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第十三章 求められた犠牲

 先に姉妹笹川の耳が聞こえなくなったのは、一九七三年三月十六日のことであった。起床後しばらくは、話す相手もないまま耳の異常には気づかなかった。朝六時半、電話のベルがかすかなのをいぶかりながら、受話器を取り、相手が本部からの姉妹とわずかにみとめたきり、あとは音がなくなってしまった。何も聞こえなくなった、と告げたので、本部でも騒ぎになったのであった。
 これが神の摂理によるものであったことを、その後のいきさつによって、十年以上も歳月を経てから、われわれは次第に明白に認識するようになったのである。
 当時は降って湧いた災難のようにも思われた、不意の聴力消失の故に、姉妹笹川は、せっかく馴れた仕事場を離れて、この山奥の静かな祈りの場に移って来たのであった。
 そのころ本部には姉妹の数も少なく、訪れる客とてもなく、全員心を一つにして、ひたすら祈りに明け暮れる日常であった。姉妹笹川は、与えられた一室で和裁の仕事に精を出す時も、ひと針ひと針に心をこめて、常に神の尊前で祈りつづける境地におかれていた。
 こうして、彼女自身としては夢にも思わぬことながら、のちに聖母のお言葉を承るにふさわしい、純な信仰と祈りの心の下地がととのえられて行ったのであった。
 やがて、先に順次述べてきたごとく、かずかずの不思議な現象と、聖母像を通しての “お告げ” が始まったのである。これら一連の出来事は、いずれも注目すべきことではあるが、とくに聖母のメッセージが、重大な意義をもつものであることは、言うまでもない。

 聖母は姉妹笹川に、第一のお言葉として「耳の不自由は苦しいですか。きっと治りますよ。忍耐してください。……人びとの罪のために祈ってください」と語られた。そのお言葉からも、神の摂理をうかがえるように思われるのである。

 現代のわれわれは、こぞって、何を目標に生きているか、といえば、ひたすらこの世の幸福、の一言につきるであろう。現世的楽しみに、生きる意義を見いだしているごとくである。モットーは、レジャーと快適な生活であり、よく働くのはあとでより多く楽しむため、という考えが、良識のようにまかり通っている。肉体的には快楽追求、精神的には、一切の苦悩・憂慮追放が、至上目的のごとくである。もしそれを可能とする条件が与えられなければ、社会正義とか人権擁護などの旗をかかげて、人を相手どった闘争に熱を上げることも、当然のごとく考えるのである。
 現代社会のこのような大勢にまきこまれて生きている信徒としてのわたしたちも、宗教生活においてももはや “神のために生きる” とか “神の意志のあるところを求めて、償いの苦しみや犠牲を甘受する” などという心は、あまりもたなくなってきたようである。カトリックの信仰に拠って立ち、お恵みに支えられて生きる者、と自負していても、周囲の快楽主義の滔々たる流れにいささかもゆるがされず、何の影響も受けずにすますのは、たやすいことではない。
 多少の苦しみや困難を忍ぶにしても、それがやがて何らかの形でこの世の幸福をもって酬いられなければ、人々は納得できないようである。“苦あれば楽あり” の法則に適わない、とみるごとくである。
 そのような “常識” に反して、精神的不幸や肉体的苦痛をひたすら神への奉仕と愛の献げものとして甘受し、聖旨のままに耐え忍ぶ、などということは、まさに宗教の吹き込む愚直なわざとしか思われないらしい。
 そういう立場からキリストの十字架を眺めるなら、この贖罪の受難を嘲弄した群集の心理がよくわかる。
 「あなたが救主であるなら、十字架からおりて、自らを救え」
 現代の時流に応じた生活をしているわれわれも、ある意味でこのように叫んでいるのではなかろうか。現世的欲求に目がくらんで、天の正義の要求は見えなくなり、神の真意をさぐることも忘れてしまっている。求められる犠牲は厭い、与えられる病苦は力をつくして避けている。今の平穏無事な幸福だけを願い、それをいつの間にか生き甲斐のように求めていれば、キリスト教の真の意義からはおのずと遊離してしまうのである。

