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第六書・第一章

マリアはイエズスの公生活にお供する

 聖ヨハネは、イエズスがなさった他の多くの事柄を書き切れないと言っています(ヨハネ21・25)四人の福音史家の記述は、教会の成立と生存にとって十分ですから、私が繰り返す必要はありません。聖母の偉大な事跡の数々は公表されておりませんから、その幾つかを私はお伝えしなければなりません。

 聖母はナザレトの家を留守にして、イエズスの伝道旅行のお供をし、十字架の御死去の時まで御一緒でした。聖母が居合わせなかったのは、タボル山で主が御変容になった時、主が井戸のそばでサマリアの婦人と話した時(ヨハネ4・7)、聖母がある人たちに聖い教えを教えておられた時ぐらいで、短い時間でした。旅は主にとり辛いものでしたから、一緒に徒歩でついて行かれた聖母は、もっと疲れたことでしょう。天気は変わりましたし、聖母の御身体は大変繊細であったからです。聖母があまりにもか弱で苦しみましたので、主は奇跡的に聖母を強め、時には二、三日、聖母を休ませました。又、他の時には、主は聖母を軽くさせ、翼により持ち上げられて歩けるようにして差し上げました。

 聖母は全ての福音の掟を胸に刻み込んでいましたが、御子の説教は毎回熱心に聞きました。主の聖心の動きは全て判っていましたので、主のおられる時、いつも心を合わせました。主の説教を聞く人々の心の状態も良く判りました。救いの実を人々が失わないように聖母は祈りました。神の恩寵を拒む人たちのことを思い、言うに言われない悲しみにかられていました。聖母の苦しみは、世界中の全ての殉教者たちの苦痛を合わせたものを越えています。

 主に従う人々を誰でも、聖母は比類ない賢さで待遇しました。特にキリストの使徒たちを大変尊敬しました。聖母は全員の世話をし、食物などを準備しました。時々、食物がなく、天使たちに食物を供給するように頼みました。人々を霊的に助けるに当たって、人間が理解できる以上に働きました。絶えざる熱心な祈り、御自身の貴重な模範や相談により、人々を強い者にしました。使徒たちが疑いや密かな誘惑に襲われるとすぐに説明し、強くしてあげました。

 ガリラヤの婦人たちや、悪魔祓いをしてもらった婦人の何人かも主について参りました。聖母は、これらの婦人たちに特別な気配りをし、聖い教えを教え、御子の説教を聞く準備をさせてあげました。

 救い主が御自分の神の学校に入学させた全ての人々は、御母に親しく接しました。御子は人々に、御母に対する尊敬と献身の気持ちを起こさせました。御母は全員に話しかけ、全員を愛し、慰め、教え、因っている人々を助け、喜ばせました。各人がどれだけの実を結ぶかは、その人の心の持ち方次第なのです。

 人々は御母の賢慮、智恵、聖性、威厳、謙遜、親切、優しさに感じ入りました。主が御母を口で称賛しようとして、されなかったように、使徒たちも沈黙の内に御母を愛し、御母の造り主を讃美しました。御母は一人一人の使徒の本来の性格、恩寵の状態、現状と将来の役割をよく見抜き、この知識に基づいて使徒たちのために神に祈願し、それぞれ適切な指示を与え、各々の役目を助けるための恩恵を願いました。御母の熱心さば主の喜ばれるところとなり、天使たちの尽きることのない称賛の的となりました。御母の取次により与えられた恩恵に使徒たちが応じることは、全能なる神の御摂理であり、人間には慢され、天使たちには知らされ、大いに讃美されたのです。これらの恩恵を特別に受けたのは聖ペトロと聖ヨハネです。聖ペトロはキリストの代理者、戦闘の教会の頭になることになっていましたし、聖ヨハネは主の御受難の後、主の代わりに御母の世話をすることになっていました。使徒たち全員が御母に対して献身することは、私たちの理解力を越えます。福吉史家聖ヨハネは、神の都市である御母の神秘にもっと深く立ち入り、御母を通して神の啓示を他の使徒たち以上に受けました。受けたままに聖書に書いたのです。聖ヨハネは純潔の他に、鳩のような単純さ、優しさ、謙遜と柔和の諸徳も備えていました。柔和で謙遜な者は御子を一番良く見習う者ですから、聖ヨハネは御母から一番愛される使徒となりました。聖ヨハネも御母に一層の愛情を持って仕えました。主に召し出されて以来、一貫して聖ヨハネは他の使徒たちよりももっと良く御母に仕え、時々、奉仕の競争を天使たちと共にしました。一方、御母は謙遜に励み、諸聖人・諸天使以上に謙遜でした。

 私は悪い使徒ユダについて少し述べましょう。頑固者や、御母をあまり信心しない者にとって警告となります。ユダは私たちの先生であるキリストの強い教えに惹かれ、他の人たちと同じように善意で一杯でした。救い主キリストにお願いし、仲間に入れてもらいました。初め、ユダは功徳を積み、特別な恩恵を頂き、弟子たちの何人かを追い抜き、十二使徒の一人となりました。扱い主は分け隔てなく、ユダの恩寵の状態と善業をお喜びになりました。恩寵と慈悲の御母もユダを認めました。予知の賜物により御母は、ユダの不忠芙と背信に気付いていましたが、取次や母性愛を惜しむどころか、不忠実で不幸なこの人間が御子により救われ、ユダの悪さが人々を影響しないように、益々気を配りました。厳しく接するともっとえこじになるというユダの性格を良く判っている御母は、ユダの面倒をよく見て、他の人たちに対する時よりももっと優しくしてあげました。他の使徒たち以上に御母の愛情を頂き、ユダは感謝したのです。

