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第六書・第十一章

復活

 我らの主イエズス・キリストの埋葬の後、聖母は最後の晩餐をした高間に戻りました。聖ヨハネ、他のマリアたちとガリラヤの婦人たちも一緒です。この人たちに聖母は心から感謝し、涙を流しながら、主の御受難の間中、耐え忍んだことと、御生前も主に献身したことの報いを約束します。同時に聖母は、皆の召し使いとして、友として仕えたいと申し出ます。皆はこの大きな恩恵を感謝し、聖母の御手に接吻し、聖母の祝福を願います。皆が、聖母に何か召し上がり、少し休まれるように願うと聖母は言われます、「私の休みと慰めは、私の御子なる主が死者の内から復活するのを見る時です。あなた方は早く食物を摂るなり、休むなりして下さい。私は御子と二人きりになります。」 自分の個室で聖母は、御子の霊魂が何をされているかを思い巡らします。聖母が最初から知っていたことは、御子の霊魂が神性と一致結合し、古聖所に行き、その地下牢から聖なる祖先全員を解放することでした。主が訪れると、この暗い洞穴は天国に変り、素晴らしい輝きで満たされ、そこに保留されている聖人たちは神を見ます。長い間の希望が実現します。神に感謝し、神を誉め、歌います、「犠牲となった小羊に権力、神性、智恵、名誉、光栄と祝福がありますように。主よ、御身の御血により、あらゆる部族、あらゆる言語を話す人たちや諸国民の中から私たちを救って下さいました。私たちを国王や司祭に任命し、地を統治させます。ああ、主よ、権力、統治と光栄は、ことごとく御身のものです。」 次に主は天使たちに命じ、煉獄にいる霊魂全員を連れて来させます。人類の救いの保証のように、彼らの罪は赦され、残っている刑罰も免除され、彼らは義人たちと共に神を見て輝きます。王なる主が来られたこのB、古聖所も煉獄も空になったのです。

 我らの救い主イエズス・キリストは、金曜日午後三時半から日曜日の朝まで古聖所におられます。その間、主は御自身の墓へ天使たちと諸聖人の王として戻って来られます。御墓の中では大勢の天使たちが警護にあたっています。聖母は何名かの天使たちに命じ、御子の流された御血、飛び散った御肉の破片、引き抜かれた頭髪など全てを集めさせます。天使たちは大喜びで聖遺物を胸に抱きしめます。主が御亡くなりになった時の、そのままのむごたらしい御体を聖なる祖先たちは拝見し、主を崇め、我々の弱さや悲しみを引き受けられた人間としての「御言葉」を改めて軍言します。主の救いにより、自分たちが光栄に浴することをひしひしと感じ、聖人たちは全能なる神、そして聖人中の聖人をもう一度讃美します。

 全聖人の前で、あらゆる聖遣物が天使たちにより主の御体に紆びつけられ、主の以前の御体が再現します。その瞬間、主の霊魂が主の御体に結合し、不死の生命と光栄を与えます。御体は光栄の賜物、即ち、明瞭、物体通過、敏捷と微妙の着物を着ています。これらの賜物は、主の霊魂の無限の光栄から溢れ流れ、御体の隅々にまで行き渡ります。これらの賜物は、御受肉の瞬間から、自然な相続と結合から御体に与えられるべきでした。御霊魂と御体の一致と神性との一致の故、御子の人性は光栄を受けたのですが、我々に我々自身の光栄を与える功徳を積むまでの間、これらの賜物は保留されたのです。御復活により、主の霊魂の光栄と神性との一致の結果、賜物の効果が現れることになりました。我らの救い主の霊魂の光栄を書き表すことが人間にとって無理であるように、賜物の記述も不完全不充分になります。その美しさ(明瞭、純粋)は、たくさんの太傾のようです。それに比べると被造物の美しさは一個の星の光くらいです。この美しさは、御変容の光栄を遥かに越えます。御変容の光栄は、一時的で特別の目的のためでしたが、この賜物の光栄は永遠です。物体通過という賜物により、どんな力も主を動かせません。微妙という賜物により、主の自然な御体は純化され、何物の中も、純粋な霊魂のように通り抜けられます。墓の岩も突き抜けられたのは、御誕生の時、御母の御胎を通り抜けたのと同じことです。敏捷という賜物により、物質ではない天使たちよりももっと早く、主の御体は動けますので、使徒たちの所にも素早く出現されたのです。御体を変形した聖痕は、御両手足と御脇から輝き、うっとりとさせる美しさと魅惑があります。この光栄と天の飾り全てを身につけて、救い主は墓から起き上がり、諸聖人と全首長に、人類全員の霊肉に於ける復活と栄光を約束されます。その約束の保証として主は、居並ぶ諸聖人の霊魂に、自分たち自身の体と結合し、不死の生命を得るように命令します。人々の体は、かくして起き上がります。この人たちの中には、聖アンナ、聖ヨゼフ、聖ヨアキムや、信仰に傑出した昔の祖先や首長たちがいます。彼らの復活と光栄は今や成就されたのです。

