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第八章 ためらいの日々

 春浅い湯沢台に住みついた私の最初の日課は、ここのささやかな生活のリズムに順応することであった。
 やがて姉妹たちの口から、待ちかねたように、これまでのふしぎな出来事の委細が、語られはじめた。
 まず私は当惑した。そのような事柄は、おいそれと信じられるものではない。それに、奇異な現象の中心人物とみられる姉妹笹川も、べつに他と変わる所のない、ごく普通人の感じである。聞かされる話だけが、夢の中か別世界の出来事のように、現実から遊離していて、私にはさっぱりつかみどころのない情況であった。
 いきなり、天使がどうのこうの、と言われても、誰しも応対にこまるであろう。天使が自由自在にとび廻れる場としては、黙示録の世界くらいしか考えられないではないか。
 しかし、これまで述べてきたあれら一連の出来事は、姉妹笹川に出現する天使の事実を信じなければ、理解も解決も不可能なわけであった。
 だいたい自分の今までの生活をふり返ってみても、聖書によむ以外に、天使が現れた話など、身近にも遠くにも、聞いたことがない。守護の天使にしても、そうたやすく姿を見せるものであろうか。私にとって、その実在は信じられても、それは信仰の世界にのみ存在する性質のものであった。
 それゆえ、姉妹笹川の守護の天使が、まるで人間のひとりのように姿を見せて語りかけ、応答もする、などと聞かされても、そのまま呑みこむわけにはゆかぬ。いくら神秘の世界に属することとはいえ、何か現実に認識できるそれなりの証拠が必要であった。
 そこで私は、頭から拒否はしないまでも、何か信じるに足る証明を、暗に求める心の状態にあった。
 たとえ好意的にみても、その天使というのが、真の実在であるのか、いわゆる深層心理のはたらきに属する幻影であるのか、見きわめる必要が感じられた。
 精神分裂症というような疑いは、全然念頭にうかばなかった。生活をともにするにつれ、彼女が、普通人と一向変わらぬことは、いよいよ明らかになる。ことに祈りにおいて、まったく異常性がみとめられぬし、信仰生活において特に恵まれているという印象も受けない。あらゆる点で、他の姉妹たちと異なるところがない。食卓の会話でも、皆と同様に、時におしゃべりであり、話しぶりに多少の誇張もあれば、言葉の意味のとり違えなどもしている、ほほえましさがみられた。
 ともかく、そんな状態のうちに一ヵ月半が過ぎ、私は常に、“信じるために必要な何か” を、心待ちにしていたのであった。

マリア庭園の発想

 みちのくの遅い春も四月半ばともなれば、窪地の残雪もようやく消え、見わたすかぎりかげろうのゆらぐ世界となった。小さな修院をとりかこむ原野に立ち、遠くそびえる太平山、近くにならぶ丘々を眺めるうち、私のうちにひとつの夢がふくらみはじめた。
 日本の風光の美は、山や川など自然の起伏に富み、四季の変化に恵まれる点に、負うところが多いと思われる。そして、そのような美の条件の具わっている所には、必ずといってよいほど、昔から宗教的な礼拝所が建てられている。私は、高野山をはじめ比叡山、永平寺その他の名刹を訪ねるたびに、その感を深めていた。ヨーロッパでも、キリスト教の有名な巡礼地は、きまってそのような場所にみられるようである。
 また私はかねてから、日本人の心情に聖母への信心を植えつけることを念願としてきた。というのも、これまでキリスト教国の人々の信仰の根づよさや犠牲心をみると、それは単なる伝統や教義的理解によって養成されたものではない、と思われたからである。多くの聖人伝を読んでも、そこに聖母への素朴で強烈な信心を見いだすことができる。
 ヨーロッパの人々が、カトリックの純粋な信仰を、二千年近くも養い育て、保ちつづけてきたというのは、ひとえに聖母への厚い信心の賜であったに相違ない。われわれに身近な日本の切支丹の人たちにしても、あのおそるべき迫害の中で、サンタマリアへの信心によって、キリストに対する信仰を守ってきた、という事実はまさに驚嘆に値する。
 これらのことによって私は、日本の国土にキリスト教の信仰を根づかせるためには、とくに聖母の御保護と、人々の聖母に対するまことの信心とが、大きな意義をもつのではなかろうか、と気づいたのであった。
 そういうわけで、以前、司牧の任にあたっていた教会において、聖母のルルド出現百年目を記念して聖母像の制作を依頼し、庭に安置したのであった。さらに、聖母信心のために、ふさわしい庭も造りたいと考えた。とくに日本の庭は宗教的雰囲気にみちているので、そういう庭園の企画をたてた。だがいざ実行となると、資金の捻出が問題となり、信徒たちの一致した賛同は得られなかった。にもかかわらず私は、聖母の御保護に信頼して実施にふみ切った。こんにちも、その信頼が予想以上にむくいられたことに感謝し、多くの協力者のために祈りつづけている次第である。

