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第七書・第ニ章

使徒たちの説教。マリアの改宗者たちへの世話

 見える印で聖霊が御降臨になったことは、エルサレム全市を沸き立たせました。高間の家に起きた驚くべき出来事は大きなニュースとして伝えられ、大勢の群衆が押しかけてきました。当日はユダヤ人の祭日にあたり、市内には世界中の外国人でごった返していました。

 聖なる使徒たちは、この人たちに説教する許可を聖母に願いました。大きな恩寵が直ちに人々に与えられ、創造主なる神の新しい光栄になるためです。使徒たちはすぐさま高間の家を出て、大群衆に向かい、信仰と永遠の生命の神秘について説教します。その時まではとても恥ずかしがり屋で人々から遠ざかっていたのに、今や勇敢に燃えるような言葉を吐き、聞く人々の胸を打ちます。人々は諸外国から来ており、外国語しか知らないのですが、使徒たちの言葉を自国語として聞きました。使徒たちは全員パレスチナ語だけを話したのです。聖ペトロも他の使徒たちもパレスチナ語で話したことを、他の七、八か国語で繰り返す必要がなかったのです。外国人たちは、自分たちの国の言葉を観けたのでとても感心しました。高間の家に来た外国人たちも自国語の説教を聞きました。敬虔に聞いた人々は、神と人類の救いを深く理解しました。真理を求めた人々は自分たちの罪を悔やみ、悲しみ、神の御慈悲と御赦しを願います。目に涙を浮かべ、使徒たちに叫び、永遠の生命を得るには何をすべきかと尋ねます。一方、頑固な者たちは、神の真理に対して何も感じないで、使徒たちに怒り、革新家で向こう見ずの輩だと決めつけます。多くのユダヤ人たちは不信で嫉み深く、使徒たちが酒に酔っ払っているとか、気が狂っているとか言います。聖霊御降臨の時の落雷を恐れ、地面に倒れた後、意識を回復した者たちの何人かも使徒たちの悪口を言います。

 聖ペトロの最初の説教で改宗した三千人は、諸国から来た人たちで、どの諸外国も例外なく、これから救いの実を頂き、教会に集まり、聖霊の恩寵を経験することになります。聖なる教会は、全世界の民により構成されることになっているのです。ユダヤ人たちについて言うなら、教会員の多くは主に従い、主の御受難と御死去に同情した人たちです。主の御受難に賛成していた人々の少数は、後で改宗しました。説教を終え、使徒たちは高間に戻ってきて聖母に報告します。大群衆も聖母に挨拶するために入ってきます。

 聖母は御自分の個室にこもりながら使徒たちの説明を聞いていましたし、聴衆一人一人の心の奥底の秘密も判っていました。その間中、うつぶせに地面に平伏し、人々の改宗のため、涙の祈りを唱えておられました。使徒たちが説教をうまく始めるように、そして聴衆がよく聞くように、聖母は大勢の天使たちを派遣しました。使徒たちが説教と聖霊の豊かな稔りを携えて帰宅した時、聖母は大喜びで出迎えました。

 聖ペトロは改宗者に聖母を紹介します、「私の兄弟であり、いと高き御方に仕える人たちよ、ここにおられる御方が我らの救い主イエズス・キリストの御母です。あなた方はイエズスを真の神と人として認めました。御母はイエズスに人体を与え、胎内に宿し、産みました。お産の前、間と後、いつでも童貞でおられます。御母をあなた方の御母、避難所として受入れなさい。御母を通して光、方向および罪や惨めさからの救いが頂けます。」 使徒の言葉を聞き、聖母に会い、新しい信者たちは光と慰めで満たされ、心の中で祝福を受け、聖母の御足許に平伏し、涙ながらに御祝福と御助力をお願いします。聖母は、祝福は司祭である使徒たちの与えるものと考えますが、聖ペトロは聖母に申します、「御母よ、この信者たちの願いを拒まないで下さい。」 聖母は教会の司牧者に従い、新改宗者に祝福を与えます。彼らは聖母の御言葉も御聞きしたいのですが、謙遜と畏敬の気持ちのため、直接聖母に言えないので聖ペトロにお隙いします。聖ペトロは彼らの願いをもっともだと思い、聖母に再びお願いします。聖母は聖ペトロの言うことを聞き、皆に話します、「主に於て私の最愛の兄弟姉妹たちよ、あなた方の全心をもって全能の神に感謝と讃美を捧げなさい。神は多くの人々の中からあなた方を呼びだし、あなた方の受入れた信仰の知識に示された永遠の生命への確かな道にあなた方を引き寄せて下さるからです。その道を心からの確信を持って告白しなさい。先生であるイエズス、私の御子、あなた方の救い主が教えて下さった恩寵の律法全てを確固として信じなさい。あなた方を教える使徒たちに熱心に傾聴しなさい。いと高き神の子供たちとして洗礼の印を受けなさい。私はあなた方の碑として、あなた方を元気づけるため、どんなことでもして助けましょう。私は神にあなた方の優しい御父になって下さるように、御顔の喜びをあなた方に示して下さるように、そして、恩寵を与えて下さいますようにお願い致しましょう。」 この優しい御言葉を聞いて新信者たちは喜び、もう一度祝福を頂き、聖母にお別れします。使徒たちや弟子たちは、その日より休まずに説教と奇跡を続けます。最初の日の三千人だけではなく、日々帰依する大勢の人たちに教えます。人々は世界各地から来ますから、それぞれの国の言葉を使徒たちは話します。外国語を話すというこの賜物は、弟子たち、婦人たち、聖霊を頂いた百二十人のメンバーも使徒たちより少し不完全ですが頂いています。使徒たちの話を聞いた後、多くの人たちはマグダラのマリアと仲間の所に行き、聖い教えを聞き、改宗します。この女性たちの行う奇跡を見て改宗する人たちもいます。女性たちは両手で触れることにより、あらゆる病気を治し、盲人を見えるようにし、唖の人を話せるようにし、びっこの人を普通に歩けるようにし、大勢の死者を廷らせます。使徒たちの奇跡とあいまって、エルサレム中を驚嘆阜せます。使徒らを始め、信奉者たちのことは大変な評判となります。

