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第十一章 聖母像の涙

 一九七五年一月四日、三ガ日のなごりの新春気分のただよう初土曜日、午前九時ごろのことであった。司祭館にいた私は、聖母像から涙が流れている、というあわただしい知らせを受けた。
 この日は姉妹たちの黙想の最終日にあたっていたので、私はそのための説教の準備に取りかかっていたが、すぐペンをすてて立ち上がった。
 かねがね、姉妹笹川の受けた三回にわたる聖母のお告げの正真性が証明されるため、神のおはからいの介入が当然期待され、さらに新しい奇跡があるのではないか、と私自身いくらか待ち設けていたことでもあった。
 あとになって考えてみたが、聖母像から涙が流れる、とは誰も思いも及ばなかった異常現象ながら、新しい奇跡としてまさに最も適切なしるしではなかったか。メッセージの内容にもぴったり呼応する、実に感銘深いしるしを賜ったものと、事あらたに頭の下がる思いがするのである。

 当時の様子を、最初の目撃者のひとり姉妹笹川のメモと回想によって再現すれば、次のようである。
 〈朝食後のお礼拝のあとでした。聖堂のお掃除をしていたKさんがあわただしく出て来て、「笹川さん、ちょっと」と、廊下にいた私を呼びました。何事かとおみ堂について入ると、ものも言わずに聖母像を指さされました。「何?」とKさんを見れば、顔は土気色で、さしている指先はワナワナとふるえています。私は御像にもう一歩近づいて、お顔を仰いでみて驚きました。両のおん目に水がいっぱいたまっています。あら、水が…と思うとたん、スーッと鼻筋にそって流れ落ちます。眼から水が流れる……それでは涙ではないか、とはじめて気がついて、Kさんに「まあ、マリア様のお涙かしらね」と問いかけましたが、彼女は棒立ちにすくんだまま、唇をふるわせているばかりです。
 私も急に腰くだけになりかけ、その場にひれ伏したくなりましたが、これはともかく大変なことだ、まず神父様にお知らせしなくては、と気をとり直して、司祭館へお電話したのでした。
 それからあとは、どうなったか、もう無我夢中でした。神父様はすぐとんでいらしたようでしたし、いつの間にか姉妹たちも聖堂にあつまっていたようです。私はもう御像に近づく勇気もなくて、一番うしろでひれ伏していました。(マリア様、おゆるし下さい。あなた様をお泣かせしているのはこの私です。ごめんなさい。主よ、罪深い私を憐みたまえ…)と必死にお祈りしていました。聖母を通してのあれほどのお恵みを無駄にしているため、マリア様は涙を流しておられる! と痛悔の念にうちひしがれていたのでした。
 この日、あと二回もお涙の現象が起こりました。二回目は午後一時ごろでした。黙想参加の二、三名が早目に帰られるので、香部屋係だった私が、聖母像にお捧げしてあったメダイを取りに行ったときでした。メダイを台から取って、ごあいさつのつもりでお顔を仰いだとたん、またお涙を流されているので、びっくりしました。こんどは自分が発見者となって、まぢかに目撃したせいか、前よりも烈しいショックに、打ちのめされそうになりました。それでも気を張ってちょうど一人端の席で祈っていた姉妹に教え、それからいそいで皆さんに知らせに行きました。さっそく神父様と姉妹方があつまり、ロザリオの祈りが唱えられました。
 四時から講話がありましたが、お涙はメッセージの保証である、との神父様の御説明に打たれ、それまで抑えていた私の感動は一時にあふれて、全身の力が脱けおちたようになってしまいました。
 お説教が終わっても立てなくなっている様子を、神父様は気づかれましたが、姉妹たちは私が残って祈っていたいのだと解釈したようでした。
 三回目は、そうしてずっと居残っていた私が祈りに気をとられているうちに、始まっていました。午後六時半、夕食のため呼びに来た姉妹が発見して、私ともう一人祈っていた姉妹に教えました。
 こんどのお涙は、にじみ出るというより、大量にあふれ出る強烈な感じでした。それこそ止めどなく流れ出ています。あとからあとから湧きあがる涙が、糸を引くように、頬からあごから胸へと流れ、したたりつづけているのです。
 私はまたもひれ伏したきり動けなくなり、ただ心の中で、(マリア様、マリア様、なんでそんなにまで……)と言葉にならない思いをくり返していました。
 あつまって来た姉妹たちも、それぞれに胸を打たれたようでした。前の二回では、よく見えなかったりして半信半疑のていだった人も、こんどばかりは明らかな奇跡と信じたようでした。
 この時はじめて立ち
合われた司教様は、脱脂綿を持って来させて、お涙を何度もぬぐい取っておられました〉  この日の落涙現象を目撃した者は、二十名であった。ふだんなら姉妹の数は十名足らずであるが、ちょうど年の始めの黙想会中であったため、地方からも会員が参加していたからである。