 そのような経験があるだけに、こんどの “夢” というのも、べつに突拍子もない思いつきではなかった。
 まだ自分としては確信をもつに至らぬけれど、ここが聖母に選ばれた土地であるとすれば、祈りの園としてマリア庭園を造ることも、将来のため有意義ではなかろうか、と考えるようになったのである。
 そこで、聖体奉仕会の姉妹たちに思いつきを話し、それとなく意向をはかったところ、全員が賛成で、ぜひ実現させたいということであった。
 しかし、ここでもやはり問題となるのは、要する費用であった。
 約二千坪という広さの地所を手がけるだけに、経費も並々ならぬものとなる。責任者の姉妹たちは、会の長上たる司教様が健康を害され入院中であったので、お見舞を兼ねて訪ね、この計画を語って許可を願った。が、案の定、費用をどうするかという点で、難色を示された。もちろん、まだ全然予算も立たぬ話なので、一応できるだけのことをし、可能な範囲での庭造りをしつつ、あとは御摂理に委ねる、ということで、ようやく納得して頂いたようである。“御許可” の報告は、修道会の全員に大きな喜びと希望をもたらし、日々の生活のはげみと支えにもなったのであった。
  “聖母に捧げる日本庭園” は、毎日の共同祈願の意向に加えられ、また聖ヨゼフのお取り次ぎをも願うようになった。
 五月一日の “勤労者聖ヨゼフの祝日” を迎えて、経済的にも責任を感じる私は、御ミサを捧げる前に、一言申し述べた。
 「今日は勤労者聖ヨゼフの祝日でありますので、マリア庭園のために、とくに聖ヨゼフのご保護を願いましょう。聖ヨゼフは聖主と聖母のために、ご自分の一生涯を無にして尽くされた方ですから、天国においても、きっと、聖母のために造られる庭のために、喜んで協力して働いてくださるに違いありません。そのための御ミサを献げます」
 御ミサが済み、朝食を終えたあと、いつものように聖体礼拝を行った。
 祈りの後、姉妹笹川が私に近づいてきて、次のような報告をしたのである。
 「いつも大事なことを教えてくださる守護の天使が、今日、御聖体の礼拝中に現れて、 『あなたたちを導いてくださる方のお考えに従って捧げようとしていることは、聖主と聖母をお喜ばせする、よいことです。そのよい心をもって捧げようとすればするほど、多くの困難と妨げがあるでしょう。
 しかし今日、あなたたちは聖ヨゼフ様に御保護を願い、心を一つにして祈りました。その祈りを聖主と聖母はたいへん喜ばれ、聞き入れてくださいました。きっと護られるでしょう。外の妨げに打ち勝つために、内なる一致をもって信頼して祈りなさい。
 ここにヨゼフ様に対するがないことは、さびしいことです。今すぐでなくとも、できる日までに信心のを表すように、あなたの長上に申し上げなさい』
 と言ってお姿が消えました」
 (その後、聖堂に聖ヨゼフの御像が安置されたが、現在の御像は数年後にある奇特な方が、聖母像の製作者若狭氏に依頼され、同じ桂材をもって対になるように彫られたものである)

 このようにして、私ははじめて、姉妹笹川を介して、天使の働きかけなるものを具体的に知ることになった。
 しかし、その真実性は、マリア庭園そのものが、将来天使のお告げのごとく、ほんとうに完成できるか否かにかかっていると思われた。
 そうして、私は以後、十年の歩みによって、次第に否応なく目を開かれるのである。

