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終 章

(1)

 私は一九八四年一月から二年にわたって、聖体奉仕会の会報「湯沢台の聖母」誌に、“聖母像をめぐるふしぎな出来事” について書いてきた。その間、当該教区長であった伊藤司教が「秋田の聖母像に関する書簡」を出され、ここで起こった一連の現象の超自然性を公認されたので、さらに、真実を詳細に記述する必要を感じた。これらすべての上に神の摂理の御手を見る私としては、何事もおろそかにできぬ気がしている。
 全能であられる神は、元来人間の能力や働きを必要とされないが、それでも何かにつけ日常の事件、幸・不幸を活用して、はかり知れぬ摂理のみわざを進めておられることは確かである。とすれば、私たちは神のはからいに自分のすべての働きを委ねるべきであろう。私も湯沢台の聖母のみもとに十二年間ふみとどまってみて、神の御はからいの深遠さを、幾分か思い知らされた感を抱いている。もし今後もこれほどの年月をながらえさせて頂けるとすれば、さらに一層深く、神意の測るべからざる玄妙を悟り、頭を垂れることであろう。
 ただ、過ぎた日々を今ふり返れば、次々に押し寄せてきた試練の千辛万苦には、あらためて慄然とせずにいられない。これからも前途は平坦とはいえず、形はさまざまでも十字架の道は長くつづくことであろう。

 十五章にわたって述べた聖母像にまつわるふしぎな出来事は、一九八二年五月三十日聖霊降臨の祝日にあたっての姉妹笹川の耳の治癒をもって、一応終わっている。その完全治癒の実現にさかのぼって、一言付け加えれば──五月一日、聖体礼拝の時、姉妹笹川に守護の天使が現れて「あなたの耳はマリア様に捧げられた月に完全になおる」と告げられたことは前述したのであるが、その時が天使の出現の最後であったことは書き洩らしていた。
 姉妹笹川は、かつて第一調査委員であった神学者から「あなたに姿を現して導く女の方というのは、あなたが自分自身に語っている精神的錯覚であってあなたの二重人格的作用である」と言い渡されていた。それがいつも気になっていた彼女は、耳の治癒を告げられた時、よい機会と思って質問してみた。
 「あなた様は、私自身が私に語っているものでしょうか」ときくと、その方は頭を振って、「そうではありません。私はこれまであなたに姿を現して導いてきましたが、これからはもう姿を見せることはありません」と答えられた。そして彼女を離れて、この世ならぬ美しさの、まさに天上的な輝きの天使群に吸い込まれて行かれた。
 この報告を聞いた私は、すぐ委しいメモをとるように命じたが、“こればかりはどうにも書き表しようがない” ということであった。ともかく、彼女はその時、これまでのしつこい疑惑の雲が吹き払われるのを感じ、言いようのないない天来の慰めを魂の奥底まで受けたのであった。
 それ以後、天使の出現は、事実、起こっていないという。
 聖母像をめぐってのふしぎな現象が終わり、メッセージの意味もすでに伝えられたことを思えば、天使のとくべつの介添えの使命が終わったのも当然のように思われるのである。

(2)

 さらに神のはからいの一つとして挙げておきたいのは、一九八五年十二月、準会員会館 “聖マリアの家” の完成である。
 思い返せば一昨年の二月二十七日に始まったことであった。懇意の棟梁の紹介で、四キロばかり離れた処に、建て替えのため廃屋にされるという旧い農家を見に行ったのである。
 私は数年前、飛騨の高山に合掌造りの民家を訪れて以来、こういう日本建築にあこがれをもった。そして聖体奉仕会も訪問客の増加につれて拡張の必要を感じていた折から、もしいつか建て替えをする農家をゆずり受ける好機があれば、との希望を棟梁につたえておいたのであった。
 三人の姉妹と共に検分に出かけたその日の朝、御ミサの終わりに私は “それを準会員のための家にするように” というお示しのようなものを感じた。そこで雪道を行く車の中で姉妹たちにその旨を告げ、よく観察するよう注意したのであった。
 それは、建坪百坪の平家であった。百二年を経たという建築で、用いられている木材は私が今まで見た旧家の材料をはるかに超える大きさの堅牢なもので、損傷もなくそっくりそのまま使えるようであった。姉妹たちの同意を得てただちに家主との交渉に入り、もらい受けることに決定したのである。
 さっそくこの朗報を準会員に通知し、有志の援助を乞うことにした。そして期待を上回る賛同と多方面からの有形無形の支援を得て、その年の終わりに早くも補修拡張建築は完成したのであった。
 当初の “準会員会館” の名称だけでは固苦しいので、もう一つ親しみやすい呼び名がほしいということになり、会報を通じて公募の結果「聖マリアの家」と名づけることとなった。
 この新館のおかげで、準会員ばかりか、司教書簡による公認以来増えつづける巡礼客をも迎え容れることができるようになった。現在は、二階の各室を巡礼者の宿泊用に、一階の奥座敷を假聖堂に当てている。
  “聖マリアの家” 落成を祝うクリスマスのミサは、地元の秋田魁新聞が取材に来るほど華やかな式典となった。雪を戴く合掌造りをいささか想わせる、古風で新しい会館の写真を社会面に大きくかかげた報道記事を見ながら、私はひそかに思いめぐらさずにいられなかった。この建て替えの話が、もしも前年の私の病気中に起こっていたとしたら、どんなに望ましくとも到底手を出すことはできなかったであろう、と。
 (私事ゆえにこれまでふれずにいたが、実は一九八三年の二月、突然私は病魔におそわれ、再起不能の失語症ということで、医師から、今後司祭生活への復帰はあきらめるよう、宣告されたのであった。それが一ヵ月で退院後、ただちにミサも挙げられ、説教も徐々にできるようになった。医師も驚くほど奇跡的なお恵みであった)
 ともかく、わずか二年前には誰も夢想だにしなかった “聖マリアの家” という現実を前に、これこそ神のはからいと感慨をふかめたことであった。

