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第五書・第六章

キリストの受洗と断食。聖母も断食する。

 べタニア、またはべクラバと呼ばれる街に近く、ヨルダン川が流れています。街と反対側の岸で、御子の先駆者聖ヨハネが説教したり洗礼を授けていました。そこに向かうイエズス・キリストは、それまでいつも一緒だった御母も、その他誰のお供もなく、全くひとりぼっちでした。御子は行く道の途中たくさんの所で、大勢の人たちの身体と霊魂の苦しみを和げました。しかも、こっそりとしてあげたのです。ヨルダン川に近づく前、御子は洗者聖ヨハネの心を新しい光と喜びで満たしました。これを感じ、洗者聖ヨハネは言いました、「これは何の神秘か? 私が母の胎内で我が主を感知した時より、このような喜びを感じたことはなかった。救世主が私のそばに来ておられるのか?」そして、知的な幻視を見て、御言葉が降臨し、人となられたことなどの神秘が明瞭になりました。福音史家聖ヨハネは、御子が砂漠におられたこと、ヨルダン川に来られた時のことを書き記しています。先駆者聖ヨハネは叫びました、「見よ、神の小羊を」(ヨハネ1・36)。主は群衆の仲間入りをし、その内の一人として先駆者聖ヨハネによる洗礼を敵ったのです。洗者は主の足許に平伏し、言いました、「私こそ御身から洗礼を受けなければなりません。御身が私の洗礼を求められるとは?」 救い主は答えられました。「今はそうしなさい。あらゆる正義を成就するためです」(マテオ3・13)。洗者聖ヨハネが我らの主の洗礼を終えた時、天が開き、聖霊が鳩の御姿で主の頭上に降り、御父の声が響きまtた、「これぞ我が愛子なり、我が心に叶う者」(マテオ3・17)。そばにいた人たちの多くは御声を聞き、聖霊が主の上に降りてくるのを見ました。このような恩恵に値しない人たちの見聞きしたことは、救い主の神性、御父の神性、証言の性質について確固たる証拠になります。また、御子は過ちも罪もないのに、罪の赦しのための洗礼を受け、謙ったのですから、この御子の名誉の証拠になります。

 御子が洗礼を受けたことは、御母は察知していましたが、天使たちの報告も受けました。天使たちは、救い主の御受難の盾を抱えています。御子の洗礼と神性の公表の神秘を祝うため、御母はいと高き神と、人となられた御言葉に対する讃美と感謝の新しい歌を歌いました。人々が洗礼の秘跡により御恵みを受け、洗礼が全世界で行なわれるように祈りました。被造物の手から洗礼を受けて謙った御子を、自分と一緒に天使たちが崇めるように願いました。

 洗礼の後、直ちに我らの主イエズス・キリストは砂漠に入りました。天使たちがお供をして、主が人類を救おうとしておられることを讃えました。草木に被われていない突き出た岩壁の間に、格好の洞穴のある所に来たイエズスは、そこを自分の隠れ家となさいました。地面に伏し、永遠の御父を讃美し、御父の御業と、この洞穴を与えて下さったことを感謝しました。御自分にこの隠遁の場所を与えてくれた砂漠にも感謝しました。十字架の形をして主は、人々の救いのため、永遠の御父に祈り続けました。ここで四十日間完全な絶食を耐え忍びました。流行している意地汚い貪食・大食の罪と混乱に対する償いとして、御自身の断食を永遠の御父に捧げました。主は他の全ての悪徳も克服しました。人間の諸悪による破壊に対する償いを永遠の裁判官なるいと高き立法者にしました。我らの救い主は、最初は御父に対する仲介者となり、後に説教者・教育家となったのです。

 神の子供である人間が諸々の大罪を犯したので、最も恐るべき罰を受けなければならなくなったので、人々をそのような将来の過厳さから救うため、神は所有しておられる全てを犠牲にしました。つまり、御子イエズス・キリストがその犠牲になりました。御子は我々の貪欲に対して貧しくなり、我々の卑しい色欲に対する罰として厳しい戒律の生活を送り、我々の復讐心や怒りに対して柔和と愛徳を実行し、我々の怠慢に対して絶えざる労働を続け、我々のごまかしや嫉妬に対して公正な誠実、真実、優しさで応じました。このようにして主は、公正な裁判官である神の聖心を宥め、不従順な私たちの赦しを乞い、更に新しい恩寵を私たちに得て下さいました。お桧で私たちは主の友だちになれ、主の御父の御顔を拝見し、永遠に主と共に神の子供となる資格を頂きました。私たちにこのような恩寵全てを下さるために、御子ははんの少しして下さるだけで十分でしたが、御子は有り余る愛情を私たちに注いで下さいました。どのようにして私たちは恩知らずを通し、頑固に心を閉ざすのでしょうか?

