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第十二章 聖母と聖ザビエル

 一五四九年八月十五日聖母被昇天の祭日に、聖フランシスコ・ザビエルがキリストの福音の使徒として、はじめて日本の鹿児島に上陸したのは、まぎれもない歴史上の事実である。ほかならぬこの日が、ザビエルを通じて、日本民族とキリストの最初の出会いの日となったことは、聖母のお引合せをおのずと思わせるのである。
 これが、神の祝福と恩恵の端緒となって、多くの人々が入信し、いわゆる切支丹となったことは、あらためて記すまでもないめざましい事実である。
 ザビエルは、ついに志を果たして日本列島の一端に足をふみ入れたとき、ひとかたならぬ航海の苦難をなめたあとだけに、聖母の御保護に心から感謝をささげたことであろう。またこの日が奇しくも聖母のもっとも光栄ある大祭日にあたることに意をとめ、聖母の汚れなきみ心に日本全土を奉献して神への改心の恵みを祈り求めたに相違ない。
 むかしわたしはコロンブスのアメリカ大陸発見を主題とした映画を見たことがある。一行が見知らぬ海岸の波打ち際に上陸するやいなや、そこに跪いて敬虔に祈りをささげた、その感動的なシーンをいまだに忘れることができない。
 ザビエルのような福音宣教の熱に燃える聖人が、はじめて日本の海岸に降り立ったとき、まず熱烈な祈りを神にささげなかったということは考えられない。またとくに史実として資料の裏づけがなくとも、その大祝日に当たった聖母に向かって、宣教のよき効果のためお取り次ぎを願わずにすませたとは、到底思えないのである。
 ともかく、聖人の祈りと聖母のお力ぞえによって、日本の布教はまずいちじるしい成果をあげた。が、間もなく為政者によるおそるべき迫害が起こり、教会史上に例のないほどの殉教の哀史がつづられることになった。
 聖母のお涙は、人々の眼には見えなかったけれども、そのときから、無数の殉教者とともに、日本の上にそそがれていたのではなかろうか。

秋田における殉教

 先にしるしたごとく、姉妹笹川を通じての天使のお告げの中に、「聖母が秋田のこの地をえらんでお言葉を送られたのに……」とあるところから、私は秋田の地に先に蒔かれていた恩恵の種をさぐる心で、秋田殉教史をひもといてみた。キリスト信者ではない著者武藤鉄城氏の労作「秋田切支丹研究・雪と血とサンタクルス」から、以下少し紹介したい。