 弟子たちが徳を積まず恩寵にも欠き、幾つかの失敗のために罪があるのを見て、ユダは自分の徳を鼻にかけ、他人の欠点ばかり探すようになります。自分の目の中の大きなゴミを気にかけず、人の目の中の小さなゴミが気になってしょうがないのです(ルカ6・41)。使徒たちの中で聖ヨハネを目の敵にして、おせっかい者で、主と御母に取り入ろうとしていると言います。この時点まではユダの罪は小罪です。しかし、自分の悪い性癖を益々増長させ、嫉妬したり、他人をひどくなじり、もっと大きな罪に進み、信心は減り、愛徳は冷たくなり、内的焔は消えます。使徒たちや御母のことが嫌いになります。

 御母はユダの欠点が増大して行くのを察知し、大変優しく、脇道正しく話してあげます。お陰でユダの心の中の嵐は静まるのですが、一時的に静まるだけで、またもや吹き荒れます。悪魔の侵入を許した以上、最も柔和な鳩である御母に対する激怒も暴れるままにさせておきます。ずるい偽善を装い、自分を正当化する理由を見つけ、自分の罪を否定したり、過小評価します。 イエズスや御母を騙せると思い、慈悲の御母を軽蔑し、御母の勧めを嫌がり、御母を批難することさえしでかします。ユダは恩寵を失い、自分自身の悪い考えに取りつかれます。御母の親切をはねつけると、主を嫌悪するようになるのは目に見えます。主の御教えに満足できず、使徒たちとの付き合いも面倒くさくなります。それでも神はユダに内的援助を続けます。御母も優しく、主にお詫びするように勧めます。お詫びするなら、御母が償いをするとまで言って下さいます。地獄に堕ちることよりも、堕ちまいと努めないことと、罪に浸りきることの方がもっと重大な悪であると御母は教えておられます。誇り高いユダは御母の勧めを拒み、自分は主や他の人たち皆を愛していると嘘をつきます。

 ユダの堕落のもう一つの原因について私は書くことにします。イエズスの周囲に大勢の人が集まってきた時、施し物の管理者が必要になるとイエズスは考えました。人々に応じるように言いましたが、皆は尻込みしました。ユダは直ちに管理者になろうとして、聖ヨハネに、御母に口をきいてもらいました。しかし、御母は、ユダの野心や貪欲が判っていたので御子に申し上げませんでした。ユダは聖ペトロに頼みましたが斬られました。しようがなくて御母に直接ぶつけたのです。御母は非常に優しくユダに答えました、「私の大事な子よ、あなたが何を頼んでいるのかよく考えなさい。あなたの意図が正しいかどうか、あなたの兄弟たちが恐れて拒んだことを求めるのは良いかどうかを思い巡らしなさい。主は、あなたが自分自身を愛する以上にあなたを愛しています。何があなたのためになるかをよく御存知です。主の聖旨に自分自身を任せなさい。人生の目的を再検討し、謙遜と清真の徳を積みなさい。」ユダの荒々しくて頑固な心は、御母の御言葉がしゃくにさわり訂した。際限のない野心と貪欲の心にとって、御言葉は侮辱でした。ユダは主に直接かけ合うことにしたのです。偽善になりきって言いました、「主よ、私は御身のご希望に添い、会計係を務めたいと思います。頂く施し物を分配する者として、貧乏人のことをよく考え、他人にしてもらいたいことを他人にするという御身の御教えを実行し、施しがもっと利益を上げ、もっと規則正しく行われるようにします。」この言葉は第一に、自分の本心を隠しています。第二に、他の人たちを批難して自分がうまくやれるという野心を示しています。第三に、神なる主を帖閑せると思っていますから、信仰心は零になっています。主はユダに警告しました、「ユダよ、汝は自分が何を求め、何を願っているか知っているか?自分を殺すかもしれない寿や武器を求めるほど、自分を痛めつけない方が良い。」 ユダは答えました、「主よ、御身の忠実な弟子たちに奉仕するため、全力を尽くします。その他のこと以上に上手にできます。会計係の仕事を間違いなくやり通す所)仔です。」 主はユダの言い分を認めました。

元后の御言葉

 私の娘よ、最後の晩餐に於て聖ヨハネに示された秘密の一つとして、彼が私に対する愛のため、主の愛弟子になったこと、ユダは私の慈悲と親切を嫌ったため堕落したことを、もう一度思い出して下さい。聖ヨハネは、私が主の御受難に参加することと、私の世話を自分に任せられたことを理解しました。聖ヨハネとユダのことは、励ましと戒めになります。私の愛を求め、あなたの功徳なしに与えられる私の愛を謹んで受けなさい。

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