 御子が断食されていることは、啓示と幻視により御母によく判っていましたが、天使たちはいつも御母に報告しました。天使たちは御両人のメッセージを相互に伝えました。従って御二人はいつも同じ祈りを同じ時に唱えました。御子が断食を始めるのと同時に御母は祈り部屋に四十日間引きこむり、一切食べませんでしたので、隣人は、御母は御子と共に旅に出たと思い込みました。

 御子が砂漠で祈った時、御母も祈り部屋で粍きました。御子のなさった全てを御母は尭似して行いました。御母は御子の助手となり、私たちの仲介者となりました甘

 我らの救い主イエズス。キリストは、イエズスも蟄なる義人に過ぎないというルシフェルの思い込みを、思い込むままに放って置かれたので、ルシフェルはこの義人に挑戦しようと執念を燃やし、誘惑して負かそうとします。この砂湊の戦いで、イエズスの手強さがすぐに判り、地獄の全軍団を叱咤激励し、イエズスに総攻撃をかけました。イエズスはルシフェルに対し、神の智恵、善、正義、公平を武器にしました。人間として闘う以上、イエズスは永遠の御父にお醜いせざるをえませんでした、「我が御父にして永遠なる神、私は敵と開戦し、相手の攻撃力を砕き、高慢な鼻を潰し、私の愛せる民たちに対する悪意を止めさせようと思います。ルシフェルの思い上がりに対戦し、彼の頭を打ち砕きたいと望みます。そうすれば、過失のない人々が彼に攻撃されても、彼は既に負けたのだと見てとれるのです。御父よ、私たちの敵に人々が勝つため、人々を強めて下さい。私の勝利を見て励まされ、勝つ方法を知りますように。」 この闘いは、天使たちや御母が目撃するところとなりました。御断食の三十五日目に始まり、四十日目まで続きました。ルシフェルは人間の姿で赤の他人として現れました。天使のように光に包まれていました。長い断食の後、主が空腹で因っていると考え、言いました、「あなたが神の御子なら、石がパンになれと言いなさい」(マテオ4・3)。この質問は、主の関心は何かを知ろうとするためでしたが、主は言葉少なに答えられました、「人の生くるはパンのみにあらず、神の御口より出ずる全ての御言葉のためなり。」

 この御言葉ではね飛ばされそうになったルシフェルは決して弱みを見せず、戦いをあきらめませんでした。主はルシフェルの挑戦を受け、神殿のてっぺんまで運ばれることも許しました。ルシフェルは、この高い所から主が身投げしたいような衝動にかられるようにしました。主が落下し、かすり傷一つ負わないのを下の群衆が見れば、主を神の偉人と宣言することになるでしょう。聖書の言葉を引用してルシフェルは言いました、「あなたが神の子なら、身を投げなさい(詩編91・11)、神は天使たちに命じ、あなたを途中で受け取り、あなたの足は下の岩に当たらないと聖書にある」(マテオ4・6)。この時、無数の悪魔たちが主の周りに集まったので、地獄はからっぼでした。主は御答えになりました、「汝の主なる神を試むべからずの御言葉も記されたり」(申命6・16)。この柔和、謙遜、威厳に満ちた言葉はルシフェルを打ちのめし、勝敗を決したかのようでした。

 それでも、もう一つの方法でルシフェルは主を攻めました。主を高い山の頂上に連れて行き、方々の国々を見せ、言いました、「もしも平伏して私を拝めば、これらの国々全部をあなたにあげよう」(マテオ4・9)。ルシフェルは何も持っていません。地球、塁、王国、主権、富も宝も全て主の物です。ルシフェルの約束はでたらめです。王なる主は威厳をもって答えました、「気違い、去れ、悪魔よ、汝の神なる主のみを崇め、主にのみ仕えるべしと書かれたり。」 この御言葉と共に、主はルシフェルと部下の軍団を地獄の最も深い底に投げ込みました。彼らは深い洞穴に叩きつけられ、埋め込まれ、三日間、身動きできませんでした。やっと起き上がれた時、自分たちを圧倒した御方が人となられた神の御子かもしれないと思いましたが、救い主の御死去まではっきり判らないままでいました。ルシフェルは激怒して体中を震わせました。