(3)

 こんどの復活祭で、秋田の聖母に関する司教書簡が発表されて満二年となる。その反響として、一般の信者にはおおむね歓迎されても、カトリック聖職者の間には妙にゆがめられた雑音が伝わっている、と聞くのである。
 たとえば、司教書簡で公認されても、まだローマが認めていないとの理由で、強硬な反対意見が流布されているという。
 それに対して、私自身反駁を試みるよりも、次の文献を援用させていただくことにする。
 最近出された志村辰弥師の「ファチマの聖母の啓示」と題された書物の中に “教会の承認” という一項がある。その中で、ファチマの出来事は、御出現の十三年前の記念日にその地区長であるシルワ司教によって公認された。その翌年、リスボンのセレエーラ枢機卿がポルトガル司教団及び大群衆と共に、コーワ・ダ・イリアへ巡礼を行った。やがて教皇パウロ六世、ヨハネ・パウロ二世も巡礼に訪れた、という事実が挙げられている。
 さらに志村師は、先に公にされた小冊子「聖母像から血と涙」の第五版に加えられた “結語” の中で、次のように言明しておられる。
 「秋田の聖母の啓示は、目下重大視されているファチマの聖母の啓示と全く同じであって、人類破滅の危機にある私たちへの警告であることを思うと、それを無視することはゆるされない。
 一方、これに関して、ローマからの公認がないからという声もあるが、こうした問題について、ローマは公認の権限を地方の司教に委ねているので、ローマは司教が認めたことを暗に支持する程度で、公認の公表はしない。ファチマの聖母の出現に例をとってもそうである。すなわち、はじめに地区のシルワ司教が認め、つづいてポルトガル司教団が認め、やがてパウロ六世教皇がファチマへ巡礼したことによって、公式に認められたことになったのである」
 この指摘によっても明らかなように、秋田の聖母の出来事が、ファチマの場合と同じく当該教区の伊藤司教の公的書簡によって認められたことは、とりも直さず全世界のカトリック界に公認されたことになるのである。こんにち世界各地に聖母出現の話がもち上がるたびに “その地区の司教は何と言っているのか” が、識者の第一の質問となるのは、そのためである。ローマから公式に委任されている責任者として地区司教が明らかな判定をくだしても、なおもってローマの公認を云々するのなら、ファチマもいまだに信をおきかねる問題の地とされるのであろうか。あるいは、湯沢台にも教皇が巡礼に来られたら、信じてもいい、というわけであろうか。

 ともあれ、“秋田の聖母の出来事” が司教に公認された事実は、よろこばしいたよりとして、各地に伝わって行った。日増しに多く “静かな祈りの山” をはるばる訪ね、聖母像の前にぬかずく巡礼者の表情も、一層信頼にみち、あかるく輝くごとく見受けられる昨今である。
 志村師の「聖母像から血と涙」も、今では仏・独訳が出版され、ひろく西欧の人々に知られ、手紙なども寄せられるようになった。やがて各国からの巡礼者が更に増すのも夢ではない、とおもわれる。すでにお隣りの韓国からは、数十名から成る巡礼団がたびたび来訪されて、近隣の素朴な住民たちの目をみはらせている。
 今後はさらに広く、より遠く、波紋はひろがるであろう。未来の空に、聖母マリアの栄光がいやおうなしに輝きわたってゆくのを、望み見る心地がするのである。
 結語として、「使徒行録」にあるガマリエルの有名な良識の言を引くことをお許しいただきたい。
 「そこでわたしは今、諸君に申し上げる。あの人々のするままにさせておきなさい。もし彼らの企てや業が、人間から出たものなら、自滅するでしょう。しかし、もしそれが神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできないでしょう。まかりまちがうと、諸君は神を敵にまわす者となるかもしれません」(使徒5・38−39)

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