聖母に捧げる苑

 みちのくの一隅に聖母崇敬のために日本庭園を造る思いつきは、すみやかに夢想の域を出て現実の企画の対象となった。それも “聖主と聖母を喜ばせるよい事である” と天使から知らされた以上、万難を排して事に当たるべきである、と私たちは勇み立った。常日頃、すべてを捧げて神に仕えたい、と志すほどの者ならば、聖旨にかなうとさとった業に伴う苦労は、甘受するはずである。

 この時私は、教皇パウロ六世の教書 “マリアリス・クルトゥス” を思い出した。一九七四年二月二日、主の奉献の祝日にあたり、聖ペトロの教座から全世界の司教たちに宛てて送られた、聖母崇敬に関する長文の勧告文である。その最後は「私が、神の御母に捧げる崇敬について、これほど長く論ずる必要があると思ったわけは、それがキリスト教的敬神の欠かせぬ構成要素だからです。また問題の重大性もそれを要求したのです」と結ばれ、また前文の部分では「キリスト教的敬神の真の進展には、必ず聖母崇敬の、真実で誤りのない進歩が伴うものです」と強調されている。
 私は、この山に来てから、教皇のこれらの言葉に接して、聖母崇敬の念を一層鼓舞されるのを感じたのであった。
 かつて青年時代、カトリック司祭になる志望を固めたのは、聖母信心に関する説教を聞いた際であった。
 やがて司祭となってからは、宣教の務めのうちに聖母崇敬について多く語り、またロザリオの祈りをできるだけ唱え、人にもすすめてきた。このため「古めかしいマリア崇敬論者」との陰での批判の声も、たびたび耳にしたのであった。
 近頃は、典礼刷新運動によってか、新築のモダンな聖堂の中に聖母像が見かけられぬことが多い。古い教会でも、マリア像を取り除いたり、小さな物に替えたり、出入口にまるで装飾品のように据えたりしている。
 こういう情景を目にし、“古めかしいマリア狂徒” というような嘲笑を耳にするたび、この人たちは教皇パウロ六世の「キリスト教的敬神の欠かせぬ構成要素」という言葉を、どのように受け取っているのだろうかと、胸が痛くなるのである。
 昔ある教会の司牧の任にあった時、私はやはり聖母崇敬をとくに信徒たちに植えつけようと努力した。当時、全学連の政治運動が、日本中に氾濫し、カトリック教会の中にも進歩的聖職者の先導によって浸透しつつあった。そのような機運に際して、聖母崇敬を説くことは、手痛い反撃を招くばかりであった。こちらも一歩もゆずらず防戦したが、あのはげしい攻防は今もって記憶にあざやかである。
 これらを思うにつけ、“十字架の道行” の古い絵の一場面が目にうかんでくる。十字架を負って歩むキリストの前後に、あどけない子供や少年たちが、捨札を持ったり、キリストにつけられた綱を引いたりしている。それらの群れに、聖母を軽んじる若い信徒たちの姿が二重写しに重なって見え、どうしようもない悲しみがこみ上げてくるのである。
 日本の在来の宗教はもとより新興宗教においても、土地や資材は惜しみなくその信仰の対象のために献げられている。ところが唯一最高の神の礼拝を標榜するカトリックの聖職者や信徒が、その尊崇を表わすに適当な場所を造ることには一向心を用いない。土地があれば、まず当節流行の諸施設をつくることを考えたりする。だが、土地もまず神様から頂いたものではないのか。先日見た例では、せっかく設けられた祈りの場 “ルルド” が、駐車場にされて、聖母像に近づくことも困難な有様になっていた。これでは、神に献げるどころか、神の物まで人が奪っているのではないか。
 最近では、聖職者、信徒を問わず、“進歩的” な人々の間で、“今はもう聖堂を建てる必要はない。各家庭でミサを捧げれば充分だ。神のみことばに生きるとは、世俗社会に入って行くことである。隣人愛の奉仕をすることは、ミサに参加するよりも重要性がある” というような意見が巾をきかせているらしい。それが “キリストに生きる” という意味だ、と主張される。
 しかし、真の隣人愛というものは、まず神と結ばれた愛から発生するものである。大いなる愛に捧げる犠牲的愛に生きることによって、はじめて可能であり、単なる人間関係の横のつながりのみの隣人愛は、畢竟、肉身の愛の域を超えるものでないことをさとるべきである。
 近年、万事に “新しさ” がもてはやされ、革新とか新風の導入が安易に歓迎されるようである。教会の中でも、ミサ典礼の様式が刷新されたことが大いに喜ばれているが、もしもこの気運の行き過ぎでミサや典礼の本来の神聖さが失われてゆくならば、それは信仰生活に悲しむべき損失を招くこととなるであろう。こんにち、私たちの充分戒心すべきところと思う。
 一九七五年一月四日、ここの聖母像から最初の涙が流されたとき(この件については、後の章に詳述するが)、姉妹笹川に守護の天使が告げた言葉の中に次のような語がある。 「……聖母は日本を愛しておられます。……秋田のこの地を選んでお言葉を送られたのに……聖母は恵みを分配しようと、みんなを待っておられるのです。聖母への信心を弘めてください」
 この忠告にも、私は聖母崇敬を介して神に捧げる祈りの苑、マリア庭園の重要な意義の裏づけをみる思いがしたのである。