 「寛永元年(一六二四)六月三日、ついに秋田キリシタン史の悲しき記念日、秋田藩最初の殉教の日が到来した。
 六月三日
 一、 御城御銕砲にて罷出候
 一、 きりしたん衆三十二人火あぶり、内二十一人男、十一人女
 一、 天気よし
 これが、信者たちから鬼のように恐れられた奉行、梅津半右衛門憲忠の弟政景の、その日の日記である。しかもこの大殉教をわれわれに教える日本における唯一の記録である。……
 それにしても最後の『天気よし』の一語が、三百年も過ぎた今日でも、私たちの胸をなんと強く打つことであろう。
 十字架に釘付けられた幾十人もの信者を生きながら焼く煙の、ほのぼのと炎天にのぼる光景が瞼に映るではないか。……
 クラッセの “日本西教史” には、その日の光景を次のように描写している。
 ……宗徒すでに刑場に達するや、一人ごとに柱に縛し、少許を隔て薪を積み、これに火を放てり。ここにおいて各人同声救主の救援を希願し、皆一様に天を仰ぎ救主を呼んで死を致し、殉教の素顔を遂げたり。……
 殉教者の遺骸は三日間人をもつてこれを守らしむ。ここに不思議なるは、夜間天光明を放つといふ出者あり。はじめこれを見認たるは守衛にして、その者よりして基督信者に告げ、ミナの人は霊妙なる示現を見んとして、夜中屋瓦上に登る者もあり。第三夜に至り密雲天を覆ひ、降雨甚だしきに観者三百人に過ぐ。これによつて基督信者は弥々信心肝に銘じ、異教者はただその奇怪に驚くのみ。
 ジアン喜右衛門が柱に縛せられたる時、その懐中より一書を落せり。その記する所は実に聖母を信ずるの深きを見るに足る。よつて一語を略せず左に陳述す。
 『至神至聖なる聖母、余がごとき不似の者にして聖子耶蘇基督を信じ、その恩を謝するを得たるは実に聖母の慈仁に出づるを知る。
 仰希す。余の妻、余の子ら地獄に陥るの苦を救ひ、なほ余らをして死に至るまで信心を失はざらしめよ。
 聖母、余は実に怯懦なり、いづくんぞ大苦難に堪ふることを得ん。希ふ所は聖子救世妙智力を施し、もつてこれに克つを得せしめんことを。余や地獄に墜つるをおそれ、ために聖母に救苦を祈る者にあらず。ただ身を炙肉となして供祭せらるるを願ふ者なり。至仁なる聖母、幸に余の祈願を放棄するなく、余および余の妻子および同社の夥伴を保庇して、死に至るまで信心を聖教に強固ならしめよ。
 余は日本において奉仕する聖教と、これを聞き、これを修めて倦むことなき師父らの事を至心渇望す。これらをみだりに祈請するは実に僭越粗暴たるを知るといへども、かつて聖子耶蘇は架上にありて聖母をもつて衆生の母となす例あり。これ余が恐懼を顧みず、この懇請をなす所以なり』
 右と同じ日の光景を、パジェスの “日本基督教史” にも記録されている。……」

 このような殉教者を出した土地柄の秋田を聖母がえらんで、お言葉を賜り、お涙を示されたのも、理由のないことではない、と思われる。天使はつづけて、「恐れなくてもよい。聖母はおん自ら手をひろげて、恵みを分配しようとみんなを待っておられるのです」と保証される。
 このたのもしい促しにさえ、われわれは真剣に耳を傾けようとしないのであろうか。

日本の再布教

 殉教の血にいろどられた二九五年を経て、ようやくフランスの外国宣教会の一員フォカード師が、日本の再布教を志して渡来した。一八四四年五月一日、琉球の那覇港に到着した彼は、軍艦内の病室でミサを捧げ、感謝の祈りにつづいて “聖母の汚れなきみ心” にこの新布教地を奉献して祈った。この祈りを、少し長いが、浦川和三郎師著の「切支丹の復活」(前篇)から左に引用紹介しておきたい。

 「ああマリアの至聖なる聖心、諸の心の中にも至つて麗しく、清く、気高き聖心、善良柔和、哀憐、情愛のつきぬ泉なる聖心、諸徳の感ずべき奥殿、いと優しき美鑑なる聖心、ただイエズスの神聖なる聖心に遜色あるばかりなる聖心よ、我はきはめて不束なる者なれども初めてこの琉球の島々に福音宣伝の重任を托されたるにより、我力の及ぶ範囲内に於て、この島々をば特に御保護の下に呈し奉り、献納し奉る。その上、いよいよ布教を開始して、その基礎を固め、この島人を幾人にても空しき偶像礼拝よりキリスト教の信仰に引き入れ、一宇の小聖堂にても建設するを得るに至らば、直ちにローマ聖座に運動してこの国を残らず、公に又正式に御保護の下に托すべきことを宣誓し奉る。
 ああ慈悲深きマリアの聖心、神聖なるイエズスの聖心の前に於ていとも力ある聖心、何人たりともその祈祷の空しかりしを覚えしことなき聖心よ、卑しき我祈願をも軽んじ給はず我心を一層善に立帰らしめ、数々の暗黒に閉され居るこの心の雲霧を払ひ給へ。我は大なる困難、危険の中に在るものなれば、願くは、謙遜、注意、鋭智、剛勇の精神を我が為に請求めさせ給へ。全能、哀憐の神なる聖父と聖子と聖霊とはこの賤しき我を用ひて『強き所を恥かしめ、現に在る所を亡し(コリント前一、二八)』幾世紀前より暗黒と死の蔭とに坐せるこの民をば福音の光と永遠の生命とに引き戻し、之に立向はしめ、辿り着かしめ給へ。アメン。」