 このような時代に、姉妹笹川に与えられた聴力喪失という試練は、たとえそれが自然的原因による疾病であっても、とくに意義あるもののように思われる。

 その全聾状態が、一九七四年十月十三日に、一時的とはいえ、奇跡的に癒されたいきさつは、先に詳述した。その治癒は、その年の五月十八日に天使によって予告されていた。再記すると──
 「あなたの耳は、八月か十月に開け、音が聞こえ、治るでしょう。ただし、しばらくの間だけで、今はまだ捧げものとして望んでおられますから、また聞こえなくなるでしょう。しかし、あなたの耳が聞こえるようになったのをみて、いろいろの疑問が晴れて改心する人も出るでしょう。信頼して善い心でたくさん祈りなさい」
 次いで九月二十一日の予告では、耳の癒される時の状態がくわしく語られ、それが一時的な治癒であることを更に念を押して「今はまだ完全に治
らず、間もなくまた聞こえなくなるでしょう。おられますから」と強調されたのである。
 私たちは彼女の耳がほんとうに癒されたのを見て、驚嘆し、大いに慶賀し合った。が、予告通り治った耳は、またやがて予告通りに再び犠牲の捧げものとして閉ざされるはずである、と思えば、手放しで喜ぶわけには行かなかった。それがいつのことであろうかと、当人はもとより、皆が一抹の不安をもって、推し測らずにいられなかった。もうすぐ起こることのようでもあり、希望的観測をもってすれば、案外遠い将来の話のようにも思えたのであった。

 一九七五年三月六日の木曜日、わたしはマリア庭園のためにえらんだ重さ数トンもある巨石を、四人の人夫たちと共に、雪の上を橇で運ぶ作業に専念していた。昼ごろ、一人の姉妹が修院から私を呼んでいるのに気づき、遠くから電話でもかかったのかと急ぎ近づくと、今聖母像から涙が出ている、ということであった。
 これは、一月四日以来の、お涙の現象であった。すぐ野良着のまま御像に寄って拝した瞬間、木像の足もとのあたりがぬれており、一滴の涙のしずくが顎の下にたまっているのが、目についた。そこへ司教様が見え、手でさわってみなければ分からない、と言いつつ、人さし指でその水滴をぬぐわれたところ、しずくはそのまま指に移り、皆が見ることができた。
 ちょうどこの時、一台のタクシーが玄関に着き、カトリック・グラフのY記者が訪ねて来た。まさに恵まれた好機とばかり、さっそくカメラがかまえられたが、せっかくの御涙が終わったところだったので、とくに見るべき写真とはならなかったようである。
 この出来事は、一月四日以来の再度のお涙の現象という以外に特筆すべき点もなかったので、これまで取り上げて述べることもせずに過ごしたのであった。
 ただこのことのあった日から、姉妹笹川は、ただならぬ頭痛に人知れず苦しんでいたようである。翌日の初金曜のミサ中にとくにひどくなり、聖体拝領後、彼女が後頭部を手で押さえてひれ伏しているのが見られた。
 朝食をすすめられてもことわり、そのままの姿勢でひとりとどまっていた。
 後刻、私のところへ来て、次のように報告した。
 「わたしの耳は、天使の予告のお言葉のように、また聞こえなくなりました。守護の天使が、あわれみ深いまなざしで『御父のお望みの時まで、耐え忍びましょう』と言って、姿を消されました」
 前日のはげしい頭痛から、姉妹笹川は、すでに覚悟しはじめていたようである。のちの説明によれば、この頭痛は、その性質が前の難聴の先駆症状とそっくりであったらしい。頭が重いというより、まるで釜でもすっぽりかぶせられたように重苦しく、耳鳴りもトンネル内の騒音か飛行場の爆音にさらされているような、圧倒的なものであった、という。
 私はその日のうちに姉妹笹川を伴って、秋田市立病院と日赤病院の耳鼻科を訪れ、診断を乞うた。この時の私立病院の診断書には「両側突発性難聴の疑。初診、昭和五十年三月七日。比較的安静を要し、当分の間加療を要する。(医師名)」とあり、日赤病院の診断証明は次のごとくである。「病名、両感音難聴。高度難聴で計器最大出力でも測定できません。したがって良くなっているかどうかの判定は不能。今後の改善はあまり期待できません。上記のとおり診断証明します。(日付、医師名)」