 わたしも三回にわたり、つぶさに観察したが、そのつど深い感動をおぼえずにいられなかった。
 木彫の聖母像の両眼が、きらきらと光り、涙がたまり、あふれ出し、流れ落ちる光景は、まさに泣いているお姿としか見えなかった。あとでだれもが口にしたように「生きている人間が泣いている」感じであった。涙が涙腺のある眼がしらのあたりから湧き出、鼻すじや頬をつたわってしたたり落ちるのも、立ったまま滂沱たる涙を流している人間の場合とまったく同様である。涙のしずくはあごの下に玉のように留ったり、衣の襟にたまったり、さらに帯を越え衣のひだにそって流れ落ちて、足台をぬらしていた。
 このようなことを、だれが自然の現象として説明できるであろうか。のちにこの “水分” は科学分析によって “人間の涙” と証明されるのであるが、いま乾き切ってヒビさえある木彫の両眼からあふれ出るものを見た時点で、これこそ神の能力によって創られた聖母の新たな涙である、と感じずにいられなかった。
 信じるか、信じないかの問題を超えて、目撃者はみな「聖母が泣いておられる」と感じ、心を打たれた様子であった。
 時がたつにつれて、のちには何かの疑いをもつ者もあったようである。超自然の奇跡というものは、人間の理知の光をあてはじめれば、理解も解決もできず、当然疑念のうまれる余地がひらけてくるのである。
 だいたい、奇跡は自然の法則をはるかに超越したもので、神の全能の力によってのみ行なわれる、とすれば、奇跡の大小を論ずることも意味がない。ただ黙して頭を垂れるべきであろう。
 現象を軽んずるばかりか、超能力説などを持ち出して片づけようとする執拗な試みが、以後つづくのであるが、それを裏づける根拠はついに得られない。十年にわたる科学的調査も、超自然性を否定するにいたらなかったのである。
 あえて私見をのべれば、木材から人間の涙を出させるのは、水をアルコールに変えるのと同様に、人力を超えたことではなかろうか。ここに、ヨハネ福音書にみられる、カナの婚宴の席上でイエズスが水をブドウ酒に変えられた奇跡に匹敵する驚異的現象を見る思いがするのである。
 地元の一流の彫刻家若狭三郎氏によって、十余年前に製作されたこの木像は、桂の木を材料としているが、当時すでにすっかり乾燥しきって、ひび割れの筋が細く走りはじめていた。そのような木材からあふれるばかり水が流れ出たことだけでも、驚異である。しかも、すこし塩分をふくんだ “人間の涙” そのものが、像の特定の部分、両眼だけから流れ出てきたのである。
 はじめは驚きのあまり、誰も写真をとることなど思いつかなかったが、のちには、カメラにおさめられて、客観的な証拠が残されている。これさえも幻想や錯覚のたぐいと一蹴することができるであろうか。

 こうして一九七五年一月四日に始まった聖母像の落涙現象は、時をおいてあるいは日を継いでくり返され、一九八一年の九月十五日まで延々と、百一回もつづくのである。
 もちろん、各回の状況は、判で押したように同一ではない。涙の量も流れ方も、人間の場合と同様まちまちである。
 以下、時を追って、その次第を述べてゆきたいと思う。

神秘に直面して

 一月四日、聖母像からはじめて涙が三回流れるのを目撃した人々の驚きに大差はなかったものの、その精神的な受けとめ方はまちまちであった。とはいえ、各自が自分の目であきらかに認めた事象は、否定すべくもなかった。
 人間はこのような不思議なこと、自然界には起こりえないことに直面すると、まず衝撃の一時が過ぎたのち、その意味を問うものである。魂に受けたショックが大きいほど、真意をさぐらずにいられぬであろう。あるいは神から与えられた何らかのしるし、と考えられるならば、畏れつつしんでその意味するところを慎重にさぐるであろう。
 いわゆる不可思議現象が、人間の巧妙なトリックによる奇術のたぐいであるならば、驚嘆のひと時が過ぎるとともに、かんたんに忘れ去られるのである。また、自然現象を超えても悪霊のはたらきによって生じる場合は、人は一瞬異常な衝撃を受けても、それは時とともに薄れ、魂に深い影響をのこすことはない、と神秘神学者たちは言っている。
 反対に、神からの超自然的働きかけである場合は、かならずその “しるし” にふさわしい意味が伴うものである。それを認め受け入れることによって、人は神意に添うようになる。これは福音と矛盾するものではなく、むしろイエズスの「われは世の終わりまで汝らとともにあらん」とのお約束の、一つの現れとみてもよいであろう。