 これら全ての神秘に、高間の家に引きこもっておられる聖母は参加しておられました。主の霊魂が御体に入り、生命を与えたその瞬間に、喜びが聖母の御体の中に流れ込みました。聖母の御悲しみほ御喜びに変わりました。ちょうどその時、聖母をお慰めしようとして、聖ヨハネが聖母の個室に一歩入ると、光り輝く聖母が目の前におられたのです。自分の聖なる御母が喜びと共に変容されたので、主が御復活になったと知りました。主がもうじき訪問されるので、聖母は歓迎の準備に取りかかります。賛嘆の歌と祈りの内に新しい歓喜が湧き上がり、最初の喜びよりももっと高く聖母の御心を揚げます。更に第三の違う嬉しさが込み上げてきます。そこへ我らの救い主イエズス・キリストが御出でになります。諸聖人、首長たちもお供しています。謙遜な聖母は主の御足許に平伏します。主は御母を起こし、御自分の方へ引き寄せられます。御子の光栄ある御体が至純なる御母の御体ととても親密に結合したので、主の御体が御母の中に入り、御母が主の中に入りました。水晶球が太陽の光で満たされるというふうに表現できるかもしれません。御母は、主の至聖なる霊魂と御体の光栄について良く知っておられましたが、より高次の賜物を頂き、最も秘められた秘跡をより良く知ることになります。この秘跡に於て、聖母は御声を聞きます、「私の愛する者、より高く昇れ!」。この御言葉の力により聖母は全く変容し、神を明らかに直感し、あらゆる悲しみに対する報いを頂きます。神の幻視から降りて来て、神の右腕に抱かれているのに気がつきます。主の御受難と御光栄について最も甘美なる会話をされます。至純にして原罪の汚れなき被造物である聖母が、主と同じように御苦しみになり、今や主と共に喜びに満ちておられます。

元后の御言葉

 藁を取り除くとか、一杯のコップの水をあげるとか、最も功績の低いことをする時、神に対する愛により賜物は増えます。最も無意味の仕事の一つ一つが、これらの賜物を増やすのです。太陽の光の何倍以上もある明瞭の賜物が増え、恩寵の状態に加えられます。人間的、現世的腐敗を通させないための普通の人間以上の力である物体通過の賜物が増えます。普通の抵抗力を越え、穿通の新しい力を獲得するための微妙の賜物が増えます。鳥、風、火など活発なものよりももっと能動的な敏捷の賜物も増えます。体の賜物の増加が判れば、霊魂の賜物の増加も理解できるでしょう。第一の至福幻視は、神の属性や完全さを教会博士よりももっと大きな洞察と明瞭さを与えます。第二の理解の賜物は、思考無限善なる神を所有することで、心の静けさをもたらします。第三の賜物である結実は、最小の行為に伴う愛の故に、愛の度を増します。

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