 こうしてこの日から、姉妹笹川はまた、二年前の一切の音から遮断された沈黙の世界に閉じ込められることになった。さらに医師の厳密な検査によって、治療の可能性のないことまで宣告された。
 ただ天使の先の予告に「あなたの耳が聞こえるのはしばらくの間だけで、今はまだ完全に治らず……」とあったことから、いつかは完全に治ることが期待されるわけで、そこに希望が残されていた。しかもこんどは、「御父のお望みの時まで」耐え忍ぶよう、はげまされたのである。
 その時がいつか分からぬながら、われわれは、ともに信頼をあらたにし、心を一つにして、祈ったのであった。

 さて、これまで述べてきた聖母像をめぐるかずかずのふしぎな出来事は、何を意味するものであるか、という考察を、もう一度とり上げてみたい。
 先に記したごとく、奇跡というものは、無意味に与えられるものではない。魔術師は人を驚かせるためにふしぎな術を見せるが、神はただ人間を驚嘆させるために自然法則を破るようなことはなさらない。
 聖母像からの血や汗や芳香や百一回の涙にいたるまでの奇跡は、何のためであったのか。それは御像を通じて──また奇跡的治癒の恵みを受けた姉妹笹川の耳を通じて──与えられた聖母の “お告げ” の超自然性と真正性を証するため、にほかならない、と言えよう。
 その “お告げ” は、第一回が姉妹笹川へのあいさつとはげましの言葉、第二回は、神のお怒りをやわらげるため捧げる犠牲と祈りへの招き、第三回は、天罰の警告と聖母への信頼のうながし、というふうに、要約できる。しかし、聖母のメッセージとして最も重要な部分は、第二回に告げられた、次のお言葉ではないかと思われる。
 「世の多くの人びとは、主を悲しませております。私は主を慰める者を望んでおります。天の御父のお怒りをやわらげるために、罪人や忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、御子とともに望んでおります。……」
 多くの人びとは、主を悲しませている。……この御指摘から思い浮かぶ現在の世相は、キリストの十字架の道行きの現代版、とも言えよう。今やキリストを知らぬ者は全世界で皆無のように思われ、皆その名を耳にし、何かの形でキリストに出会っている。その現代人という大群衆は、十字架を荷うキリストをかこんで、二千年前のユダヤの民衆と同様な態度をとっているのではないか。
 誰も救い主を慰めようとする者はない。自分自身を慰めることに汲々としている。どよめいているのは、嘲弄の罵声とそれに迎合する声ばかりではないか。「私は主を慰める者を望んでおります」とのお嘆きには、切なるひびきがある。
 今、主をお慰めするには、あの十字架の道に走り出て敢然とお顔拭きの布を捧げたヴェロニカのように、周囲の思惑や反対を押し切って、キリストに近づき、心身をささげてその聖なる犠牲に参与すること、が求められるのではなかろうか。
 くり返して言うが、現代の時流──苦しみからの逃避と快楽追求に終始する風潮──に押し流されて、信者までが十字架を忌避するようになって来ている。十字架なきキリストを求め、苦しみ抜きの安易な救済をあてにしている。
 このような有様を嘆いて、聖母は涙をあまたたび流されたのではなかろうか。
 そして、木彫の像が百一回も落涙する衝撃的現象を示されながら、なお人々が無関心を装い、重大な御警告を無視しつづけるとしたら……。

 聖書のルカ一章に、次の印象的な記述がある。
 キリストの先駆者・洗者ヨハネの父親ザカリアが神殿で香を焚いている時、天使ガブリエルが現れ、妻エリザベトの懐妊を予告した。彼はそれをすぐ信じなかったので、天使は「私はあなたにこの良いおとずれを告げるために遣わされた。しかし、あなたは口がきけなくなり、このことが起こる日まで話すことができないであろう。それは、時がくれば実現する私の言葉を信じなかったからである」と告げた。(ルカ1・20)
 姉妹笹川の耳が聞こえなくなったのは、べつに天使の言葉を疑ったからではない。むしろ、すぐ信じたからこそ、予告通りに耳は奇跡的に癒されたのであった。
 ここで注目したいのは、神が天使の言葉への不信を、直ちに肉体的に罰せられるほど、きびしく扱われることである。
 だいたい、これまでの例をみても、神が天使の介入を許されるのは、このように重要性をおかれる出来事の場合である。
 湯沢台における天使の介入、奇跡の種類と度数の少なからぬことは、顕著な事実である。
 しかも、神の聖旨によって、お告げをもたらされたのは、天使だけではなく、聖母御自身である。それもお涙を示しながらの訴えかけである。
 人間の訴えさえ、声涙倶にくだる時、聴く者はまじめに耳をかたむけるものである。
 聖母のこれほどのお呼びかけに、いつ人々は粛然と襟をただし、真剣に応じるのであろうか。