 勝利の我らの主は、永遠の御父に讃美と感謝の歌を歌いました。大勢の天使たちも参加し、主を砂漠に連れ戻しました。

 ナザレトでは御母が御子の戦いの様を全部目撃しておりました。天使たちも絶え間なく御子と御母の間を行き来してお互いのメッセージを御二人に伝えたので、御母は御子の祈りを繰り返しました。御子も同時に御母の祈りを唱えました。御母もルシフェルと部下たちを叱りつけました。悪魔たちが御子をあちこちに運んだ時、御母は、はらはらと涙をこぼしました。御子が勝った時、御母は神と御子の至聖なる人性を讃える歌を作詞し、天使たちがそれを作曲しました。御子は喜びを御母に天使たちを通して伝えました。

 私たちの主はヨルダン川に向かいました。そこでは洗者聖ヨハネが説教と洗礼を続け、主を待ち焦がれていました。主が来られるのをもう一度見て彼は叫びました、「見よ、神の小羊を、世の罪を除一き給う御方を。私の後に来られる方は私に先んじておられる。私の生れる前からおられるからであると私が言ったその御方である。私はこの御方をよく存じ上げなかったが、イスラエル中に有名になるであろう。この御方の先払いとして私は水により洗礼を授ける。」

 この場所に居合わせた者二人が主の最初の弟子となりました。この二人は、聖ペトロの兄弟である聖アンドレアと聖ヨハネです。聖アンドレアは直ちに兄弟の聖ペトロ(当時の名前はシモン)を呼び出しました。主は聖ペトロに言われました、「汝はヨナの子シモンなり。今よりケファ、つまりベトロ(岩)と呼ばれん。」 この時、ユダ地方にいましたが、翌日、主の一行はガリラヤの地に入りました。そこで主はフィリッポを召されました。フィリッポはナタナエルに、ナザレトのイエズスは救い主であると伝えたので、ナタナエルは第五番目の弟子となりました。この五人の心の中に主は神の新しい火を燃やし、たとえようもない賜物と祝福を与えました。粗野で卑しい状態の五人が、神聖な高い地位に到達できたのは、主の忍耐、柔和と愛徳の素晴らしい見本を見たからです。

 御母は、弟子たちの召命や御子の説教の様子を天使たちから知らされ、弟子たちを神に捧げ、讃美と喜びの歌を歌いました。弟子たちは御母に会いたいと切望したので、主はナザレトに向かうことにしました。行く先々で説教し、自分が真理と永遠の生命の主であることを宣言し、人々を魅了しました。寅乏人や困窮者に手を差し伸べ、病人や悲しむ人を慰め、病院や牢獄を訪れ、人々の霊魂と身体に慈悲の奇跡を行いました。主の一行が近づいているのを御母は知り、歓迎の準備をしました。御母が主に対し心からの謙遜と崇拝を示したのを弟子たちは見て、主に対する献身と畏敬の念を新たにしたのですや自分たちの女王の前に弟子たちは跪き、御母の子供・僕として下さるように敬いました。第一に口火を切ったのは聖ヨハネで、その時から御母を崇め、尊ぶことに於て一番でした。御母も聖ヨハネを特別に愛しました。聖ヨハネは純潔の徳に於て優れ、柔和と謙遜の性格でした。

 御母は弟子たちに食物をごちそうし、御子のそばでは距いて給仕しました。同時に弟子たちに、先生である救い主の威厳とキリスト教の偉大なる教義について話しました。同じ夜、使徒たちが就寝した後、救い主は御母の祈り部屋に来られました。長年なさったように、御母は主の足許に跪き、自分は地上の塵のような不用物であると告白しました。主は御母を床から引き起こし、生命と永遠の救いについて静かに落ち着いて話されたのです。この時、主は御母に今まで以上の尊敬をホされ、御母に相応の功徳を与えようとされました。

元后の御言葉

 私の娘よ、御子の弟子たちが大喜びで頑張り合う様を見て嬉しく思います。特に聖ヨハネは私の大好きな僕です。聖ヨハネは鳩のように純敢・率直で、私を愛するので、主の御目に叶う者となりました。聖ヨハネを見習い、どんな小さなことにも失敗せず、自己愛を棄て、この世の興味、つまり原罪の結果を消し、鳩のような誠実さと単純さを獲得するように。主はあなたに天使の光と知恵を下さり、助けて下さるでしょう。

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