開園まで

 一九七四年の五月一日以来、マリア庭園の構想を練りはじめたとはいうものの、すぐさままとまった形になるわけではなかった。それでも私は、姉妹たちとはかり、五月三十一日の聖母御訪問の祝日を期して、地鎮祭を行うことにした。
 ところがその前日にふしぎなことが起こった。前晩の祈りのため聖堂に入って私も着座したとき、突然姉妹のひとりがふり返って「マリア様のお顔が変わっています」と上ずった声で告げた。はっとして仰ぐと、たしかに御像の顔の部分だけが、全体からきわ立って赤黒く、彩色されたかのように変色している。
 一同の動揺を感じた私は、いつもと同じ態度をとり、今は黙って祈るべき時である、という様子を示した。
 聖堂を出てから姉妹たちは、それぞれ受けた同じ印象を語り合っていた。
 今あらためて回想を求めてみたところ、姉妹笹川はこう答えた。「御像から泌み出るおん汗をぬぐったり、おん手に傷を見たりしたときは、木の御像なのに…というショックをまず感じました。でもこの時は、“御像は活きていらっしゃる! ” という印象をつよく受けました。御衣と髪の部分は白っぽい木地のままなのに、そこから脱け出ているお顔と両手と両足だけ、陽やけした肌のように、くっきり赤黒く色づいています。それも、色が黒い、といううす汚れた感じではなく、美しいつやを帯びたいきいきした赤黒さでした。ああ、生きていらっしゃるお母さまなのだ! という喜びにみたされたことを、おぼえています」
 この時の変化は(両手の部分をのぞき)多少色がうすれたものの、今も残っている。先年、これを手がけた彫刻家の若狭氏が見に来られた際、木彫のある部分一帯が変色することはあっても、このように特定の個所だけがくっきり彩られたように色を変えることは自然では考えられない、と驚いておられた。また顔の表情など、製作した時とは異なってきている、と不審を洩らされたのであった。
 このお顔の表情が、その時により、見る人により、いろいろと変わることは、かねて人々のうわさする通りである。撮られた写真にも、同じ御像か、と思うほどの表情の違いがみとめられるのも、ふしぎの一つである。
 それにしても、なぜこの時からお顔の色が変ったのでしょう、という質問をよく受けるが、最近発表されたゴッビ師(司祭のマリア運動指導者)への聖母のメッセージの一部に、私はその答を見いだせるように思う。
 「私が “御像” を通じて行なうことも、私の “御像” や “御絵” に与えられる正しい尊敬を、どんなに私が喜んでいるかというしるしです。……私の顔色のしるし──色が変わる顔。……私の心のしるし──ある時はかすかな、またある時は強い香りを放つ私の心。
 ……母は、大きな喜びを感じるとき、顔が紅潮しますが、子どもの運命を心配するときには、その顔は白くなるでしょう。この地上の母に起こることは、私の場合にも起こるのです。これほどまで人間らしく、母らしい “しるし” を私が与えるのは、私があなた方の存在の各瞬間に、あなた方とともにあることを示すためです。……」
 (ついでながら、この数行さきには、次のお告げも見られる──
 「私が、ある時は強く、ある時はかすかに放つ香りは、私が常に、またとくにあなた方がいちばん必要なときに、あなた方とともにいることを示す “しるし” なのです」
 (これは前年の秋に十六日間つづいた “聖母像からの芳香” の現象を思い起こさせるお言葉である)