 その後日本の政治の流れも変わり、鎖国の長い眠りも破られ、切支丹迫害の血なまぐさい歴史も一応幕をおろした。しかし、迫害が止んだからといって、日本のキリスト教化がたちまち進展するものでもなかった。むしろ遅々として、布教の効果は一向にあがらないのが実情であった。
 やがて、日本民族にとって有史以来最大の惨事ともいうべき大東亜戦争が起こり、ついに広島・長崎の大いなる犠牲をもって終局を迎えたが、一九四五年のその記念すべき日が、八月十五日という聖母被昇天の祭日であった。このことは、終戦当時九万そこそこのカトリック信者に、神の摂理による暗合を思わせ、聖母とのゆかりをあらためて想起させるものであった。
 このとき、日本の司教団は一致して、先に述べたフォカード師の範にならい、「聖母の汚れなき聖心に日本を捧げる」ことを決議し、信者たちにもその信心がすすめられたのであった。

 ところで、一九七五年一月四日、聖母像から三回も涙が流された日に、天使から姉妹笹川に告げられた言葉の中に「聖母の汚れなきみ心に日本を献げられたことを喜んで、聖母は日本を愛しておられます。しかし、この信心が重んじられていないことは、聖母のお悲しみです」との指摘がある。
 昔から、神のおん母、人類に賜った母、聖マリアを愛し尊ぶ聖母信心は、教会の伝統から言っても聖書に照らしてみても、もっとも正統な、いつの時代にも重んずべきものであった。先の切支丹たちも聖母への信心によって、苛酷な迫害に堪え、殉教をとげる力を与えられていたのであった。そのように、聖母はいつも日本を愛し、日本民族を心にかけてこられた。その聖母が、なぜ今涙を流されるのであろうか。
 「聖母の汚れなき御心に日本を献ぐる祈」は、今でも “公教会祈祷文” の二四一ページに、そのまま記載されている。しかし、もし誰かが、天使のような眼力をもって、現在の日本のカトリック教会をくまなく見わたしたとしたら、どこかでこの祈りが唱えられているのを発見できるであろうか。口に出して唱えぬまでも、この心を忠実に保って聖母信心にはげんでいる教会を、いくつか見いだせるであろうか。

 こんにちでは、聖母を通して神にお恵みを願うことを、軽んじるばかりか、あたかも迷信か邪道のように言う人さえ、稀ではない。それに対しては、まじめに論議をまじえる前に、まず理解に苦しむ提言、といわざるをえない。
 第二バチカン公会議は、聖母信心に関して、はっきりと言明している。
 「すべてのキリスト信者は、神の母、および人びとの母に対して、切なる嘆願をささげ、教会の発端を祈りをもって助けられた聖マリアが、すべての聖人と天使の上にあげられた天において、今もなおすべての聖人の交わりのうちで、御子の許で取り次ぎを続けて下さるよう祈らなければならないのです」
 聖母は、この公会議の条項が少しも信者たちにかえりみられないことを、泣いておられるのではなかろうか。

 先の天使のお告げのつづきに「あなた方が捧げている “聖母マリアさまを通して、日本全土に神への改心のお恵みを、お与えくださいますように! ” との願いをこめての祈りは喜ばれています」とのはげましの言葉がある。
 この祈りは、聖体奉仕会において、毎日の聖体礼拝中、ロザリオの祈りに先んじて提示される共同祈願の意向の第一として唱えられるものである。
 日ごろ姉妹たちと口にし馴れたこの祈りが、聖ザビエルにはじまり、フォカード師から日本司教団へと受けつがれてきた由緒ある、聖母の御心にかなった日本民族のごあいさつであり、敬愛と信頼をこめたすぐれた祈祷であることに、今さらに気づき、感慨をあらたにした次第である。

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