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第六書・第十章

キリストの地獄への勝利

 主イエズス・キリストが十字架上で死を遂げ給うその時まで、ルシフェルと手下たちは、主が神であるかどうかはっきり判りませんでした。従って聖母の威厳についても確かではありませんでした。神が人間となり、救いの御業を行うことをルシフェルは知っていました。主の奇跡にも感服しましたが、主が貧しく、蔑みを受け、疲労困悠するのを見ると、主が神であるとはどうしても思えません。ルシフェルの高慢のため、見すぼらしく見える主を神と認める気持ちはさらさらなかったのです。しかし、状況を判断すると、主は神に違いないと考えられ、混乱します。主が十字架を背負い、救いの御業の完成に向かわれるやいなや、ルシフェルと部下たちはすっかり驚惜し、地獄に飛んで帰ろうとします。神の御力により、物事が明確になったからです。自分たちが殺そうとしていた無実の男は単なる人間ではな、その人の死は自分たちを滅ぼすことが明白になった以上、いても立ってもいられません。地獄に逃げ帰ろうとするところを聖母に捕らえられ、鎖に繋がれた恐ろしい龍たちのように、カルワリオまで主のお供をすることになります。この神秘的な鎖の端は聖母がしっかりと握り、御子なる主の御力により、悪魔たちを従わせます。悪魔たちは何度も鎖から逃げ出そうとし、怒りに荒れ狂いますが、聖母に勝てません。聖母は、悪魔たちをカルワリオ山頂まで連れて来ると、十字架の周囲に立たせ、身動きしないで神秘を見守り、人類の救いと悪魔たちの滅びを目撃させます。ルシフェルと地獄の霊たちは、主と御母のそばにいるという苦痛に打ちのめされ、自分たちに整いかかる滅亡を恐れ、地獄に飛び降りたくてしようがありません。許可してもらえません。悪魔たちは倒れ、お互いの上に蟄なり合い、もがき合い、暗い避難所を目茶苦茶に探し回ります。悪魔たちの怒り狂う様は動物同士の殺し合いとか、龍同士の死闘よりももっと残酷です。

 十字架の上から主が七つの御言葉を発せられると、悪魔たちも傾聴し、意味が良く判ります。主は悪魔たちに勝ち、罪と死を克服し、悪魔たちの手から人間を取り戻しました。「御父よ、人々を赦し給え。なせる業を知らざるが故なり」という第一の御言葉を聞いて、ルシフェルは、主が真の神の御子であることを確信しました。主なる神が人性に於て御死去になり、全人類を救い、アダムの子孫全員の罪を赦し、御自身の処刑者たちのことも除外しないことが判ったのです。激怒と絶望で荒れ狂う悪魔たちは、聖母の御手から何とか逃れようと全力で暴れます。

 主の第二の御言葉、「アーメン。汝に告ぐ、今日、我と共に楽園に入らん」は、罪人の赦しは轟音の光栄に結果するという意味であると悪魔たちは悟ります。主の功徳により、原罪の結果、閉ざされていた天国の門が開かれ、人々が入り、予知された天国の席を各人が占めることになると判ります。主の謙遜、忍耐、柔和とその他の諸徳により、主が罪人たちを招き、清め、美しく天国に入れるのであると知ります。ルシフェルは混乱し、苦しみ、聖母に逃して下さるよう願いますが許されません。

 「婦人よ、汝の息子を見よ!」という第三の御言葉で、自分たちを捕まえて放さない婦人が主なる神の御母であり、天空に現れ、自分たちの頭を躇み砕くと預言されている女と同じ御方であると発見します。今までそれが判らなかったことほど、何でも知っていると思う高慢をぶち壊すことはありませんや血に飢えたライオンのようになり、聖母に対する憎しみを千倍に増やします。聖ヨハネが聖母の守護者に任命され、しかも司祭の権能を与えられていることに気付き、聖ヨハネの司祭としての力と司祭全員の力が、我らの救い主に由来するということ、司祭たちは主により守られ、自分たちより強いということで、悪魔たちは手出しできなくなります。

 第四の御言葉、「神よ、我が神よ、何ゆえ我を見棄て給いしか?」を聞いた悪魔たちは、主の人類に対する愛が永遠無限であると判ります。神は人類の救いのため、主が極度に苦しまれることを許されます。主は人類の一部が救われないことを予知し、残念に思います。もしも、その反抗的な人々さえも救われるならば、主はもっともっと苦しみたいのです。主の人間に対する愛の故に、ルシフェルたちは嫉妬で気が狂い、神の愛に対して無力であると感じます。

