生まれつきの異常性格であった上に、仏教からカトリックへの改宗以前にも超能力者であったことが判明し、改宗後もこうした超能力を発揮したものと分かった、という。聖母像の手の傷やそこから流れ出た血、汗や涙の現象すべてが超能力によって惹き起こされたものである。すなわち、彼女は自分の血を像の手に移しかえることができ、涙も自分の涙を転写したものである。などと、密教の修験の例を援用して、得々と説明された。
 聞き終わって私は、つまり今後の研究課題は、彼女のいわゆる “超能力” と聖母像の客観的現象とにいかなる密接な因果関係があるか、ということであろう、と胸にきざんで、一応引きさがった。この高名な神学者の説は、すべてにおいて、私を納得させるに不十分なものであった。

 一方、教区長として責任の重圧をいよいよ感じる伊藤司教は、問題を教皇大使にはかったところ、東京大司教に頼んで調査委員会をつくり正式に調査を始めるがよい、とすすめられた。さっそく事はそのように運ばれたが、もちろんかの神学者E師はその主要なメンバーの一人となったのである。
 伊藤司教は調査委員会の指示をうけて、カトリック界の公報機関であるカトリック新聞に、“秋田の聖母像の崇敬について、公の巡礼的団体行動を禁止する” 旨の公示を出した。
 その同じ頃、姉妹笹川は調査委員会のリーダーE師に個人的に呼び出され、丸一日、誘導尋問や説得に次ぐ説得、つまり洗脳を受けた。彼はすでに自分の意見として、湯沢台の姉妹たちをはじめ、各方面に、“姉妹笹川は特殊な精神分裂症であり、守護の天使を見るのは、自分で自分に語っている二重人格的構成をもつ精神分裂の一種にほかならない。指導している神父が、彼女を利用してマスコミにものを書いたり、事業の利益をはかったりしているのは、許しがたい罪である” などと言明していた。しかし姉妹笹川本人にたいしては、その歓心を買うためか、非難めいたことは一言もいわず、慈父のごとき言動を示した。姉妹笹川は次のように回想している。
 「弟と妹につきそわれて来た私を、E神父様は両腕をひろげてにこやかに迎えてくださいました。たっぷりの朝食をすすめられるまるでお父様のような優しさに私たちは感激しました。
 それから一対一になって、午前中いっぱい、午後は五時過ぎまで、息つく間もない説得をうけました。
 私は精神異常とでも宣告されるかと、ひそかに覚悟していましたが、そのような言葉は一つも出ず、超能力の持ち主だ、と言われて、はじめて聞く話にびっくりしました。何のことかと伺うと、潜在意識のことからこまごまと説き、すべての不思議な現象は、私が無意識に超能力をもって惹き起こしている、とのことです。
 ──では悪魔から来ているのですか。だったらどうかそんなものは取り除いてください。
 ──悪魔ではない。あなたは知らずにしていることだから、罪はない。
 ──でも、私はそんな特別な人間になりたくありません。それに、多くの人をだましているとおっしゃるなら、おそろしいことです。どうかそんな能力を取り除いてください。
 ──ともかくあなたが悪いのではなく、最初に天使のことなども真に受けて、ことをこんなにエスカレートさせた長上に責任がある、といえます。守護の天使などというのも、あれは、あなたが自分自身に語りかけているのです。──
 だから、今後はそんな出現を無視すればよいのだ、という警告でした。
 ところが、それから十一時の御ミサにあずかったところ、思いがけず守護の天使のお現れがありました。あわてて、無視しようと目をつぶったりしましたが、“恐れなくともよい” といつものお声を耳にしたとたん、何ともいえぬ心の安らぎを感じました。
 午後のお話の始めにE神父様にその報告をしたところ、今までずっと続いて来たことだから急に終わるわけにはゆかない、私の指導を受ければ、これもすべて解決する……とまた延々とおさとしがつづきました。
 私は何よりも、自分で知らぬこととはいえ、多くの人を欺く結果になっている、と言われたことに、恐ろしいショックを受けていました。おしまいには、疲労困憊で倒れそうな有様になったので、電話で知らされた妹が迎えにかけつけてくれました。
 帰途のタクシーの中で、私はもうすべての気力を失い、このまま死ぬのではないか、と考えていました。
 妹の心づくしの夕食も目にも入らず、机にうつ伏すようにして両手を頭にあてたとき、思わぬ触感にビクリとしました。髪の毛が恐怖のあまりか、文字通り逆立っていて、汗と脂でコチコチになった毛が針金を植えたようにこわばり、指も通らぬ有様になっています。
 驚愕の一瞬のあと、こんどは急に目がさめたような反省が湧いてきました。“これは何という有様か。これでも信仰をもっているのか。すべては神様が許されて起こったことであり、すべてを神様はご存知ではないか。自分であれこれ思い煩うなど、それこそ自分にとらわれているではないか……” こう思った瞬間、胸がスーッと開けたようで、笑いたい気分さえこみ上げてきました。泣き笑いのうちに手を上げてみると、髪の毛もしなやかさを取りもどしていました。
 翌日から伊藤司教様のおはからいで、心身の検査を兼ねてS病院に入院しました。ベッドに横たわってみると、もう精も根もつき果てた感じで、三日三晩食べることも起きることもできず、診察もそれぞれの医師が出向いて来られる有様でした。
 三週間後、二人の姉妹の迎えを受け、修院へは戻らずそのままY温泉へ療養に行きました。
 いくらか体力をとり戻して修道院に戻っても、以前とまるで違う空気が待っていました。それからは、まるで針のむしろにくらす心地でした。よく生き抜いて来た、という気が今になっていたします。でも入院中からして、体力も気力も衰え切った時は、もうこのまま召されたほうがどれほど倖せか、と何度思ったことでしょう。……」
 しかもこれは、十年の歳月に痛みをやわらげられた上での控え目な述懐である。
 表面上、人びとは親切であった。病院の医師も、面とむかっては精神異常を否定し、ノーマルだと断言しつづけたが、委員会への報告には、特殊なヒステリー性をほのめかしている。
 修道院の目上も修友も、やさしくいたわってくれるが、今や自分の信用は地に落ち、ことごとに疑いの目でみられていることを、痛いほど感じさせられる。
 指導司祭として私の洩らした “十字架上のキリストは、誰からも信じられず、見放されていた” との一言に、必死にすがる支えを見いだしていた、とのちに告白している。
 不信の中の孤独というあらたな試練の日々が、始まったのであった。