今日の日を大切に

 一九七六年五月一日、土曜
  (勤労者聖ヨゼフの祝日)
 この日は東京から十一人の男子訪問客が予定されていた。主に東京西部に居住し、社会の第一線にそれぞれの分野で活躍しつつ、“安信会” と名乗るグループを結成して信仰の練磨も怠らぬ壮年の信徒たちである。かれらが姉妹一同とミサにあずかり祈りをともにできるよう、私は早朝のミサを夕刻に変更し、朝は聖務ののち聖体拝領のみを行なった。
 朝食後、姉妹笹川が聖堂に入って、聖母像から涙が流れているのを発見した。前年の三月六日以来とだえていたことで、一年二ヵ月ぶりの現象である。知らせを聞いて全員ただちに集まり、御像の前でロザリオの祈りを一環唱えた。
 その後、九時二十分ごろ、姉妹Kが聖母像をスケッチするため近づいたところ、またも涙の流れているのを目にし、おどろいて姉妹たちを呼び集め、ふたたびロザリオを一環唱えた。この二度目の落涙現象には私は立ち会えなかった。町に買物に出ており、正午少し前に帰院して、報告を聞いたのである。
 夕方五時からの “晩の祈り” の始まる三十分前に、一人の姉妹が聖堂に入って、聖母像からまたも涙が流れるのを発見した。そこで一同早目の入堂となり、三たびロザリオの祈りが捧げられた。
 東京からの “安信会” の一行は、予定よりおくれて八時ごろ到着した。私たちはミサを先にするため、夕食をとらずに待っていた。ほかにも、五月の連休とあって、新潟や仙台その他の地方からも二十数名の訪問客があった。
 八時過ぎからのミサは、聖ヨゼフに感謝と御保護を願う意向をもって捧げることにした。終わったのは九時ごろであった。一同退堂したのち、姉妹笹川だけが、聖体拝領の直後から、畳にひれ伏したままの姿で、身動きもせず残っているのが、目にとまった。
 しばらくして、彼女は一つのメモを手にして、私の許に報告に来た。聖体拝領後、天使の出現があったそうで、紙片にはその “お言葉” が書きとめてあった。それをそのままここに写せば、次のごとくである。
 「 “世の多くの人びとは聖主を悲しませております。私は聖主を慰める者を望んでおります。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人びとの忘恩、侮辱の償いのために改心して祈ってください。ロザリオの祈りはあなた方の武器です。ロザリオの祈りを大切に、教皇、司教、司祭のためにもっとたくさん祈ってください”
 この(マリア様の)みことばを忘れてはなりません。聖母はいつも一人でも多くの人が改心して祈り、聖母を通してイエズスさまとおん父に捧げられる霊魂を望んで涙を流しておられるのです。外の妨げにうち勝つためにも、内なる一致をもって、みなが心を一つにし、信者はもっと信者の生活をよくして、改心して祈ってください。
 聖主と聖母の御光栄のために、今日の日を大切に。みなが勇気をもって一人でも多くの人びとにこの信心をひろめてください。このことをあなた方の長上とあなた方を導く方に告げなさい」
 こう告げてお姿が消えた、という。