 これらが福音の教会の幸せな始まりであり、黄金時代です。教会は神の都市とも呼ばれ、新しい楽園でもあります。この楽園の真ん中にある生命の木が聖母です。当時、信仰は生き生きしており、希望は堅く、愛は熱く、誠実は純粋で、謙遜は真で、正義はもっとも公正であります。信者たちは貪欲も虚栄もなく、所有欲、誇り、野心もありません。

 初代教会に於ける聖母の偉大な業績は少しばかりをお知らせしましょう。全教会とある教会員たちに恩恵を与えることで、一時も休まれませんでした。御子への嘆願に没頭し、決して断られませんでした。祈りの他に人々に勧告、説明、相談したり、恩寵の管理者と分配者にもなりました。聖母の御在世の当時、地獄に堕落した者の数は大変多く、救われた者の数は、その後の時代よりももっと多数です。当時の人々は聖母に会い、お話を聞けるという幸福を享受しましたが、聖母は天から頂いた知識と愛により、あらゆる時代の人々を全員ご存知です。聖母は、初代教会の人々のために祈り、取り次いで下さったように、現代の我々にもして下さいます。いつも同じ御母として天に於ても同様に取り次いで下さいます。しかし、悲しいかな! 私たちの信仰、熱心と献身が全く実行されなくなってしまいました。私たちが聖母に対する熱心さを取り戻せば、教会は初代教会と同様に聖母の御加護を体験するに違いありません。

 多数の信者は聖母の御話を聞き、偉大さに打たれ、宝石とか高価な賜物を持ってきました。特に婦人たちは自分の持ち物を聖母の足許に置きました。聖母は何もお受け取りになろうとしませんでした。全部断っては良くない場合、その人たちの心に話しかけ、使徒たちの所に持って行かせました。使徒たちが公正に、もっとも貧しい信者たちに分け与えられるからです。その時も聖母御自身、贈り物を頂いたかのように感謝されました。貴著や病人に対し、聖母はとても親切で、大勢の病人の難病、慢性病を治されました。聖ヨハネの手を通して聖母は、公言されていない必要品を配るようにしました。使徒たち、弟子たちが説教に熱中している間、聖母は人々のために食物を尉意したり、もてなすために大変忙しい患いをされました。使徒、たちや他の司祭たちに食物を給仕する時は、跪き、手に接吻したいと申されました。特に使徒たちは恩寵が確保され、聖霊の御働きにより、司祭長、そして教会設立者の威厳を与えられているからです。聖母は時々、使徒たちが素晴らしく輝く着物を着ているのを御覧になり、ますます崇め、敬っておられます。

元后の御言葉

 私の娘よ、この章で、人々の霊魂の運命の神秘についてよく学びなさい。主の救いは大層豊かで、全人類を救うのに十分であることを確信しなさい(ロマ5・20)。神の真理は、説教を聞くか神人の御業を見た人たち全員が知っています。感覚が見聞きしただけではなく、全員が心の中で真理に達するための御助けを頂きました。大群衆の中で僅か三千人しか使徒たちの最初の説教により改宗しなかったことは驚くべきことです。現代に於て、ほんの少数しか永遠の生命の道に改宗しないことはもっと大きな驚異です。現代に於て、福音はもっと広められ、説教は頻繁であり、司祭たちは多く、教会の光はもっと明るく、神の神秘についての知識はもっと確立しているからです。それにも関わらず、人々はもっと盲目になり、心をもっと頑固にし、誇りがもっと高くなり、貪欲はもっと厚かましく、あらゆる悪徳は神を畏れずに行われています。

 主はあらゆる人々に御父としての慈悲を与え、生命の道と死の道を教えておられますから、主に対して不平不満を言えないはずです。神に見棄てられた人たちは、時間のある時に実感できたことや実感すべきであったことを悔やみ、自分自身を責めるしかできません。短い仮の生涯に於て、真理や光に対して目や耳を閉じ、悪魔に耳を傾け、悪意の唆しに身を委ね、主の善意と寛容を濫用するならば、弁解できるでしょうか? 僅かな問題を起こす他人を許さず、お金儲けに腐心し、一時的な楽しみにうつつを抜かし、警告を受けつけないなら、後になって神を逆恨みする権利がどこにあるでしょうか? 自分をごまかさずに痛悔すれば恩寵を得られます。

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