 ところで “聖母のお涙” は、どのように解釈されたであろうか。

天使のことば

 先に記したごとく、姉妹笹川は二回目の “御涙” を発見してから、驚きと感動のあまり、身動きができぬ有様になっていた。黙想会を閉じる最後の祝福としての聖体降福式が終っても、まだ腰が立たない彼女は、居残っていた姉妹を送って “御報告があるから” と司教様と私に聖堂に来るよう頼んできた。
 その時われわれに伝えられたことは、のちに正確を期して記録させたが、次のようである。
 「御講話のあと、ロザリオの祈りの時、久しぶりに(私の耳が聞こえるようになってからはじめて)守護の天使が現れて、いっしょに唱えてくださいました。それがすむと一時お姿が消え、準会員の奉献式が終って念祷の祈りに入ってしばらくたったとき、また現れて、次のようにお告げになりました。
 『聖母のお涙を見てそのように驚かなくてもよいのです。聖母は、いつも一人でも多くの人が改心して祈り、聖母を通してイエズスさまと御父に献げられる霊魂を望んで、涙を流しておられます。
 今日、あなた方を導いてくださる方が、最後の説教で言われた通りです。あなた方は見なければ信心を怠ってしまう。それほど弱いものなのです。聖母の汚れなき心に日本を献げられたことを喜んで、聖母は日本を愛しておられます。しかし、この信心が重んじられていないことは、聖母のお悲しみです。しかも秋田のこの地をえらんでお言葉を送られたのに、主任神父様までが反対を恐れて来ないでいるのです。恐れなくてもよい、聖母はおん自ら手をひろげて、恵みを分配しようとみんなを待っておられるのです。聖母への信心を弘めてください。今日聖母を通して、聖体奉仕会の精神に基づいて、イエズスさまと御父に献げられた霊魂を喜んでおられます。このように献げられる準会員の霊魂を軽んじてはなりません。あなた方が捧げている “聖母マリアさまを通して、日本全土に神への改心のお恵みを、お与えくださいますように! ” との願いをこめての祈りは喜ばれています。
 聖母のお涙を見て改心したあなた方は、長上の許しがあれば、主と聖母をお慰めするために、一人でも多くの人々に呼びかけ、聖母を通して、イエズスさまと御父に献げられる霊魂を集めて、聖主と聖母の御光栄のために、勇気をもってこの信心を弘めてください。
 このことをあなた方の長上とあなた方を導くお方に告げなさい』
 と言って、私の顔をのぞきこむようにされてから、そのお姿は消えてゆきました」

 天使がはじめに「そのように驚かなくてもよい」と言われたのは、姉妹笹川が “お涙 ” から受けたショックで、なおも身動きできぬ状態にあったことへの慰めと励ましのように受けとれる。
 次いで、聖母のお涙は、一人でも多くの改心する霊魂を求めてのものである、と明かされる。そして、聖母を通して聖主と御父に献げられる霊魂を望んで涙を流される、との説明によって、それがどれほどの切なるお望みであるかを強調される。
 次に、今し方行われた準会員の奉献にふれて、「聖体奉仕会の精神に基づいて献げられる霊魂」が聖主とともに御父に喜んで受け容れられることを保証し、この奉献行為を軽々しく考えぬよういましめられる。たしかに、教会の古くからの伝統として、聖母を通してイエズスへ、イエズスを通して御父へ、すなわち三位一体の神へと向かう、いわば奉献の手順も思い合わされるのである。
 また、天使に指摘されるまでもなく、聖母がとくに秋田のこの地をえらんで、お言葉を下さり、日本全土に神への改心の恵みを与えようと、手をひろげて皆を招いておられるとは、実におどろくべき御厚志である。これこそ、聖フランシスコ・ザビエル以来、四百年も、多くの殉教者とその子孫たるわれわれが、血と涙を流してあこがれ求めてきた恩恵ではなかったか。