 私はこの報告を受けてのち、安信会のメンバーと司祭館で遅い夕食をとっていた。約七百キロの道のりの車の旅をねぎらい、道中の話に耳をかたむけ、ゆっくりと食卓をかこんでいた九時四十分ごろ、聖母像からこの日四度目の涙が流れている、との知らせが入った。
 皆一せいに外の暗やみにとび出し、走り込むようにして聖堂に入った。御像の涙を目にするや、ある者はひれ伏し、ある者は感涙にむせび、それぞれの反応を示した。私は例によって、ロザリオを取り出し、先唱して “苦しみの玄義” を一環唱えはじめた。
 その間、聖母像の両眼からは涙があふれつづけ、頬をつたわり、あごから胸部にしたたり、像の足もとまでぬらしていった。ロザリオの祈りの第二連を唱えているうちに、涙はようやく止まったのであった。
 この夜の宿泊客のうち、他の二十数名もはじめて聖母像の涙に接した人びとで、中には何か人為的なトリックでもあるのでは、と疑われた向きもあったらしい。
 翌日は復活節第三主日にあたり、私はミサの説教に前日の天使の言葉を引いて、聖母のお涙にたいしての省察をうながした。
 この日は、さらに四人の医師と他の多くの訪問客も加わった。にぎやかに昼食の卓をかこんでいる最中の十二時半ごろ、聖母像のあらたなお涙が発見された。
 ただちに聖堂に、ひしめき合うほどの人数が参集した。このたびは、きのう疑念をかくしえなかった人までが、みずからも涙を流し嗚咽を洩らしている有様がみられた。四名の医師たちも、これは奇跡でしかありえない、と語り合っていた。会の記録によると、当日の目撃者は、姉妹たちを合わせて五十五名となっている。
 二日にわたり計五回涙が流されたあと、今までみとめられなかった涙の流出の痕跡が、聖母像の頬に見られるようになった。
 十二年を経たこんにちも、それはなお見ることができる。

目撃者の証言

 その後この時の目撃者の代表として、安信会のメンバー十一人が、カトリック・グラフの求めに応じて座談会形式で証言を行なった。それは後日出版された “極みなく美しき声の告げ” という本にも再録されているので、次に主な部分を引いておく。

 三技信義氏の証言
 ミサに与ってから男子宿舎に充てられたヨゼフ館で夕食をいただきました。もう九時半になっていたでしょうか、遅い夕食でした。その食事中に別棟から電話があり、「いま、また涙が出ています。どうしますか」と神父様から言われた瞬間、私たちは反射的にヨゼフ館をとび出していました。
 聖堂に駆けつけると、聖母像はたしかに涙を流しています。一番早く聖堂に入った私は、声を出して嗚咽していました。
 ロザリオの祈りが始まったとき、私は祭壇の脚近くにいましたが、とめどなく流れる自分の涙をどうすることもできませんでした。
 この時のお涙の量は、翌日の涙に比べてかなり多かったと思います。
 祈りを終えてから皆宿舎へ戻って食事を再開しましたが、誰一人として声もなく、感激溢れる食卓風景となりました。

 川嶋美都雄氏の証言
 翌日正午過ぎ、私たちが昼食を始めたところへ知らせがあって、皆が二度目の目撃をしたわけです。まだ前夜の涙のあとが聖母像の顔の部分に残っており、さらに新しい涙が湧いて頬を伝う、という情況でした。

 鈴木功氏の証言
 私など技術畑出身なので、とかくアタマでものを考えてしまいます。超自然より自然法則を尊ぶんですね。だから一回目の目撃時には、雨のせいではないか、湿気はどうか、といった疑いが頭を横切りました。完全にショックだったのは二度目です。そこにはもう、自然作用の入り込む余地がありませんでしたから。

 広井栄次氏の証言
 涙が出たという知らせを初めて受けたとき、私もやはり雨露の影響ではないかと考えて、像を目と鼻の先に見据え、そうでないと解ったあと、今度は、誰かがスポイトで演出したのではないかと思いました。ところが二度目の涙は、像の目からジワッとにじんであふれ、私たちの目の前で次から次へと流れたのです。私たちの理解を超越したこの事実に、やはり感動せざるを得ませんでした。

 宮田斉門氏の証言
 二回目の、目がうるんだあと美しく光り、涙が流れていくさまを見て、なんともいえない感銘を受けました。

 増子武之氏の証言
 私の場合、盲人が親切な人に導かれてマリア像の前へ立ったようなもので、何となく湯沢台にひかれて、非常に忙しい中、あたふたと行ったわけです。予想していたわけではないのに、「涙が出た」と聞いたとき、予感が当たった、と思いました。
 といっても一回目は呆然と見ていた、というのが実感で、像の台座まで涙が流れていたことが印象に残っているだけです。
 二回目は、涙を見ようという意識をはっきり持って見つめました。像の目は、キラキラと光って濡れていました。