 第五の御言葉、「我、渇く」は悪魔たちに対する主の勝利を確認します。主は人間に対する御自分の愛情に満足できません。この渇き、この不満は、人間の救いのために永遠に続きます。苦痛の激流は決して絶えません(雅歌8・7)。悪魔たちの暴虐や支配から人々を救い、悪魔の悪意と高慢に対して戦うのを助けられるなら、主はもっともっと苦しみたいのです。

 第六の御言葉、「事、成れり」により、御受胎と御救世は今や完成したことを悪魔たちは嫌というほど思い知らされます。我らの救世主は、永遠なる御父にどれほど忠実であったか、昔の太祖らにより教えられてきた契約と預言を主が成就したこと、主の謙遜と従順が悪魔たちの高慢と反逆に打ち勝ったことを悪魔たちは教えられます。主が天使たちと人類の裁判官であることは、永遠の御父の聖旨の通りです。

 主がルシフェルと手下たちを地獄の最奥部にある永遠の火の中に投げ込むという審判は、第七の御言葉「御父よ、我が魂を御手に委ね奉る」を発せられた時に施行されたのです。同時に聖母も同じ審判を下されたのです。悪魔たちの落下は雲を貫く雷光よりももっと速く、あっという間の出来事でした。以前に天より追放された時以上の大惨事を恵魔たちは経験したのです。聖ヨブが言うように(ヨブ10・21)、地獄は暗く、死の陰に覆われ、陰気な無秩序、悲惨、拷問と混乱に満ちていますが、今度は混乱と無秩序はいつもの千倍にもなっています。怒り狂う静猛な悪魔たちが突然やって来たので、地獄に堕ちた人間たちは新しい恐れともっと多くの罰を与えられるからです。地獄の罪人たちは、各人の罪の大きさに従い、神により罰が決定されるので、悪魔たちが勝手に罰の大小による場所の違いを決めることはできません。

 ルシフェルは驚愕からやっと気を取り戻すと、地獄の運営を取りしきるに当たり、悪魔たちに自分の高慢な新計画を発表するため、全員を呼び集め、自分は高座に座り言います、「俺の復讐の命令に長い間従ってきている者どもは、この神人に俺がしてやられたことを知っている。三十三年間、俺を騙かし、自分の神性を穏し、計画を見せず、今や俺たちが神人を殺したことにより、俺たちは負かされたのだ。神人が人間となる前、俺は憎み、俺より偉い者として認めなかった。この反逆により、俺はお前たちと共に天から追放され、俺の偉大さと実にふさわしくないこの恐るべき状態に落とされ、神人と御母に屈服されている自分を見てもっと苦しんでいる。人祖が創造された日から、俺はこの二人を探し、滅ぼそうと休むことがなかった。もし、この二人を探せなかったら、せめても、全人類を滅亡させ、神を崇めさせず、神の恩恵をもらえなくさせようと望んだのである。この意図のため、俺は全力投球した。しかし、この神人は謙遜と貧困により俺を屈服させ、忍耐により掩を潰し、最後に御受難と御死去により、この世の統治権を俺から奪い取った。俺が神人を御父の右の座から突き落とせても、全人類をこの地獄に落としても、この無念は決して晴らせない。」

 「俺よりもはるかに低級な人性が、あらゆる被造物の上に高められることは可能か? 人性が愛され、恩恵を受け、永遠の御言葉のペルソナである創造主に一致するとは! この御業の前に、神は掩と戦い、後に俺を混乱させる! 神は俺の天敵で、嫌いで嫌いでしょうがない。ああ、神から恩恵を受け、賜物を頂く人間たちよ! お前たちの幸運をどのように邪魔しようか? 俺の不運をどうやってくれてやろうか? ああ、俺の部下たちよ、何から始めようか? どうやって人間たちを支配できるか? もう一度俺たちが屈服させるにはどうしたら良いか? 人間たちが馬鹿になり、恩知らずにならなければ、そして救い主を軽んじないなら、救い主に従うだろうし、俺たちの嘘に耳を貸さないだろう。俺たちがこっそりと提供する名誉を嫌い、軽蔑を愛し、肉の苦行を求め、肉の楽しみや安逸の危険を見つけ、富や宝を嫌い、やつらの先生がとても誉める貧困を愛し、やつらの貪欲をそそりそうなもの全てを、救い主が忌み嫌うのを真似するだろう。そうすると俺たちの王国は駄目になる。ここには誰も来なくなる。俺たちがなくした幸せを手に入れる。自分たちを塵芥と同じように卑下し、忍耐強く苦しむに違いない。俺の怒りも自惚れも役立たずだ。」