温泉にて

 姉妹笹川は、生来病弱で、少女時代から年に数回はあちこちの湯冶場めぐりをしたものであった。こんど奥原医博のすすめで送られたY温泉も、馴れた古巣のごとく、傷ついた心身をあたたかく迎え入れてくれるものとなった。
 人里はなれた山奥で誰にも知られず、宿主の恩情にのみ見まもられて、静かに過ごす孤独の日々は、卓効ある温泉とともに、大きな救いをもたらした。もっとも、祈りひと筋の修道生活を求める者としては、毎日のミサもなければ御聖体もないさびしさは、何にまぎらしようもないものであったに相違ない。
 長上である伊藤司教も、三ヵ月の滞在中に三回ほど、日帰りで見舞われたのがせいぜいであった。私も月に一、二度、百七十キロの道のりを電車とバスを乗りついで御聖体を持って訪ねる程度であった。そのたびにキリストの御受難を話題にとり上げ、精神の支えとするよう、すすめた。彼女もその黙想に力づけられている、と答えた。
  “精も根もつきはてた” と先にみずから表現したこのたびの試練が、どれほどのものであったかを理解するために、彼女のおかれていた状況をあらためて見直しておきたい。

 たかが一日 “洗脳” されたという程度のことで……と考える向きもあるかもしれない。だが元来、修道院の共同生活を人並みにおくるのが精いっぱいの体力でしかなかった。しかもこの時は、母を亡くした直後であった。すでにこの年の始めに、最愛の父の死に遭った。こんどは母……苦労をかけ通した母、虚弱に生まれ、大病、十一回の大手術、二回の臨終の秘跡などで心労を負わせつづけた母、との永別であった。悲嘆の重さは弱い体をうちひしぐものであったに相違ない。
 その悲哀の底からいきなり東京へいわば引き立てられ、(もちろん家族は反対したが)E師の前に出頭させられたのである。なお、身近にくらすわれわれもつい忘れがちなのだが、当時彼女はまだ全聾の状態にあった。耳が全く聞こえないということは、不自由などという程度のものではないらしい。一切の音が消失している不安は、どんなものか。背後から危険がなだれ落ちて来てもわからないのである。覚えた読唇術とカンの良さで、日常生活を破綻なくこなしていたが、神経の休まることはなかったのではなかろうか。
 E師の前に置かれるや、たてつづけの説論となる。達者な日本語とはいえ、外人の唇を読み解くには、相当緊張がつづいたであろう。しかも、思いもよらぬ超能力とやらの持ち主ときめつけられ、多くの人を欺いたとの宣告を延々と聞かされる。神と人への奉仕にのみ喜びと生き甲斐を見いだしていた者にとって、この痛烈な打撃は、張りつめた気力でもちこたえて来た生命力の根底を衝くものであった。髪の毛の逆立つほどの恐怖から疲労困慙におちいったのも、無理からぬことと思われるのである。
 S病院の三週間も、静養よりは心身の煩わしい検査に明け暮れた。ようやく帰途についても、飛行機の着陸時の衝撃が弱い内臓にひびき、車椅子ではこび出される、という有様で、まったく試練に次ぐ試練の日々だったのである。

