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第六書・第十二章

キリストの昇天

 御昇天の二、三日前、永遠の御父と聖霊が高間に御出でになり、玉座に腰かけられました。諸階級の天使たちや諸聖人が周囲におります。人となられた御言葉は玉座に上がり、神のペルソナ御二方の隣に座ります。神の御母は部屋の片隅に平伏し、聖三位一体を恭しく崇めます。永遠の御父は、御母を呼び寄せるよう、最高位の天使二位に命じます。御母は慎しく起き上がり、天使たちに付き添われ、玉座の足許に近づきます。永遠の御父はおっしゃいます、「我が愛する者、高く昇れ!」 御母は起こされ、三位の神と共に玉座に腰かけます。単なる被造物に過ぎない者が、そのような威厳に高められたのを見て、諸聖人は感嘆に堪えません。いと高き御方の御業の聖性と公正を理解し、聖人たちは神の無限、正義、聖を誉め称えます。

 御父は御母に話されます、「我が娘よ、我は御独り子の教会、恩寵の新法と救済されし人々を汝に任す。全てを汝に任命する。」 聖霊は申されます、「全被造物より選ばれし我が浄配、我は、我が智恵と恩寵を汝に与える。人となられた御言葉の神秘、御業と教義は汝の心の中に保存されるぺし。」 御子はおっしゃいます、「我が最愛の御母よ、我は御父の御許に帰り、御身を地に残すにあたり、我が教会を御身に委託する。御父が教会の子ら、我が兄弟姉妹を戎に託されし如く、我は御身に託す。」 聖三位一体は諸天使、諸聖人に向かって宣言されます、「この御方こそ天地万物の女王なり。教会の保護者、被造物の女主人、信心の御母、信者の仲介者、罪人の弁護人、美しき愛と聖なる希望の御母にして、我らの慈悲と寛容を人々に施すなり。我らが恩寵の宝を御母の中に納め、御母の最も信仰深き心を、我らが聖法を書き記す板とせん。人類の救いのための我らの全能の神秘は、御母の中に包まれる。御母は我らの完全なる作品なり。我らの希望は、御母を通して円滑に達成すべし。心より御母に依頼する者は滅びず、御母の取次を願う者は永遠の生命を得る者なり。御母が我らに願うことの全ては与えられる。」

 その日より御母は、この福音の教会の世話をすることになり、全教会の愛すべき御母となられました。これまでの嘆願を更新し、全生涯を熱烈に絶え間なく嘆願を神になさいました。

 同じ日、主は十一人の使徒たちと共に食卓の周りにおられ、他の弟子たちや信心深い婦人たちも高間に集まり、総勢百二十名となりました。神なる主は、これらの人々が御昇天に居合わせるようにと望まれたのです。最後の晩餐が行われた同じ高間で、主は愛すべき父として皆にお話しになります、「私の最も可愛い子供たちよ、私は御父の許へ帰ろうとしています。私の代わりとして御母を残します。御母は、あなた方の守護者、慰める人、弁護人であり、あなた方の御母です。御母の言うことを聞きなさい。私を見る者は御父を見、私を知る者は御父を知ると私が言ったように、私の御母を知る者は私を知り、御母に耳を傾ける者は私のl亭っことを聞き、御母を讃える者は私を讃えると、私はあなた方にはっきり言っておきます。あなた方皆にとり、御母は上司であり、頭であります。あなた方の子孫にとっても同じです。御母はあなた方の疑いに答え、困難な問題を解決して下さいます。私を探す者は御母の中に私を見出します。私は世の終わりまで御母の中に居続けます。今でも御母の中にいます。どのようにしてそうできるのか、あなた方には判りません。」「私は世の解わりまであなた方と一緒にいる」(マテオ28・20)という御言葉を確認されたのです。主は続けられます、「聖ベトロは教会の最高指導者、教皇になります、あなた方は圭司祭長の聖ペトロに従いなさい。聖ヨハネが私の御母の息子になることは、私が十字架の上で任命した通りです。」 主は、御母が神の御母の威厳にふさわしい崇敬を受けることを望み、それを教会法の中に残したかったのですが、最も謙遜な御母は、これまで受けた以上の名誉を望まれず、教会が主だけを崇拝し、主の御名のため福音を宣教するようにお望みになりました。主は御母に譲歩しました。

 主と御母のお話を聞いた会衆一同は感動しました。神に対する愛に燃える反面、主とお別れになることを悲しむのです。誰が私たちの父になり、保護者になるのか? 私たちは孤立無援になり、孤児になると思います。一人が叫びます、「ああ、最も愛すべき主なる父! ああ、我らが霊魂の喜びと生命よ! 御身を救い主と認めた今、御身は我らから立ち去られる! 我らを連れて行って下さい。ああ、主よ、我らを追放しないで下さい。御身なしに我らに何ができましよう? 御身以外の誰の所に行きましょう? どこへ行けばよいのでしょう?」 主は、皆がエルサレムに留まり、祈り続け、慰め主である聖霊を待つように答えられます。御父が約束され、御子が最後の晩餐で予告された通りです。

 高間に集まった百二十名が、我らの主イエズス・キリストの御昇天の目撃者になります。御母と共に主はこの小さな群れを引率してエルサレムの街の通りを歩かれます。人々はべ夕二アを目指します。べタニアからオリベト山まで二.四キロ弱あります。天使の群れと古聖所から来た聖人たちも参加し、新しい賛美歌を歌いますが、御母にしか見えません。主の御復活は、エルサレムやパレスチナ一体に既に知られています。不信、悪意の首長たちや祭司長らは、主の御体が弟子たちにより塞から盗み出されたという嘘をばらまきますが、多くの人々から信用されていません。エルサレムの住人や不信の者たちが主の一行を黙認し、妨害しなかったのは、神の御配慮によるのです。主は、人々には見えなかったのです。