人々のことば

 この二日後の一月六日(月)の夕方、秋田地区の司祭たちの新年の会合があり、私も司教のお伴をして出席した。一応会の議事も終わり、座談に入ったとき、一員から次のような発言があった。
 「このたび、聖母像の涙のうわさを耳にしましたが、それはどの程度確実なものなのか、また、それを司教様はどのように受けとめておられるのか、お考えをうけたまわりたい」  これにたいして他の者はすぐ「聖母像に関するそのような一連の出来事などは、現代においてはタブー視される事柄であり、むしろ積極的に拒否すべきである」と強硬意見を述べた。
 またある人は、
 「自分がかつて神学を学んだ過程において、とくに “聖母” を研究テーマにえらんだので、教父たちの著書も多く調べてきました。その結果二つの点が明らかになりました。当時はまだ聖母被昇天の教義はドグマになっていませんでしたが、必ず将来の教会で信仰個条として発表される確実性をつかんだのでした。他の一つは、今もまだドグマではありませんが、“すべての聖寵の仲介者なるマリア” という点です。これもやがて信仰個条として発表されることは確実とさとりました。
 先に、修道院の聖母像の手から血が流れたという話を聞いたとき、木の材質によっては何年かたつと、樹液というか、ヤニのような赤いよごれが滲み出るのを見た経験があるので、それがたまたま聖母像の手の部分におこったもの、と考えていました。しかし、こんどは涙が流れたということになると、これには否定できない条件が具わっているようで、半ば信じる気もちになっています。ただし、それがほんとうに神の仕業であるか、奇跡であるか、ということは、こんにちの科学の分野での裏づけがないかぎり、認めるわけにいきません」
 と主張した。
 これらの発言に対し、司教は、個人の立場として、
 「自分は以前に聖母像の手の傷も、そこから流れ出た血も見ているが、今回、眼から流れ出た涙を綿をもって拭ったとき、血の場合とははるかにちがって、その不思議さを感じた。これこそ奇跡ではなかろうか、と思った」
 と述べられた。

 このほかにもいろいろ意見が出されたが、聞いているうちに私に一つの決意が起こり、強く固まった。では科学の証明を求めよう、と。
 日ならずして私は、一年半前に聖母像の右手の傷から流れた “血” を拭きとったガーゼ、その後の “汗” をふいた綿、一月四日の “涙” をぬぐった綿を取りそろえ、秋田大学医学部を訪ね、奥原教授に相談をもちかけた。そしてその御仲介で同大学法医学研究室において、勾坂先生に精密な検査をお願いすることになった。もちろん、これらの検査対象がどこから採られたかは明かさず、純客観的な調査を依頼したのであった。
 心待ちにした二週間後の結果は、“ガーゼの付着物は完全な人血である” こと、“二個の脱脂綿塊に付着する「汗」と「涙」は、ヒト由来のものと考えられる” ということであった。
 それらの鑑定物件には、他の人間が触れたための多少の汚れは付着していたということであったが、それとは関係なく、完全な科学証明が成立したのであった。
 さらに、出所を知る者にとって意外なことに、鑑定によると血液型はB型であり、汗と涙のヒト体液はAB型である、と判定されたのである。
 同一人物の血液型と体液の型とが相違することは、普通考えられず、科学的には不可能とされている。
 ここでちょっとした混乱が生じることになった。先に “聖母像のふしぎ” をいち早くとり上げていたカトリック・グラフ誌は “聖母の血液型はB型” とすぐ報じてしまっていた。そこで、次に汗と涙はABとなっても、それも同じB型で押し通す結果になった。辻つまを合わせる善意からであろうか。それとも、綿に付着していた他の人間の手の汚れの故に、体液のAB型は無視したのであろうか。ともかくそれで、この事件に関する第一次調査委員会では、聖母像よりの血液のB型のみを取り上げ、涙も汗も当然同型のものとしてしまった。しかも、姉妹笹川の血液型がB型であるところから、この一致ですべてが解決できると考えられた。すなわち、姉妹笹川はいわゆる超能力をもった特異の人間であり、聖母像の涙もその能力によって自分の涙を転写したものである、というまことしやかな解釈である。
 いかにも想像力をたくましくした、早急な結論である。
 しかし真実は、もっともらしい空論のフタで蔽い切れるものではないのである。

 その後、一九八一年八月二十二日、天の元后聖マリアの祝日に、聖母像から久しぶりに涙が流れることが起こった。先の血液型のこじつけから来る悶着で悩まされてきた私は、再検査を求めようと思いついた。その意外な結果については、後にあらためて詳述したい。

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