 そういう姉妹笹川に、Y温泉の静寂は、何よりの安らぎをもたらしたようである。私の見舞うごとに、少しも淋しくない、と洩らし、“御受難” の話に力を得る、と言いながらも、べつに沈痛な面持ちを見せることもなかった。もともと人なつこい性格なので、宿主一家や湯冶客たちとすぐ仲よくなったらしい。
 何よりのたのしみは、山の小鳥たちの訪問だった、という。窓のふちに菓子のかけらをならべておくと、次々と食べに来る。指先からもついばむ。腕や肩や頭にまでとまる。警戒心のつよいセキレイまで遊びにくるので、宿の人びとの評判になった。

 なお、一方で “守護の天使” の訪れも、E師の「もう現れることはない」との断言にもかかわらず、つづいていた。たびたび傍らに姿を見せて、優しい微笑をもってはげまし、時にはロザリオをともに唱えられた、という。
 こうして三ヵ月が経ち、さわやかな秋風とともに、体調もおもむろにととのい、修道生活に復帰できるようになったのであった。

摂理のままに

 姉妹笹川は前の生活にもどったが、修院内の空気は以前と一変していたことは先に述べた。姉妹たちは、あれほど感銘を受けた聖母像のふしぎも、“超能力説” で片づけられてしまえば、対応の仕方にとまどい、おちつかぬ精神状態にあった。当然、“張本人” と名ざされた姉妹笹川に前と変わらぬ親愛を示すことはむずかしかったであろう。
 私自身は、聖体奉仕会の会報に、聖母像に関する出来事を相変わらずとり上げ、事あるたびに報告し、こうした不思議な現象は神のはたらきかけによるものではないか、と素直な受け取り方を暗にすすめていた。
 しかし、先の五月一日の聖母像の涙の詳細を発表した時点で、伊藤司教から「このような報告は誤解を招くおそれがある。今は調査委員会にすべてをゆだねたから、調査の結果が出るまで沈黙を守ってほしい」との忠告を受けた。それ以後、しばらくはこの問題に一切ふれず、身辺雑記的なことを書きつづけることにしたのであった。といっても、とくに印象的な事柄については、例外としてちょっとふれずにいられなかった。たとえば、韓国から一老婦人の訪問のあった際、聖母像から久しぶりに芳香がつよく感じられたこと、またこの婦人の話によれば、韓国では湯沢台の出来事はひろく知られ “秋田の聖母の涙” という本はすでに二万部も売り切れ、信者は皆この奇跡を信じ、巡礼に来ることを夢みている、ということなどである。
 もっとも、聖母像の涙は、“調査委員会” が組織されて以来、ピタリと止まって、一度も流れることはなかった。そこで私は、涙の現象も終わったものと考えるようになっていた。
 調査委員会は、二年後に調査の結果として、秋田の聖母像の現象に関し、その超自然性について否定的結論を出した。が、そのくわしい内容は、私たちに全然知らされなかった。
 かねて、伊藤司教は姉妹たちとの会合で、委員会の結論が出たら、一も二もなく従順にそれに従うように、とさとされていた。ひとりの姉妹が “自分の良心にそむいても、なお従うべきであろうか” と反問したところ、“この場合はともかく従うことが大切である” との指示であった。
 しかし、いざ司教自身が否定的結論を受けてみると、それを公表するまでには踏み切れず、良心にただならぬ動揺を感じられたようである。数ヵ月後、ローマの教義聖庁と布教聖庁をみずから訪れ、これまでのいきさつを述べて、権威筋の判断を仰ぐことにした。それに対し「もし納得のいかない結論ならば、自身で再調査委員会をつくって、もう一度調べたらよい」との勧告が与えられた。
 姉妹笹川の日記がE師によってコピーを取られたことは前述したが、第一の調査委員会は、その日記のみを検討して、全面的否定の結論を出したのであった。委員のだれ一人として(E師のほかは)実地に湯沢台を訪ね、聖母像を検分し、姉妹たちの生活にふれ、その精神情況をさぐるだけの労をとることなしに、下された断定である。日記以外に何も見る必要はない、とは驚くべき安易な責任の果たし方である。第二の調査委員会が司教の委嘱によって発足するにあたり、先の調査の結論が当然明かるみに出されたわけで、私は以上のいきさつを知って、唖然としたのであった。しかし、今は調査委員会の問題に長々とかかわっている場合ではないので、いずれこの件に関しては、しかるべき折に詳述したいと思う。

 この第一次の結論を待っていた二年間もの間、修院の生活は以前同様につづいていた。
 私は自分なりに検討をつづけつつ、ことの超自然性をみとめる方にますます傾いていた。
 その間も人びとは引きつづき、“お涙の聖母像” の膝もとで祈ることを求めて、小人数ながら各地から来訪していた。

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