 オリベト山頂に着くと、人々は三つの輪を作ります。内側が天使たち、真ん中が聖人たち、外側は使徒たちと信者らです。御母は御子の御足許に平伏し、恭しく礼拝し、真の神である救世主として崇拝し、最後の祝福をお顔いします。人々も同様にします。泣き、嘆きながら、主がイスラエルの王国を再建されるのかどうか質問します。主は、永遠の御父のみ知っておられると答えられます。人々が聖霊を戴き、エルサレム、サマリアや全世界に救世の神秘を説教することは必要で、時機にかなっているとおっしゃいます。主の御顔から平和と威厳の光が輝き出て、人々から別れます。両手を組み、地面から上昇して行きます。地面には主の御足跡が残っています。空にゆっくりと昇って行かれる主を人々は見つめ、嘆息をつき、泣きます。主の後に天使の群れが上がって行き、聖なる首長たちと光栄に満ちた聖人らが続きます。いと高き神の御業は、御母も主と共に被昇天させておられます。この御業は人々に気付かれません。その訳は、御母は二か所に同時に存在するという奇跡にあずかっているからです。教会の子らと共に留まり、信者たちを慰めると同時に、主と共に被昇天し、玉座に三日間滞在されます。天に於ては、御母は御力を最大限に駆使されますが、高間に於ては御母の御能力は少し制限されています。

 喜びの中に主の一行は最高天に到達します。諸天使と諸聖人の間を主と御母が通ります。全員こぞって、御二人別々に、そして一緒に最高の名誉の言葉を申し上げ、恩寵と生命の造り主なる神に対する賛美歌を歌います。永遠の御父は右側の玉座に人となられた御言葉を招きます。御言葉なる御子に於て、神性と至聖なる人性が結合し、一致している様子は美と栄光に満ち、人間の目がこれまで見たこともなく、耳がきいたこともなく、全く想像したこともありません(一コリ2・9)。

 この時、御母の謙遜と智恵は最高潮に達します。御母は玉座の足台に平伏し、御父を崇め、御子に下さった光栄と御子の人性に偉大と輝きを与えて下さったことを感謝する歌を歌います。天使たちと諸聖人は、御母を崇敬する気持ちで一杯になります。そして、御父はおっしゃいます、「我が娘よ、高きに昇れ!」 御子は御母に申されます、「我が御母、起き上がり、この席に着いて下さい。御母が私に従い、見習いましたので、この席を差し上げます。」 聖霊も招きます、「我が愛すべき浄配、御出で下さい、永遠に抱きしめましょう!」 聖三位一体の宣言がなされます、即ち、御母が御子の受肉に際し、御自身の生命と血を捧げ、御子を保育し、御子に仕え、模倣し、従い、人間として可能な限りを尽くされたので、御子の右側に永遠の座を与えられるという宣言です。他の人問は決してこのような高さに到達できません。この座は御母のため予約され、御母の地上での御生涯の後、御母の所有となります。諸聖人のとうてい及びもつかないことです。御母が聖三位一体の玉座に、御子の右に高められるにあたって、御母がそのまま留まり、地上に戻らないことにするか、または、一日一房るか、御母御自身が決定することになりました。そのため、御母は地上の戦線の教会の様子を御覧になります。信者たちが孤児になっていることを見て、主が地上で人々のために尽したことを思い浮かべ、玉座から降り、聖三位の御足許に平伏し申しあげます、「永遠全能なる神にして我が主よ、御親切に私に下さる報いを今受け取りますことは、私の安息の保証になりますが、地上に戻り、アダムの子らや教会の信者たちに働きますことは御身の聖旨に叶い、地上に追放され、旅している私の子供たちのためになると思います。私は労働し、人類に対する御身の愛のために苦しみたいと思います。私の主よ、この犠牲を受入れ、私を助けて下さい。御身への信仰が広められ、御名が崇められ、御身の教会が大きくなりますように。御独り子と私の血により教会は建てられました。御身の光栄と霊魂の獲得のため、もう一度働きたいと思います。」 主は御喜びになり、御母に浄化と啓示を下さいました。至福の幻視と天の賜物は、人間には想像できません。

 オリベト山頂では、信者たちが主の昇られて行った天の方向を見つめ、泣き、途方に暮れています。主と共に被昇天されつつある御母は山頂の信者たちを御覧になり、御子に信者たちを慰めるようにお願いします。そこで救世主は、二位の天使を派遣します。天使両人は白い輝く着物を着て、弟子たちや信者たちに現れて言います、「ガリラヤの人々よ、驚いて天を見上げないで下さい。あなた方から別れ、天に昇られた主イエズス・キリストは、今あなた方が見たような光栄と威厳を備えて帰って来られます」(使1・11)。

元后の御言葉

 私の娘よ、主は人々を苦しめないで喜ばせ、悲しませる代わりに慰め、叱らずに誉めます。ところが人々は、主の御本心が判らず、この世の危ない慰め、善びや報いを望みます。人間は考えが遅く、粗野で無学ですから、教育を受け、柔和となり、実を結ぶように、困難の金槌に叩かれ、苦難の溶鉱炉で精廟されなければなりません。私の苦労は主が下さる報酬に比べたら、全く取るに値しません。ですから、天を去り、地に戻り、再び苦労し、教会を助けたいと思いました。あなたが一生懸命働き、祈り、苦しみ、心の底から全能者に泣き叫ぶことを望みます。もし万一、あなたの生命を捧げることになったら、御子と私の意志に叶うことです。

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