 「何という禍! 神人を砂漠で試みた時、神人はどのようにして俺を克服するかの良い模範を示した。ユダに神人を裏切らせ、ユダヤ人に神人を十字架上で殺させたことが、俺の滅亡と人間の救いになった。俺が消してしまおうとした教義がもっとしっかり根づいてしまった。神たる者が自分をそこまで謙らせられるのか? 悪人どもからそれほどの仕打ちを堪えられるのか? 俺が神人を助けるはめになったのはどういうことなのか? この女、神の御母はどのようにして強いのか? 人体を神の御言葉に与えた御母は、神から力をもらったのだ。この女により、神は俺をしょつちゆう責めて来る。子分たち、どうしたら良いのか意見を言ってくれ。」

 悪魔たちは、主キリストを傷つけられないこと、主の功徳を減らせないこと、秘跡の効果をなくせないこと、教義を変えられないことを全員認めた上で、もっと大きなごまかしと誘惑を試みることにしました。抜け目のない悪魔たちは、以上の他に、この女の強力な取次や弁護も認めた上で、人間の肉の性も情も以前と同じであると主張します。新しい娯楽を教え、欲情をそそらせ、その他のことを忘れさせるよう熱心に人間たちを口説こうというのです。

 悪魔たちは、幾つかの部隊を編成し、各部隊は異なる悪徳一つ一つを専門とすることにしました。偶像崇拝を世界中に広めるか、分派や異端を作ることにします。例えば、アリウス、ペラジウス、ネストリウスの派とか、他の諸宗教です。神に対する信仰を破壊することでルシフェルは満足し、この不信仰運動を熱心にやりたいという悪魔たちを高い位につけました。他の悪魔たちは子供たちを妊娠の時、または誕生の時に邪悪にすることにしました。親たちに子供たちの養育・教育を疎かにさせたり、子供たちに親を憎ませたりさせる仕事を言いつかりました。夫婦仲を悪くさせたり、不倫させたり、貞節を軽んじさせたりする役の悪魔もいます。全員一致したことは、不和、憎悪、復讐、高慢、肉欲、富の所有欲、名誉欲の種を撒くこと、キリストの教えた諸徳に反するもっともらしい理由をほのめかすことです。とりわけ、人々に御受難、御死去、救いの手段や地獄の永遠の苦痛を忘れさせることを計りました。このような手段で、人間の知力や能力を、この世のことや感覚的喜びで疲れさせ、霊的思考や自己の救いのための時間を少しにしようとするのです。

 以上の提案は全てルシフェルが賛成します。そして、救い主に従わない者たちを誘惑するのは容易であるが、救い主の掟に従う者たちを徹底的に迫害しなければならないと言います。教会の中に野心、貪欲、官能、憎悪の種を撒き、これらの悪徳を盛んにし、それに伴う悪意と忘恩により、神を怒らせ、救い主の功徳による恩寵を失わせようと言います、「やつらが救いの手段を失うと、俺たちは勝てる。信心を弱めてやると、やつらは秘跡の力を実感せず、大罪の状態になるか、不熱心に秘跡にあずかる。そして、霊の健康が弱まり、俺たちの誘惑に抵抗し切れなくなるや俺たちのごまかしを見通せなくなる。救い主や御母を忘れ、恩寵に値しなくなる。救い主を怒らせ、助けてもらえなくなるだろう。俺は、皆に俺の命令を全力でやってもらいたいのだ。」

 悪魔たちの会合は、主の御死去後まる一年も続いたのです。聖ヨハネは言います、「地は禍なるかな、悪魔は激怒し、地に来れり。」 悲しいことに、この真理ほど人々に嫌われ、人々から忘れられたものはありません。我々がぼんやり、いい加減で不注意である一方、悪魔たちは抜け目なく、残酷で、孜々の隙をうかがっています。大勢の人々がルシフェルに聞き入り、ごまかしを真に受け、少数の人しか反対しないのです。人々が永遠の死を全く忘れてしまうのです。世の中全体の悪と個人の悪による危険を知らせなければなりません。

元后の御言葉

 悪魔たちは、教会全体の破壊を企んでいます。大勢の人々を教会から離れさせ、教会内に留まる人々に教会を軽蔑させ、救い主の御血と御死去の実を結ばせまいとしています。最大の不幸は、多数のカトリック教徒がこの大きな破損に気づかないか、主イエズスがエルサレムの婦人たちにエルサレムの滅亡を警戒された時が今来たことが判っていても、解決について真剣ではないことです。

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