 地鎮祭の当日は、開拓時代からお世話になった村の人々、隣の日境寺の尼さん、秋田教会の有志を招き、会の姉妹たちとその親族、また遠くからはるばる馳せ参じた支援の信者たちを交えて、三十名あまりが参集した。やがて聖母の石像が立てられるはずの空地に設けた仮祭壇をかこんで、ささやかな行事が行われた。
 私は前おきとして、ここに聖母をたたえて日本庭園をつくるのは、皆様をはじめ日本全国、のみならず世界のはてからも人々が集まって祈る。マリア庭園なるものを願ってのことであり、本日その地鎮祭を行うわけである、というような挨拶をし、祝別の祈りを唱え、土地に最初の鍬を入れた。参加者も次々とスコップをにぎり、穴に土を入れた。穴の底には、“奇跡のメダイ” を深く埋めておいた。
 この日は晴天であったが、風が強く、祭壇の白布が飛ぶほどだった。式典の終わりに一同をハッとさせる一瞬があった。祭壇係の姉妹笹川が、ロウソクを立てた二個のコップを両手に捧げ持って退こうとしたとたん、ピシッと音がして、コップの上から一センチほどの所が鋭い刃物で輪切りにされたかのように、けし飛んだ。飛んだ部分は破片も見あたらず、二つの本体はそのまま使えるほど、何の傷も受けていない。もとろん姉妹笹川に何の怪我もない。これは悪魔のいやがらせだ、という人もあれば、カマイタチの現象だという解釈もあり、何にしても縁起のよいことだ、と皆々驚きを笑いに納めたのであった。

 次の段階として精出したのは庭園づくりに必要な大小の石あつめであった。
 会の車で、姉妹たちと太平山のふもとの河原や男鹿方面へ出かけ、拾った石をダンボール箱につめては持ち帰ることをくり返した。そのうち、ある人の紹介でNさんという格好の助け手を得、鳥海山麓の小砂川という所から、二百個に余る石を運搬することができた。しかし姉妹たちの手が離れたわけではない。石の重さに車輪が、庭園まであとひと息の所で路肩から落ちる。元気な者は手を貸しに駆け出し、あとの者は「お祈り!」と呼び合って、聖堂でロザリオを唱えはじめる。と、ブルドーザーが通りかかり、絶望的状態から救ってくれたこともあった。
 こうして秋には、N氏が庭園予定地にブルドーザーを入れ、地ならしを始めるようになった。
 冬の間は、戸外の作業ができないので、内にこもって英気を養い、雪の消えはじめる三月を待って、本格的な活動を開始した。造園に協力される農家の人々にまじって、私も労働服を身につけ、雪や雨にうたれ、風や日光にさらされながら、スコップをふるい、猫車を押してまわった。
 こうして力仕事に身を投じることによって、私は労働の意義を深くさとらされた。キリストが十字架を背負ってわれわれの罪をあがなわれたことも、最大の重労働ではなかったか。そう思えば、ひたいや背筋を流れる汗の玉にも、宝石のような価値を感じとれるようになった。聖書によって神のみことばを読み黙想するのも大切な業であるが、労働の苦しみによって心身ともに聖言を学ぶことは、一層身に泌みてキリストの愛を悟り、一致に導かれるのではなかろうか。
 これも聖母にささげる庭園づくりのささやかな努力へのひとつの報いと感じられたのであった。
 作業が順調にすすみ、七月を迎えたころ、会計係の姉妹から首筋に冷水を浴びせられるような報告を受けた。
 「神父様、働き手に今月の労賃を支払うと、あと何も残りません」
 私は平静をよそおい、「姉妹の皆さん、よくヨゼフ様に祈ってください」と言った。そして心の中では、来月はちょうどお盆が来るから、働く人たちに、この月は労働を休みましょう、と告げることにしよう、と考えていた。
 ところが意外にも、その月末には、ある奇特な方から「自分で実地に手つだいのできぬ代わりに」と、数百万円の小切手が送られてきたのであった。
 このように文字通り天から降って来たような救援の手に支えられたのは、一度や二度のことではなかった。ともあれ、マリア庭園の作業は、常にとどこおりなくつづけられたのである。
 こうして作業が三年目に入った、その五月末から六月にかけてであったと思う。一方で、聖母像のふしぎな現象について、伊藤司教の依頼により、調査のメスが入れられる運びとなった。(この章では、マリア庭園に関する点にのみ、ふれておくが)
 調査委員会の一員で、姉妹たちに黙想の指導をするとの名目で乗り込んで来た人が、マリア庭園の作業を目にした。私はちょうど教会の依頼による講和のため不在であった。で、その委員は姉妹たちに次のように説教された。「マリア像におこったふしぎな現象は、超自然的な恵みではない。ただ姉妹笹川の超能力によるものであるから、これをもって世間をあざむいてはならない。そしてマリア庭園を造るなどは、宣伝行為であり、さらに人をだますことになるから、ただちに止めるべきである……」
 私がこれを知ったのは、帰って一週間もたってからで、姉妹たちから遠慮がちに知らされたのである。これを聞いておのずと頭にうかんだのは、あの守護の天使の言葉であった。「そのよい心をもって捧げようとすればするほど、多くの困難と妨げがあるでしょう」と。この予言が次々と実現されるのが、明らかに予感されるのであった。
 私はなにも、聖母像の現象と結びつけて、庭園の構想をいだいたおぼえはない。ふしぎな出来事を記念するために、などと思いもしなかった。ただ、静かに黙想しつつ祈れる場所をつくり、それを聖マリア崇敬のために奉献したい、と考えただけであった。どんな力によって聖母像に不思議が起こったにせよ、それとは別問題であった。
 そんな筋ちがいの非難をあびせられても、造園作業は断固つづけることにした。が、私もふつうの人の子である。心がふさぎ、一時は断念しようかと思ったことも、ないわけではない。