 藤井清和氏の証言
 一回目の涙は予想もしないことでびっくりしました。罪の赦しを願ってロザリオを唱えましたが、実は顔を上げることも出来ず、足もとに流れている涙を見ただけで全体をこまかく見ていないのです。
 二回目のときは、はっきり見ました。左目から大粒の涙が頬を伝わって流れるさまは、自然の作為のない超自然の事実と感じました。

 守口忠夫氏の証言
 私も一回目は、涙がよく見えなかったくらい感動しましたが、その夜はまだ信じられない気持ちでした。そして翌日の二回目になって自分の目ではっきりと見極めたのです。これは単なる自然現象ないし精神現象として説明できるものではありません。
 無神論者でない限り、自分が理解できないことはありえないことだと決めてしまって、私がこの目ではっきり見たことまで調べもせずアタマから否定する傾向があるとすれば、納得のゆかぬことです。
 私の場合、超自然の力を自分の目で見たことを、私の本当の信仰を強める機会にしたいと思っています。

 伊崎泰弘氏の証言
 秋田への旅立ちの動機はあったものの、私の場合、マリア様の涙は、まったく予期しないものであったわけです。もちろん御血、御汗、芳香など一連の奇跡的事柄を信ずるにやぶさかではありませんでしたけれども、聖母の御涙をじかにこの目でたしかめたいなどという、大それたというか大きな望みは、心のどこかにも持ち合わせていませんでした。
 静かに湧き出て目頭にたまった御涙が頬を伝って流れ落ちるのを、私はこの目でしかと見ました。瞬間、私は現世の一切を忘れてひれ伏しました。私事にわたる願望などは末のまた末のことだ、という思いに強くとらわれました。これを上智の賜というのでしょうか。
 「神はこれらの事を学者智者には示されず、いと小さき者の上にお顕しになった」と聖書に書かれておりますように、ぐうたらな私に無限なる神がどうして、というおののきにとらわれます。
 信仰は個人の一部でもなくまたアクセサリーでもむろんない、全人格、全行動とのかかわりをもたねばならないと痛感しました。

 小野文雄氏の証言
 第一回目の涙を見たあと、私と広井さんの二人は風呂を浴びながらやはり “スポイト説” を論じたものです。
 二度目には「狂信的になってはいけない」と気持ちをおさえながら、同時に「よし、この際徹底的に見てやろう」と決心しました。
 涙はあふれて落ち、またあふれては落ちました。私は像に近づき自分の目でそれを確かめました。そして疑うことの非を悟り、皆と一緒に無心にロザリオの祈りを唱えました。

 川崎弘氏の証言
 二度目のとき、私は像から三〇センチの近さで、右目から米粒大の涙がキラキラ光って湧き落ちるのを見ました。人為的方法では芸術をもってしても表現できない美しさでした。他に人がいなければ、像の足もとに落ちた涙を自分のロザリオにつけてみたい──そんな思いに駆られました。──

 これらの証言を列挙したあと、当時の編集者は “注” として、次の言葉をもって結んでいる。
 「十一人の中にも『何といわれようと私は見たままを知らせる』という積極派から、『人を見ながら慎重に』という慎重派まで各人各様だ。しかし十一人は声をそろえてこういう。
 『湯沢台の出来事をいたずらに否定したり無視してはいけないと思う。一日も早く客観的調査に踏み切り、結果を公表すべきではないか』」

 私自身は、この二日間にわたる落涙現象に(外出中の二回目をのぞき)立ち会い、目撃したままを上に述べたわけである。以後、問われるままに、多くの訪問者にも語ってきた。
 とくにこの日の現象は、天使の言葉をもって裏書されているところも、もっと注目すべきことのように思われる。
 「今日の日を大切に」とは、聖ヨゼフへの信心が主に嘉せられることの保証をあたえられたようで、今後も記念として残し、心に銘ずべき事柄であろう。が、更にもっと重大なのは、聖母のメッセージへの真剣な対応への促しである。
 ことにこんにちでは、管轄教区長の公認をすでに得ながら、これらの度重なる奇跡とメッセージの意義を公に世に問うこともなしに、いたずらに時を過ごしている。
 このような重大事に当たっても、超自然性は日常の自然性の邪魔ものかのごとく、現代社会の思惑をはばかり、世間一般と足並みをそろえることにのみ専念しているようでは、やがて大いなる責任を問われるようになるのではあるまいか。

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