 その秋の十月、多くの貴重な援助に支えられて、ついに “マリア庭園” なるものが、ほぼ出来上がった。
 十月十一日、市長をはじめ各方面の名士と遠近からの協力者をお招きして、開園の除幕式を挙行した。このたびは二百余名の参加者を数える盛会となった。
 その時のあいさつの中で、私は庭園の案内を次のように述べた。 「庭園のかなめとなっているのは、聖母像の立つ、日本列島の形の池であります。その背後の築山から滝が流れており、それはカルワリオ山のキリストの十字架の泉から人類救済の恵みが流れてくる表徴です。その恵みの水が、すべての聖寵の仲介者である聖母を通して、日本全土に注がれる、という表現をとっております。庭園の中央にある芝山は、まろやかな平和を表す丘陵と見なされ、キリストの山上の垂訓をも偲ばせるものです。列島をかたどる池は、九州と北海道の部分が、二つの橋で本州と区分され、ヨルダン川の流れが北海道の上手に流れ込むようになっております。
 まだ花は見られませんが、南側のアーチはやがてバラに蔽われ、それにつづいて梅林がひろがります。
 門構えは、樹齢二百年近い天然の秋田杉二本を用いて門柱とし、時代おくれと見られるかもしれませんが、茅葺の屋根をのせました。それは庭園に荘厳さと神秘性を加えるようにと、考案したもので、“天の門” と名づけました。
 中央の芝山も日本列島の池も、回遊式につくられ、庭園内に入ればどの場所にいても、ロザリオの祈りと黙想ができるように工夫したつもりです。
 借景として太平山を間近く眺められるように配慮し、その春夏秋冬の美しい眺望を妨げるような樹木は、植えつけないことにしました。
 庭内に移植された木々の種類は、約百種に近く、昨年の秋から今年の夏までに植樹されたものが大部分ですが、九十九パーセントが根着いております。これらの樹木が数年後にはどのような美しい容姿を呈することか、日本各地からの心のこもった聖母への献木であるだけに、たのしみな見ものであります。……」

 三年間にわたって、北海道から九州の果てまで、まさに日本全土から、聖母の光栄のために寄せられた援助は、おどろくべきものであった。それらの期待にもこたえるべく、私たちとしては全力を傾けたものの、なお不足や不備はまぬがれず、心苦しく思っている。
 とにもかくにも試練の年月を一応くぐりぬけた今、“多くの困難と妨げ” があろう、との天使の予告があらためて思い合わされ、“内なる一致をもって信頼して祈る” ようにとの勧告が、さらに将来への指針として、胸にあらたにひびくのである。

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